180.「紫色の夜明け」
サーベルを柄に持ち替え、手のひらの傷を眺めた。見たところ大して深くはない。少し違和感を覚えるくらいのものだ。
へたりこんだ女王を横目で流し、また一歩ずつ歩んでいく。彼女は大した敵ではなかった。やはり、一番の邪悪はビクターだ。
奴は魔力維持装置の前で、二人の戦闘をまじまじと見つめていた。目を剥き、口元を歪めて。さぞ気分の良い光景なのだろう。自らが生み出したと思っているものが、人間を遥かに超える力でぶつかり合っている。その心情は知りたいとも思わない。
見る限りスパルナとメアリーは互角に渡り合っていた。傷だけ見ればスパルナが押されているようだったが、それは些細なものである。むしろ正確かつ強力な大剣さばきは、彼の実力がメアリーを凌駕していることを示しているように思えた。
歩を進めつつ、その戦闘を観察する。
決して尽きない爪による攻撃を繰り出すメアリーに対し、スパルナは防戦を決め込んでいるようだった。隙をうかがっているのだろう。
跳び上がり、針のように爪を放つメアリー。身をかわし、爪を刃で一閃するスパルナ。もはやメアリーの攻撃は、残像をようやく追えるほどのスピードに達していた。それはスパルナも同様であり、手にしているのが大剣であることを抜きにすれば、わたしの高速の刃と同じくらいの速度に思える。
二人とも人間を超えていることは明らかである。彼らに対抗出来る者がいるとすれば、王都のトップクラスの実力者か、あるいは――。
ニコルの姿と思い浮かべ、小さく首を横に振った。彼のことを考えたって仕方がない。今は悲劇を終わらせるために尽力しなければならないのだ。
息はまだ上がっていない。おそらく慣れたからだろうが、痛みも先ほどより強くなかった。相変わらず頭の片隅では肉体の危険信号が鳴っていたが、気にしていたら進めない。
「私は間違っていなかった」
ビクターの呟きが聴こえた。彼はわたしなど目に入っていないように、ただただ二人を見つめている。
「人間は、魔物を超えたのだ。……これなら『黒の血族』にも匹敵する。彼らを量産出来れば、人類は夜を超越するだろう。嗚呼……夜明けの息吹だ。未来は近い……」
いかにも感動したような言葉。心から呟いているのだろうが、奴の歩いてきた道に転がる死体と血の湖は邪道を示している。そんなものが正しい未来に繋がっているだなんて、わたしは思わない。
「ビクター」
彼のそばまでたどり着き、静かに呼びかけた。無論、サーベルを奴に向けて。
「今いいところなんだ。邪魔をするな」
彼はこちらを一瞥したのみで、簡単に返した。その頭には実験体のことしか存在しないのだろう。どれだけ仰々しいことを口にしても、所詮はマッドサイエンティストでしかない。
「ビクター。わたしはあなたを許さない……。二人に夢中になっているあなたを斬るくらい、わけないわ」
「そうか。好きにしろ」
こいつはどこまで人を馬鹿にしているんだ。自分が今、殺されかけているのに――。
呼吸を整え、サーベルを振るった。
刃の先がビクターを裂く。彼の頬にひと筋の赤が走った。
息が荒くなる。
どうしてビクターはこちらを見向きもしないんだ。自分の頬を斬られてなお、少しも意識を向けないなんてあり得ない。首を飛ばされたら結局二人の顛末も確認出来ないのに……。
「なにを不思議がっているんだ、君は」
ビクターは横目でこちらを見て、呆れたように言った。そしてぶつぶつと続ける。「たかが頬を斬られたくらいで動じる男だと思ったかね? 私は実験のためなら全てを捧げるつもりでいるのだよ。自分の身もしかりだ。……見たまえ。メアリーとボリスが繰り広げているテストを。あんなにも心を揺さぶる光景はなかなかない。二人とも私の創り出した存在というのだから、感無量だ」
