176.「ストレンジ・ラブ再び~君の愛するノックスについて~」
思えば、ビクターの狼狽が見えたのはこれがはじめてだった。こうして床に伏している状況でなければ、いくらか胸がすく思いだったろう。
「よし、よし。生きてはいるようだな。眼球の反射も見られる……意識は失っていない、と」
ビクターにとって、わたしはなんなのだろう。死体を利用するだけなら命が消えたとしても構わないはずだし、意識の有無などなおさら問題にならない。
「また悪趣味な実験? 戦力は充分でしょう? ……品のないことばかりで嫌になってしまうわ、あたくし」
エリザベートは嫌悪を隠さない。朦朧としながらも、なんとなく二人の関係性が見えた。エリザベートは王都侵攻のための戦力を確保するためにビクターを利用していたのだろうが、彼の欲求は果てがない。戦力が整ってなお、とどまることを知らない醜悪な実験にほとほと嫌気がさしているのだ。悪党には違いなかったが、エリザベートのほうがよほど人間らしく、つまり、御しやすい。メアリーさえいなければエリザベートから必要な情報を聞き出し、彼女をレジスタンスに引き渡すことも難しくなかっただろう。それだけに、現状が恨めしかった。
「私の実験は未来への先行投資だ。悪趣味と断ずるのは結構だが、エリザベート、その台詞は己の愚かさを露呈しているだけに過ぎんぞ」
「はいはい、未来ね。貴方の見る未来がどんなものかは知ったことじゃないけれど、あたくしは利害が一致しているから組んであげているのよ。貴方が余計な実験ばかりを繰り返すのなら協力関係もおしまいね」
ビクターは「ふん」と不機嫌に鼻を鳴らしただけだった。二人の関係性がこじれにこじれてすぐに崩壊してくれればありがたかったが、どうにも二人の間には、この種のやり取りに慣れきっているような雰囲気があった。決裂は期待出来そうにない。
「さて」とビクターは切り出す。「話を戻そう。……お嬢さん、君に用意したとっておきのサプライズについてだ」
ビクターはメアリーの隣に並び立ち、こちらを見下ろした。霞む視界を必死で維持し、彼を睨む。
「憎悪の籠った眼差しだな。……結構。どんな類のものであれ、私はエネルギーを否定しない。ただ、残念なことにお嬢さんは反抗する力など持っていない。非力とは哀しいものだ。……余談が過ぎたな。本題に入ろうじゃないか」
言って、ビクターはノックスの肩に手をかけた。
「君の愛するノックスについてだ」
手に力を入れると、拳を握ることは出来た。意識の糸を繋ぎ、それを太くしていくようイメージする。筋繊維の一本に至るまでイメージし、そこに力を送り込む。まだ立ち上がれそうになかったが、気絶からは多少遠ざかった。
「ノックスは非常に面白い子だ。……本当に。その理由を教えてやろう」
ビクターは目を細めて、ノックスの腕を捲りあげた。
頭に電流が走るような衝撃が広がる。無意識に歯を食い縛っていた。
「君の反応は想定済みだ。きっとに怒りに打ち震えるだろうと思ったよ。しかしだ、私に悪意なんてこれっぽっちもない。全ては人が魔物から解放されるための試行錯誤でしかないのだよ。新時代のスタンダードへ至るための必要経費……分かるかね?」
分かるわけがない。狂った極悪人の言葉に正しさなんてないのだから。
袖をまくられたノックスの腕は、血管沿いに無数の注射痕が残っていた。それがなにを意味するか、考えるまでもない。
「彼には何度もグールの血を流し込んだのだがね……どうにも発症しないのだよ。特別な抗体でもあるのかと思って血液を確認させてもらったが、ほかの子供と大きく異なる点は存在しなかった。あくまでもパーソナルの範囲内に収まる程度の差異であり、魔物の血液に対抗するような要素は見受けられなかったのだよ」
ビクターの手がノックスの頭を撫でた。その邪悪な手を今すぐ離せ、と心で叫ぶ。声が出せるほど恢復していないことが恨めしい。
「だから私は、ノックスの身体をなにがなんでも未来の礎とすることに決めたのだ。なにか奇跡的な発見があるかもしれないからな。それで、彼には何度も血を味わってもらったというわけだ。血管から、喉から、粘膜から」
視界が滲む。
