177.「震えも恐怖も哀しみも」
時間が巻き戻ればどれほどいいだろう。そうすればわたしは力を温存して、ビクターの突き立てた注射器を破壊することが出来たかもしれない。ハイペリカムでノックスとシェリーを引き渡すこともなかった。もっとさかのぼるなら、ニコルの求婚を受け入れることもない。そして、魔王討伐の旅に出るニコルをなんとしてでも止めただろう。
選択の連続が今という悲劇に繋がっているのなら、なんて呪わしいのか。
にじむ景色のなかで、注射器内の薬液が減っていく様子がはっきりと見える。ノックスの瞳の震えと、こらえるように握られた拳。ゆるむ口元。
薬液を全て注入し終えると、ビクターは一歩下がった。そしてノックスの様子をじっと見据えている。
「さて! 人事は尽くした! ノックス! 君は未来の礎になってくれるだろう!?」
ノックスが膝から崩れ落ち、頭を抱えた。
彼の身体が紫色に変化していく想像が、否応なく頭に侵入する。どうして彼ばかりが不幸を背負わなくてはならないのだろう。もし、その身に負うべき悲劇の量が決まっているなら、わずかでもわたしに背負わせてよ。ねえ。お願いだから……。
ノックスがよろよろとこちらへ這い寄る。まだ彼の身体は変異していなかった。それでも異常が起きていることは確かだ。彼の身体に満ちる魔力が、急激に増え、そして減っていく。それが繰り返されていた。
ノックスの顔が目の前まで来ると、胸が裂かれるような切なさに襲われた。
「ノッ……クス。……ごめ……んね」
どんなに痛みが走ろうと、言葉にしておかなければならなかった。
彼の指が近付く。その親指が――わたしの目尻を拭った。
まるで時間が止まったような感覚だった。彼は正気を保ち、そして、旅の道中と同様にわたしの涙を拭いたのだ。それが、魔物化する前の最期の心かもしれないと考えると胸がざわついた。
どこにそんな力があったのかは分からない。痛みすらも遠く感じる。――気が付くとわたしは、身を起こしてノックスを抱きしめていた。彼の心を、恐怖や悲劇から遠ざけてやれるように。破滅が決まっているのなら、せめて安らぎを与えてやろう。たとえ魔物化したノックスに殺されようともかまわない。
ビクターを睨むと、彼はいかにも不機嫌そうに眉をひそめた。そして腕時計に何度か視線を落とす。
「うーむ。なかなか変異しないな。前例のないほど強力な薬液なのだが……」
そうだ。ビクターは、今まで何度グールの血液を射ち込んでもノックスは変化しなかったと口にした。なら、複数の大型魔物の血液をブレンドした薬液を注入されても変異しない可能性だってある。きっと、そうだ。
ノックスの身体は震えていた。当然だ。これから魔物になるかもしれないのに心静かでいられるわけがない。彼の震えを止められれば一番だが、それが出来ないのならせめて――。
ノックスを抱く腕に力を籠めた。どれほど強く抱けているかは分からないが、温かな安堵が少しでも心に生まれてくれればそれでいい。震えも恐怖も哀しみも、全部わたしが掬い取って消してやる。
やがて彼の震えが止まった。その変化が凶兆でないことを祈る。
「どうしたことだ……まさか、ノックス。失敗だなんてことはないだろう?」
イライラと靴を鳴らすビクターを、エリザベートが睨んだ。
「見なさいな。なにが魔物の血よ。あの子は少しも変化しないじゃないの。貴方の実験なんてその程度のものなのね。あたくし、がっかりよ」
先ほどまで実験にうんざりしていたはずの彼女の口から『がっかり』が出るとは。結局は女王も実験の成果を心待ちにしていたのか。あるいは、なじるためだけに言葉をぶつけているかだ。
「ふん、好きなだけ罵倒するといい。私はこれまで素晴らしい成果を出してきた。それを知らぬわけではなかろう?」
「過剰な成果を喜ぶことなんて出来ないわ。貴方は必要な戦力だけを生産すればそれでいいのよ。……行き過ぎたことばかりやって結局はこのザマだなんて……あたくし、がっかりだわ」
エリザベートの目が愉快そうに歪んだ。彼女にとってノックスに変化がないことは、ビクターを罵倒する材料でしかないのだろう。腐ってる。
「勝手に落胆するといい……」
言って、ビクターは再度腕時計を見つめる。その眉間に皺が寄った。そして長いため息がひとつ。
ぎゅっ、とノックスをさらに強く抱きしめる。涙が止まらない。ビクターの反応を見る限り、ノックスの魔物化実験は実を結ばなかったということになる。漏れそうになる嗚咽をこらえて、ひしと抱いたノックスの、確かに人間的な体温と鼓動を意識した。
「……私も心底がっかりだ。……ノックス! なんだ君は! ただの失敗作だ。毒にも薬にもならないゴミではないか!!」
怒鳴るビクターを見据え、腹の底が冷えていくような感覚を得た。
『アカデミー』では愛だのなんだの口にしていたが、結局のところ、彼にとっての愛とは実験の成果に左右されるものでしかないのだ。なんて底の浅い愛だろう。そしてとことんまで薄汚い精神。
