179.「一対の紫。一対の花」
ビクターの瞳が冷たく揺らぐ。口元には奇妙な笑み。好奇心を抑えきれないような、そんな顔だった。
ビクターが一歩後退し、そんな彼をかばうかのようにメアリーが前に立った。
「嗚呼!」と叫びを上げて奴が額に手を当てた。「ここに二人の『成果』が立ち、敵として対峙している! 出来ることなら傷つけ合ってほしくない! しかし――なんと哀しい性だろう!! 私は君たちがどれほどの存在か確かめたくてたまらないのだよ!! 嗚呼! きっと結末は残酷なものになるだろう……だが! 安心してくれ。君たちの肉片は私が拾って糧にする。未来への切符にしてやろう。……メアリー! ボリス! 君たちを心の底から愛している!! だからこそ――」
大きく息を吸う音が鳴る。それは魔物の唸り声によく似ていた。
「――殺し合ってくれたまえ」
彼の低い声を合図に、メアリーが身を落とした。スパルナに折られた爪が、即座に元の長さまで伸びる。
――始まる。
そう思った瞬間には鋭い音が広間を裂いた。メアリーの爪とスパルナの大剣がぶつかり合ったのである。火花が次々と散り、スパルナの身に細かい切り傷が刻まれた。舞う血が床を彩っていく。それでもスパルナは大剣で防御を続けていた。その瞳はメアリーを正確に追っている。
なにかおかしい。
ハイペリカムの泉でスパルナと共闘したときのことを思い出して、違和感が膨れ上がった。あのときの彼はラーミア相手に明らかに苦戦していたのだ。
今の彼は一見劣勢に見えたが、決してそうではない。致命的な攻撃は瞬時に大剣で弾き、浅い傷だけを敵に許している。以前よりも敵への対応スピードが格段に上昇しており、的確だ。
一体彼になにがあったのか。それがシェリーの助けを求める声と無関係だとは思えなかった。ハイペリカムの防衛でこれほどの技術をつけることは不可能だろうし、背中の翼も妙である。なにかが彼の進化を促したとすれば、シェリーを除いて誰がいるというのだろう。
「スパルナ! がんばれぇ!」とシェリーが叫ぶ。その幼い声を聴き、彼はあろうことかこちらを振り向いた。そして柔らかく微笑んだのである。
その間もメアリーの攻撃は苛烈さを増していたが、スパルナは横目で見つつ的確に弾いている。
もしかすると、と思わずにはいられなかった。今の彼ならメアリーを撃破出来るかもしれない。
と、不意にメアリーの身体が揺らめいた。その直後のことである。
一直線にシェリーへと向かったメアリーを、スパルナの大剣が薙ぎ払った。――が、メアリーは瞬時に爪で防御し、吹き飛ばされたのみである。その身を空中で反転させ、着地と同時に爪を放つ。
スパルナに三本、わたしとシェリーに一本ずつ、弾丸のごとく爪が伸びる。
思わずシェリーを引き寄せて身を屈めたが、致命的な一撃はやってこなかった。スパルナの大剣によって粉々に折られた爪が宙に散る。
胸の奥がどくどくと高揚した。こんな状況は想定していない。まるで本物の英雄みたいだ。スパルナは今、シェリーの守護者として、そしてビクターに捕らえられた子供たちの救世主として戦っている。ちょっと嫉妬してしまうくらいだ。
深呼吸をすると胸が痛んだが、先ほどよりはやわらいでいる。これもスパルナの影響だろうか。
ノックスを抱いていた腕をゆるめると、彼はぼんやりとわたしを見上げた。シェリーはというと、夢中になってスパルナを見つめている。そんな二人の頭に手を乗せ、ほんの少し撫でた。
「ノックス、シェリー……。ここで大人しくしていて頂戴。……わたしは悪い大人たちをやっつけてくるから」
二人分の頷きが返ってくる。素直な子供たちだ。本当に、生きていてくれて良かった。
あとは今のわたしが出来る仕事をするだけ。スパルナだけに任せているわけにはいかない。
立ち上がると、さすがに激しい痛みが走った。奥歯を噛んでこらえ、歩き出す。メアリーに蹴り飛ばされた武器を拾う必要があった。
