182.「愛情という呪い」
亀裂の先に広がる暗闇に、彼女の紫の肌と白衣が映える。
追撃のために放たれたスパルナの刺突は、メアリーの身体に到達することはなかった。大量の爪が絡み合い、彼の大剣を固定している。あの様子では引き抜くのも簡単ではない。
スパルナは武器を掴まれ、やむを得ず動きを止めるだろう――というのがメアリーとビクターの読みに違いない。残念ながら、わたしの知っている彼は、もっと無謀なのだ。
――彼の身体が霧のように揺らぐ。尋常でない速度で動いたことによって、残像が残っているだけだ。
誰のものかも分からない、息を呑む声が聴こえた。亀裂の方向からだ。スパルナの声とは違う。ならば、声の持ち主はひとりだ。思えば、はじめてメアリーの声を聴いた瞬間だった。そして、それはもう二度と訪れないだろう。
――空気が破裂するような、豪快な音が鳴り響く。そしてメアリーの身体がくの字に折れ曲がった。
「メアリー!!」
博士の絶叫が広間を震わす。
大剣を手放し、メアリーの腹に拳を叩き込んだスパルナ。一切の情け容赦なく放たれた攻撃は、彼女を闇夜の先へ吹き飛ばした。折れた爪が散乱する軽い音が鳴る。
――それだけでは終わらなかった。
スパルナは翼を広げ、宙へ吹き飛ばされたメアリーへと接近してゆく。目を凝らすと、彼の全身が彼女の爪によって貫かれるのが見えた。――が、まったく気にする様子なんてない。
心臓が高鳴る。
スパルナは彼女の胴へ、打ち上げるように拳を放った。
――思わずダフニーでの光景を思い出す。リッチを葬ったハルの拳も、ちょうどあれくらいの豪快さだったはずだ。
空震が響き渡り、やがてメアリーの身体は遥か先の森へと消えていった。あとは夜の静寂が広がっているばかりである。スパルナの拳が鳴らした致命的な音響は、まるで夜明けの足音のように感じた。
ビクターの作り出した夜は、同じく彼によって生み出された存在によって葬られる。彼の卑劣な実験でも消すことの出来なかったスパルナの魂――英雄を望む心が夜を終わらせるのだ。
「もうなにをしたって取り返しはつかないわ。あなたの負けよ、ビクター」
ビクターはただただ亀裂の先を見つめていた。そこになにを見出しているのかは分からない。
「負けか……。そうか……君たちにとっては勝ち負けの問題なのだな。……実に前時代的だ。私はそんなステージに立っていない。未来さえ――」
「あなたが未来を見ることはないわ」彼が戦意を失って、女王胞子を安全に手放してくれさえすればそれで良かった。「もし、その汚らしい指で摘んだ女王胞子を潰すようなことがあれば、あなたの息の根を止める。誓ってもいいわ。もし生きていたいのなら、大人しく胞子を瓶にしまいなさい」
ビクターは憔悴したように肩を落とした。そして長いため息を吐き出す。憂鬱が色濃く表れていた。
「メアリーは負けたかもしれないな。しかし、私が女王胞子を手放すと思ったか? ――実験はひとつ上のステージへと移行する。一気に規模を広げ、私の研究を花開かせよう。これからは実践の段階だ」
ビクターの言っている意味が分からなかった。実践?
わたしが言葉を返す前に、甲高い叫びが広間を裂いた。
「ビクター! 貴方、なにを言っているの!? まだ準備は整ってない! それに、メアリーもやられたじゃないの……!」
準備?
まだなにか企んでいるのか、こいつは。ビクターを睨むと、彼は平然と肩をすくめた。
「エリザベートの言葉は気にするな。彼女は自分の築きあげた地位が心地良くなってしまった哀れな人間だ。……もうグレキランスへの侵攻は実質可能な状態なのだよ。メアリーのような存在を量産する準備は整っている。まだ粗いがね。あとは――新鮮な死体があれば事足りる」
ぞわり、と背を悪寒が走る。新鮮な死体。女王胞子。縮小吸入瓶に収められた魔物。すべてが黒々と合致する。
ビクターは今まで『アカデミー』や『ラボ』でおこなっていた実験を、ハルキゲニア全体に対して実施するつもりなのだ。住民を全滅させ、その死体を蘇らせる。無論、グレキランス侵攻のための戦力として。
メアリーほどの戦力を持つ存在が千体以上生まれたらどうなるだろう。本当に王都が揺さぶられかねない。
解放された魔物は住民を襲い、死に至らしめる。その死を、ビクターが横から奪い取る……。
なんて醜悪でおぞましい光景だろう。
「……斬るなら斬るといい。しかし、私の見立てでは君には出来ないな」
気が付くとサーベルの刃をビクターの首に当てていた。刀身が震える。こうするべきなのかどうか分からない。斬っても斬らなくても結末が同じなら、この悪魔を仕留めなければならないのではないか……?