ふらり、と前方で影が駆けた。ビクターの背後から現れたそれは彼をすり抜け、わたしの前に立ちはだかる。そして気丈にもビクターと相対して、わたしたちを守るように両手を広げた。
「……シェリー……? 駄目……離れて……」
まだ完全に恢復し切っていないだろうに、シェリーは力を振りしぼって立っている。彼女の小さな身体は震えていた。
「お姉ちゃん……ノックス……死んじゃ駄目……」
かすれた幼な声。声音は震えていたが、芯を感じた。恐怖を押し殺して、それでもここに立っている。わたしとノックスを守るために。
ノックスを抱きしめたまま、彼女の肩を掴んでこちらまで引き寄せた。
「シェリー……ノックスを……連れて……逃げて……」
ひと言ひと言をなんとか口にする。と、シェリーは唇を噛んで首を横に振った。彼女の大きな瞳から大粒の涙が溢れる。きっとこらえきれなかったのだろう。
真っ直ぐな子だ。こんな状況でなければ愛おしくも感じただろう。だけど、今だけは駄目だ。
「逃げて……ノックスを……死なせないで……」
しかし彼女は首を大きく横に振った。
コツ、と靴音が響く。ビクターが一歩踏み出したのである。
「美談だ。実に美しい。しかし、未来に至らない美しさにどれほどの価値があるだろう? 綺麗、感動する、涙が止まらない、人間的……嗚呼、拍手喝采だよ、君。しかしねえ、それでおしまいだ。良い話。それだけ。……君たちの演じているのはそんなメロドラマだ。なんの役にも立たん」
「あら、あたくし感動的なお話は好きよ?」とエリザベート。
「そうだろうな……。まあ、エリザベートは感動の涙を流せばそれですっきりして全て忘れてしまうような人間だろう。未来もなにもあったものじゃないが、それでいい」
「感情に寄り添うことは大切だわ」
そう言ってエリザベートは扇で口元を隠す。そんなに感受性豊かならどうしてハルキゲニアの悲劇を放っておけるのだ、という批判が当然わたしの頭に浮かんだ。
考えるまでもない。彼女は所詮、一過性の感動しか受け取れないのだ。しかも、その同情は彼女自身の意思決定や行為になんら影響を及ぼさない。一切は過ぎ去っていくだけ。そういう人種は王都にもいる。騎士団ナンバー3『落涙のトリクシィ』が筆頭だ。
「しかし、私はいい加減うんざりするのだよ。こんな安い芝居を見せられて気分が良くなるわけがない。……メアリー」
呼びかけると、メアリーがわたしたちの前に立った。
「殺せ」
ビクターの低い声が飛ぶ。メアリーの振りかぶった腕、その指先には刃物のごとく鋭い爪が、永久魔力灯の光を受けてぬらぬらと輝いていた。
振り下ろされるその一瞬。抱いていたノックスを渾身の力で弾き飛ばし、シェリーも同様に服を引いて床に転ばせた。これでひとまず、奴の爪に裂かれるのはわたしひとりだ。
痛いのなら慣れっこだ。大丈夫。
――刹那、轟音が響いて目の前を一陣の風が吹き去った。メアリーの砕かれた爪が宙を舞う。
わたしの前に、何者かが立ちはだかっていた。
広い肩幅。右手には大剣。そして――紫斑の肌と両翼。
シェリーの歓喜の叫びが広間にこだました。
「スパルナ!!」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ハイペリカム』→ハルキゲニアの手前に位置する村。『第三話「軛を越えて~③英雄志望者と生贄少女~」』の舞台
・『ノックス』→クロエとともに旅をした少年。感情表現が薄い。
・『シェリー』→ハイペリカムで保護された少女。クロエによって『アカデミー』に引き渡された。人懐っこく、気さく。詳しくは『94.「灰色の片翼」』、『98.「グッド・バイ」』にて
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐。
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『メアリー』→ビクターの妻。既に亡くなっているが、ビクターの実験によって蘇った。意思はないとされている。詳しくは『153.「鎮魂と祝福、祈りと愛~博士の手記~」』『154.「本当の目的地」』参照
・『アカデミー』→魔術師養成機関とされる場所。実際はビクターの実験施設。倒壊済み。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』『121.「もしも運命があるのなら」』『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。詳しくは『92.「水中の風花」』にて
・『永久魔力灯』→魔力を施した灯り。光度や色調は籠められた魔力に依存する。魔道具。詳しくは『38.「隠し部屋と親爺」』参照
・『スパルナ』→人型魔物。英雄を目指す律儀な青年。一時的にシェリーを保護していた。詳しくは『第三話「軛を越えて~③英雄志望者と生贄少女~」』にて