一番厄介な敵はスパルナが相手をしてくれている。ならこちらは残る二人の悪党を屈服させ、長い悪夢を終わらせなければならない。
一歩踏み出すと腰から背を中心に、電流が駆けめぐるような感覚が広がった。駄目だ。それでも足を止めたら駄目なんだ。
当たり前のようにしてきた『歩く』という行為がどこまでも困難で、途方もない努力と精神力を要求していた。歯を食いしばり、倒れそうになる身体を叱咤して足を動かし続ける。
こんなものじゃない。
ハルキゲニアの苦しみは決してこんなものじゃないはずだ。血を吐き、命を踏みにじられ、肉体をもてあそばれ、それでもなお、とどまることを知らない地獄の連続。ここでわたしが感じている痛みなんて無に等しいくらいだ。きっと、そうなんだ。
だから、動け。
――ハルキゲニア騎士団に殺された罪のない人々。
――女王に蹂躙されたレオネルとドレンテ。
――命を消し飛ばされた盗賊たち。
――ザクセンに操られた子供たち。
――残酷な死を強要されたセシル。
――魔物ながら生活を脅かされ、生命をズタズタにされたオルガとイリーナ。
――ビクターによってもてあそばれたあらゆる命。
なんて重いんだろう。それでも一切を知って、ここで終わりにしなければならない。明日昇る陽はハルキゲニアという魔術都市を正しく照らすだろう。今日と明日とでは、朝陽の意味が変わらなければならない。今は、長い夜に脅かされているだけだ。
大丈夫。陽はまた昇る。
必死の思いで歩いていると、甲高い靴音が聴こえた。いかにも質のいいヒールの音。こちらも足を速めてサーベルを目指す。痛みで身体がバラバラになってしまいそうだ。
女王――エリザベートはこちらの狙いに気付き、先に武器を奪おうと駆けているのだ。自分自身が優位に立ち続ける方法をどこまでも心得ている奴……。
背後では鋭い音が狂おしいリズムで鳴り続けている。スパルナも力を振りしぼって戦っているのだ。ここで女王に出し抜かれるわけにはいかない。
――あと三歩あればたどり着く。
あと二歩。
一歩。
転ぶように伸ばした手は、しかし、空を掴んだ。
あとわずかのところで、女王が先にサーベルを手にしたのだ。倒れ込んだわたしの頭上から荒い呼吸が聴こえる。ふわり、と花の香りが漂った。
「はぁ、はぁ、はぁ……あたくしのほうが……はぁ……速かったみたいね。貴女の負けよ……グレキランスのお嬢さん!」
両の拳を床に突く。そして力を振りしぼって立ち上がった。
女王の目はこちらを鋭く射ている。その手にはサーベルが握られていたが、どう見ても重さに耐え切れていない。切っ先は情けなく下がり、柄を掴んだ両手はぷるぷると震えていた。
「動かないで頂戴! あたくしが容赦すると思ったら大間違いよ!」
言って、エリザベートは高々とサーベルを振り上げた。後ろに重心がかかったのか、少しふらつく。
確かに、彼女はそれなりの度胸がある。敵に接近する危険を冒してでも武器を奪いに来たのだ。ただの傍観者が出来ることじゃない。
「動かないで!」
そう叫ぶ女王を無視して、一歩、足を踏み出した。
エリザベートの口元が歪む。もう一歩、進んだ。
すでにサーベルの有効範囲に入っている。にもかかわらず彼女は振り下ろさなかった。刀身の長さを理解していないからなのか、あるいは別の理由か。
「ほ、ほ、本当に斬るわよ!?」
「やって見なさいよ」
真っ直ぐ見据えると、彼女の腕がゆるく脱力するのが見えた。
「あっ……!」というエリザベートの声とともに、中途半端にサーベルが振り下ろされる。落下速度そのままといった具合だったが、それはちょうどわたしの額に向かって来た。ご丁寧に、刃をしっかり向けて。
なぜだか、このときばかりは痛みを感じなかった。多分、エリザベートに対する怒りがあまりに大きかったからだろう。
「え……あ……え……」