「ビクター! まだ時期尚早よ! 騎士団を立て直す時間を――」
絶望的に叫ぶエリザベートを、ビクターは視線だけで黙らせる。ぞっとするほど冷たい目をしていた。心の底から軽蔑しているような、そんな目付きだった。狂気という言葉では足りないほどの圧力。
「エリザベート。お前は私に命じたではないか。全ての罪悪感から解き放たれて好奇心に身を委ねよと。だからこそここまで歩むことが出来た。……私は感情抜きで、今ハルキゲニアを崩壊させるべきだと考えているのだよ」
先日読んだビクターの手記が頭に蘇る。彼は『鏡の森』でメアリーを犠牲にすることを決めたきっかけとして、女王の言葉を挙げていた。
「エリザベート。あなたは……ビクターに支配魔術をかけたの……?」
その探求心を満たすように。倫理や道徳を振り払って好奇心を最上とするように。
支配魔術という語を耳にした彼女は目を見開いたが、やがて力なく床に手を突いた。その反応だけで充分だ。
しかし、とんでもない魔術師だ。禁魔術である支配魔術を、ドレンテとビクターの両方にかけ、どちらも維持しているとは。
「ドレンテさんとビクターに支配魔術をかけて、よく魔力が枯渇しないわね」
軽蔑の意味で発した言葉である。しかし、返ってきたのは意外な返事だった。
「……三人よ」
「え?」
三人?
「ドレンテとビクター……。そして、一番最初はあたくしの可愛い娘に……」
三人分も支配魔術を維持しているとは想像もしていなかった。実際どれほどの魔力を消費するのかも分からなかったが、今の彼女には魔力の欠片すらない。
「娘を王都から救い出したいんだろう? なら、今を置いて好機はない」
煽るビクターの首に刃を押しつける。その皮膚から、つう、っと血が流れ出した。
「そう……あたくしはあの子を救い出したいの。きっとひとりぼっちで寂しい思いをしているから……。それに、あの子はあたくしがいないと駄目なの! たったひとりでも一流の魔術師になれるように、頑張ってくれるように、あたくしは支配魔術をかけたの……でも駄目! あたくしがいなきゃ……」
一流の魔術師になるように努力を惜しむな。そんなふうに自分の娘の自由意思を捻じ曲げたなら、とんだ親馬鹿だ。そんなもの、子供にとっては呪い以外のなにものでもない。
「あなたの狂った執着のせいで、きっとその子は辛い思いをしているでしょうね。魔術の訓練をやめたくてもやめられないなんて……。自由を奪う権利なんてあなたにはないのに」
「うるさい! 小娘のくせに知ったような口を利かないで頂戴! あたくしはあの子のために――」
「それが余計なのよ。……きっとその子も、あなたなんかに助けてほしいとは思っていないわ。自分の母親が街を巻き込んで醜い作戦を立てているだなんて知ったら正気じゃいられないわね」
エリザベートがこちらを鋭く睨む。唇を噛み、敵意を剥き出しにしていた。
好きなだけ睨むといい。勝手放題は今日で終わりなのだから。
「馬鹿げた親なのは同感だ。しかし、一応あれでも私のスポンサーでね……。罵倒はそこでとどめておきたまえ。君はエリザベートの執着に付き合っている暇はないんじゃないかね?」
言って、ビクターは女王胞子を摘んだ指を持ち上げた。今それを潰されたら街は悲劇に覆い尽くされる。
「私を傷付けることも、胞子を潰すトリガーになるとは考えないのか? 君はまるきり頭を使っていないようだ……。ハルキゲニアはすでに私の手中にある。ここまで実に地道な準備を整えてきた。それが実を結んだだけの話だよ。一夜で逆転出来る程度のものではない。理解したなら、サーベルを納めたまえ。この場を退くというなら、君に免じて胞子は潰さないでやろう」
刃が震える。怒りなのか、悔しさなのか。あるいはその両方か。
「――それとも、斬るかね?」
呼吸の仕方を忘れたように、息苦しい。ビクターの顔が歪んで見える。頭がまるで回らない。
わたしは必死の思いで――それが正しいのかどうかはさておき――サーベルを鞘に納めた。カチリ、と柄が音を立てた瞬間、足の力が抜けて座り込んでしまった。
見上げたビクターは、満足気な微笑を浮べている。
「よろしい。正直者は嫌いじゃない。しかし、厄介者が帰ってきたようだ」