「メアリーもスパルナも、あなたの玩具じゃない」
「なにを当然のことを……。いかにも、彼女たちは玩具ではない。れっきとした存在だ。もてあそべるようなものではないのだよ、そもそもが。私はただ、未来の囁きを聴いているだけだ」
サーベルを握る手に力が入る。それと同時に、鋭い痛みが腕を中心に広がった。
「未来は、あなたみたいな醜い方法で切り拓くものじゃないわ。命を燃やして、苦しんで、そうしてやっと手にするものなのよ。でなければ価値が生まれない」
ビクターの口から乾いた笑いが漏れ出た。
「まるっきり小娘じゃないか、君は。そんな綺麗事で未来を掴めるのなら、世界はとうの昔に理想郷に到達している」
「あなたみたいな人間がいるから平和にならないのよ!」
「全く……君には呆れてしまうな。平和とはなんだね? 人間同士が争わないこと? 倫理や道徳を重んじること? はたまた、陳腐で非生産的な愛を謳うことかね? ……結構。確かに望ましい状態だ。しかし、人類はそれどころではないのだよ。夜は我々の天敵だ。猛獣のいる森であれこれと愉しく生活するのは間抜けだ。まずは敵を討つか、対抗手段を持たなければならない」
「魔術と魔具がある」
その二つによって人々は魔物に対抗してきたのだ。
しかしビクターは簡単に鼻で笑って見せた。
「ふん……魔術と魔具か。確かに良いツールだ。しかし汎用性はない。……そして、魔術と魔具があろうとも魔物はなんら変わらん。対抗手段を多く持ったはいいものの、結局現状維持にしか使えていないではないか。全く、絶望的な理想論だ。……私は違う。根本的に世界を変えなければ気が済まないのだよ。そのためなら、ほかの誰が倫理に反すると叫んで非難しようとも一向に気にならん」
「そうやって馬鹿げた実験を正当化しているだけじゃない。まるっきり詭弁よ」
「そう思いたければそれでかまわん。君はそうやって現状維持の沼のなかでどろどろと腐りながら沈んでいけばいいのだ」
とっくに理解していたつもりだったが、改めて認識せざるを得ない。やはり、ビクターは悪魔だ。そうやって正論の皮をかぶった詭弁を振りかざし、心の奥底にある好奇心をひたすらに満たそうとしている。彼は未来を愛してなどいない。結局のところ、自分自身の成果物しか愛せない変態的な人間なのだ。
「遺言はそれで終わりかしら?」
サーベルを振りかぶった瞬間、ビクターは白衣のポケットから小瓶を取り出した。内部には小さな白い球体。
女王胞子。一度『アカデミー』で見た代物だ。その胞子を潰されたらどうなるか……。
覚悟を決める。巨悪を相手にするなら、どんな残酷な人間になったってかまわない。かまわないんだ。
一閃。
――血がほとばしる。
ビクターは一瞬顔を歪めただけだった。小瓶が床で跳ねる。直後に、ぼとり、と音がして彼の指が落ちた。
「……ッ! ……随分と甘いじゃないか。指の数本くらいくれてやる。しかし――」
わたしの瞳を覗き込むビクターのもう片方の手には、すでに女王胞子の粒が摘ままれていた。
「本命はこちらだ。迂闊に武器を振り下ろさぬよう、注意したほうがいい。女王胞子は簡単に潰れてしまうからな。……君が気を取られたほうはダミーだ。どの爆弾胞子とも繋がっていない。しかしこちらは非常に重要でね……」
どくり、と心臓が強く鼓動する。指を斬られてなお平然と策略を張りめぐらすこいつは一体何者なんだ。本当に人間なのか?