エリザベートが口をぱくぱくと動かしている。なにを驚く必要があるのかさっぱり分からない。わたしはただ、振り下ろされた刃を片手で掴んだだけだというのに。
つうっ、と刀身に血が伝う。彼女は「ひっ」と短い叫びを上げて柄から手を離した。
サーベルは刃をわたしに支えられ、振り下ろされたそのままの格好で止まっている。
ぱき、と音が鳴ってエリザベートが尻もちをついた。彼女の足元を見ると、折れたヒールが転がっている。
彼女の復讐なんてこんなものなのだろう。他人の力を使って薄汚い仕事をさせ、自分は花の香水を振りかけて優雅に暮らしている。王都への侵攻なんてこのていどの覚悟でしかなかったのだ。彼女自身に出来るのは、わたしの手のひらをほんの少し傷つけるくらいである。
床にぺたりと座り込んだエリザベートの瞳は、ぶるぶると震えていた。自分の両手を見つめて青い顔をしている。
「人を斬る覚悟もないのに、ここまで来たのね」
わたしの口から零れた言葉は、きっとエリザベートの耳には届いていない。なぜなら彼女は、自分が振るった刃が肉を斬った感触に怯えているのだから。たとえほんの少しであれ、衝撃的だったのだろう。頭の中はそれでいっぱいのはずだ。
「あなたの復讐ごっこはここで終わりよ」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『メアリー』→ビクターの妻。既に亡くなっているが、ビクターの実験によって蘇った。意思はないとされている。詳しくは『153.「鎮魂と祝福、祈りと愛~博士の手記~」』『154.「本当の目的地」』参照
・『スパルナ』→人型魔物。英雄を目指す律儀な青年。一時的にシェリーを保護していた。本名はボリス。詳しくは『第三話「軛を越えて~③英雄志望者と生贄少女~」』『178.「白銀の翼」』にて
・『ボリス』→ビクターが最初に作り出した人造魔物。元々は人間の死体。スパルナと同一人物。詳しくは『154.「本当の目的地」』『178.「白銀の翼」』にて
・『ハイペリカム』→ハルキゲニアの手前に位置する村。『第三話「軛を越えて~③英雄志望者と生贄少女~」』の舞台
・『ラーミア』→半人半蛇の魔物。知能の高い種。『86.「魔力の奔流」』に登場
・『シェリー』→ハイペリカムで保護された少女。クロエによって『アカデミー』に引き渡された。人懐っこく、気さく。詳しくは『94.「灰色の片翼」』『98.「グッド・バイ」』にて
・『ノックス』→クロエとともに旅をした少年。感情表現が薄い。
・『レオネル』→かつてハルキゲニアを魔物から守っていた魔術師。レジスタンスのメンバー。防御魔術の使い手。詳しくは『104.「ハルキゲニア今昔物語」』にて
・『ドレンテ』→ハルキゲニアの元領主。レジスタンスのリーダーであり、アリスの父。詳しくは『107.「トラスという男」』にて
・『ザクセン』→ハルキゲニアからの使者。笛の魔具を所有。『アカデミー』でグールに襲われ、命を落とした。詳しくは『98.「グッド・バイ」』『141.「ハルキゲニアの笛吹き男」』にて
・『セシル』→『アカデミー』の働いていた女性。ビクターの実験の犠牲者。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』参照
・『オルガ』→ビクターのもとで働く女性。イリーナの姉。冷静で、妹想いの性格。元々は魔物だったが、ビクターの実験によって人間にされた。『ラボ』で安らかに亡くなった。詳しくは『158.「待ち人、来たる」』付近参照
・『イリーナ』→ビクターのもとで働く女性。オルガの妹。泣き虫で、お姉ちゃん子。元々は魔物だったが、ビクターの実験によって人間にされた。『ラボ』で安らかに亡くなった。詳しくは『158.「待ち人、来たる」』付近参照
・『グレキランス』→クロエの一旦の目的地。通称『王都』。