ビクターが目を向けた先――亀裂からスパルナが姿を現す。メアリーの追撃を終えて舞い戻ったのだ。
「ボリスも戻ってきたところだ。私からひとつ提案がある。……君たちは間違いなく猛者だ。それほどの力があればもしや、と思わないでもない。つまり、街中に放たれた大型魔物の討伐をし遂せるのではないだろうか」
やめて、と叫ぼうとしたが声にならない。口の中はいつの間にか、声を殺すかのごとく乾いていた。
スパルナが床に転がった大剣を掴んだ直後、ビクターの指に力が入るのが分かった。
胞子は潰さないんじゃ――。
――ぷち。
ビクターの指の間で、女王胞子が小さな、しかし決定的な音を立てて潰れた。
「お嬢さん……君には悪いが、ボリスを放っておくわけにはいかないのだよ。非常に愚直で、なおかつ強い。彼には少し、ここから離れてもらわなければ――」
ビクターは言葉を切って広間の先――わたしが進んで来た方角へ視線を注いだ。
靴の音が聴こえる。それは一定のリズムを刻んでいた。
聴き慣れた靴音。振り向かないでも、背後から寄るのが誰なのか分かった。遅いよ、馬鹿。
「これはこれは……ご機嫌麗しゅう、女王様。そしてビクター博士」
わたしは、ヨハンを振り仰いだ。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『メアリー』→ビクターの妻。既に亡くなっているが、ビクターの実験によって蘇った。意思はないとされている。詳しくは『153.「鎮魂と祝福、祈りと愛~博士の手記~」』『154.「本当の目的地」』参照
・『スパルナ』→人型魔物。英雄を目指す律儀な青年。一時的にシェリーを保護していた。本名はボリス。詳しくは『第三話「軛を越えて~③英雄志望者と生贄少女~」』『178.「白銀の翼」』にて
・『ボリス』→ビクターが最初に作り出した人造魔物。元々は人間の死体。スパルナと同一人物。詳しくは『154.「本当の目的地」』『178.「白銀の翼」』にて
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『ダフニー』→クロエが転移させられた町。ネロとハルの住居がある。詳しくは『11.「夕暮れの骸骨」』にて
・『リッチ』→呪術を使う魔物。ゾンビを使役する。詳しくは『16.「深い夜の中心で」』参照
・『ハル』→ネロの死霊術によって蘇った少女。メイド人形を演じている。元々はアカツキ盗賊団に所属。生前の名前はアイシャ。詳しくは『第一話「人形使いと死霊術師」』参照
・『爆弾胞子』→森に生える菌糸類の一種。衝撃を与えると爆発する。詳しくは『147.「博士のテスト・サイト」』にて
・『女王胞子』→『爆弾胞子』の一種であり、それを起爆させるトリガーになる。詳しくは『147.「博士のテスト・サイト」』にて
・『グレキランス』→クロエの一旦の目的地。通称『王都』。
・『縮小吸入瓶』→付近にあるものを縮小させ、吸入してしまう小瓶。ビクターの発明した魔道具。彼は魔物を詰め込んで使っている。詳しくは『147.「博士のテスト・サイト」』にて
・『アカデミー』→魔術師養成機関とされる場所。実際はビクターの実験施設。倒壊済み。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』『121.「もしも運命があるのなら」』『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『ラボ』→ビクターの研究施設。内部の様子に関しては『158.「待ち人、来たる」』参照
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『支配魔術』→使用の禁止された魔術。他者の自由意思に介入する魔術。詳しくは『117.「支配魔術」』にて
・『禁魔術』→使用の禁止された魔術。王都で定められ、王都の周辺地域にのみ浸透しているルール。
・『ドレンテ』→ハルキゲニアの元領主。レジスタンスのリーダーであり、アリスの父。詳しくは『107.「トラスという男」』にて