「そう怯えるな」
言われてはじめて、サーベルを握る手が震えていることに気が付いた。怯えてはいない。そのはずなのに、どうして震えるんだ。
「年単位で我々はハルキゲニアを支配してきた。……その意味が分かるかね? 街中に縮小吸入瓶を設置することくらい造作ないと思わないか? ……もう一度言うが、こちらの女王胞子は本命だ。私が潰せば、ハルキゲニアは大型魔物に蹂躙される。それでも君はサーベルを振れるかね? 私が倒れた拍子に胞子が潰れない自信でもおありかな?」
脅しかもしれないし、本当に仕込んでいるかもしれない。それを判断することなど誰にも出来ないだろう。問題は、リスクを承知でビクターに斬りかかるかどうかだ。もし彼の言った通りだとすると、街は本当に壊滅する。今まで防御壁に守られてきた住民がどうやって魔物に対抗出来るというのだろう。
ハルキゲニア内で魔物の気配を感じたことは、確かにあった。『ラボ』や『アカデミー』がその筆頭である。ハルキゲニアはあまりに広い。全ての箇所で魔物の気配がないかどうかなんて確認出来るわけがない。マルメロで最初に、小瓶に収められた魔物の気配を感じたとき、それはすぐ見失ってしまった。それくらい有効範囲の狭いものなら気付けなくたって不思議ではない。
「……よろしい。そのままサーベルを下ろせ。頬の傷や指くらいならくれてやるが、命は困る。私は彼らを見届けねばならんし、まだまだ仕事が残っているのだ。君には想像もつかない偉大な仕事がね」
斬れ。斬ってしまえ。
頭のなかで叫ぶ声を必死で抑え込む。住民を全滅させるようなリスクを負うなんて出来ない。
なによりも悔しいのが、自分自身に甘さだった。命を奪うような隙があったにもかかわらず、わたしは頬に傷を負わすことしかしなかったのだ。彼に後悔を与えたくて、いや、動揺や謝罪がほしくて、中途半端な刃を振るったのである。
もしかすると、その甘さも見抜かれていたのかもしれない。だからビクターは最初の刃に動じなかったのだ。
大馬鹿者だ、わたしは。
「さあ、二人の勇姿を最前列で観ようではないか。ちょうど君も戦意を失ったところだしな」
ビクターの眼鏡の奥で、その瞳が冷たく輝いた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『魔力維持装置』→ハルキゲニアを囲う防御壁に魔力を注ぐための装置。女王の城の設置されており、子供の魔力を原動力としている。詳しくは『151.「復讐に燃える」』にて
・『スパルナ』→人型魔物。英雄を目指す律儀な青年。一時的にシェリーを保護していた。本名はボリス。詳しくは『第三話「軛を越えて~③英雄志望者と生贄少女~」』『178.「白銀の翼」』にて
・『ボリス』→ビクターが最初に作り出した人造魔物。元々は人間の死体。スパルナと同一人物。詳しくは『154.「本当の目的地」』『178.「白銀の翼」』にて
・『メアリー』→ビクターの妻。既に亡くなっているが、ビクターの実験によって蘇った。意思はないとされている。詳しくは『153.「鎮魂と祝福、祈りと愛~博士の手記~」』『154.「本当の目的地」』参照
・『王都』→グレキランスを指す。クロエの一旦の目的地。
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐。
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『ラボ』→ビクターの研究施設。内部の様子に関しては『158.「待ち人、来たる」』参照
・『アカデミー』→魔術師養成機関とされる場所。実際はビクターの実験施設。倒壊済み。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』『121.「もしも運命があるのなら」』『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『爆弾胞子』→森に生える菌糸類の一種。衝撃を与えると爆発する。詳しくは『147.「博士のテスト・サイト」』にて
・『女王胞子』→『爆弾胞子』の一種であり、それを起爆させるトリガーになる。詳しくは『147.「博士のテスト・サイト」』にて
・『縮小吸入瓶』→付近にあるものを縮小させ、吸入してしまう小瓶。ビクターの発明した魔道具。彼は魔物を詰め込んで使っている。詳しくは『147.「博士のテスト・サイト」』にて
・『マルメロ』→商業の盛んな街。タソガレ盗賊団のアジトから近い。詳しくは『47.「マルメロ・ショッピングストリート」』にて