許さない。絶対に。
「しかし彼は発症しないのだよ。なにをしようとも、だ。……いやはや、実を言うとまいってしまった。今までこれほど頑固な生命には相対したことがない。裏を返せば、ノックスは特別な人間とも言えよう。だから、より負荷の大きい実験をすることにしたのだよ。……ボリスにしたのと同様に、グールだけではなくほかの魔物の血をブレンドした薬液を用意した」
白衣のポケットからビクターが取り出した注射器には、赤紫の液体がなみなみと入っていた。
「キマイラ、ラーミア、ルフ、そしてキュクロプス。ハルキゲニアで採取出来た大型魔物の血液をブレンドしてある。……どうだ? これなら反応も違ってくると思わないか? たとえば、生きた子供に大型魔物とグールのブレンド液を注入した際には、すぐに反応が出たのだよ。肉体が変異し、魔物になるかと思ったらただの巨大な肉塊になってしまったが……まあ、いいのだよ。貴重な実験だった。その先行実験がなければこれは成立しないからな」
やめて。
お願いだから、やめて。
「ノックスには魔物の血に対する耐性があると仮定している。そんな彼に、常人だと急激な反応の起こってしまう薬液を注入したらどうなるだろう? 私は上手くいくと考えているのだがね……。つまり、ノックスの耐性を凌駕する血を射ち込めば彼を魔物にすることが出来るという算段だ。もし意識を失って暴れるようであれば小瓶に詰めてしまえばいいだけ。……おや、凄い表情だな。エリザベート! 見たまえよ、彼女の顔を! まるで獣だ!」
「ええ……本当……。あたくし怖いわ……」
なんだっていい。獣だろうとなんだろうと。
目の前で命を蹂躙されるくらいなら、わたしは悪魔にだってなってやる。
「ほう」とビクターが感心したような声を漏らした。わたしが立ち上がったことに対してだろう。
身体は不安定で、頭は尋常でない痛みに襲われている。視界は絶えず揺れ動き、平衡感覚も壊滅的だ。
それでも立っていられたのは、今までの経験のためだろう。肉体の動きをイメージし、正確なシナプスを送ることによって、感覚を失ってなお想定通りの動きを取ることが出来る。ヨハンに疑似餌をかけられたまま戦った経験がここで活きているのだ。
そして、痛みを忘れさせるほど強烈な感情が身体を動かしている。怒りと憎しみ。それらがどす黒く心を覆っていた。
ノックスはわたしを見つめて、瞳を震わしている。ごめんね。恐いところを見せちゃって。でも、必要なことなの。
「メアリー。捻じ伏せろ」
ビクターが言うや否や、彼女の拳がわたしの頬に打ち下ろされた。万全の状況だったとしても、避けられるかどうかといった速度の攻撃。重く、容赦のない一撃。
うつ伏せるように床へと打ちつけられた直後、背に激痛が走り、口から血が零れた。振り仰ぐと、メアリーの足がわたしの背を踏みつけている。やはり、尋常でない力で。
「いいか、殺すなよ。そいつの存在はノックスの精神に強い影響を与えるかもしれんのだ。魔物化した後の指針になるやもしれん。……メアリー。もしノックスに敵意を感じたらすぐに捻じ伏せるように。いいか、決して殺すんじゃない」
ノックスの、わたしに対する感情。それをも実験材料として弄んでいるのか。
「さて、お嬢さん。君がこれから目にするのは非常に有意義な実験だ。いや、実験と呼ぶのは不適切かもしれない。やはり未来への礎と表現しよう。あるいは、私の愛とでも言おうか。……なに、そう心配しなくてもいい。もし彼が生きて我々の力になってくれるのなら、君と一緒に働かせてやろう。そのときには、君は蘇った死体だが」
わたしはどうなろうと構わない。けど――。
「ビ、クター……。やめ……て……」
声を出すのも痛みが伴った。
ビクターはため息とともに首を横に振る。そして白衣からなにやら長方形の物体を取り出した。それはくすんだ銀色をしている。
「これは魔霧装置の起動装置だ。こうして握り、中心を押し込むと作動する」
言って、ビクターは言葉通りに中心を押し込んだ。すると辺りから空気の漏れ出すような音がして、広間が霧に覆われる。
そして奴の手が、ノックスの首を後ろから掴んだ。「大人しくしていなさい。でないとお嬢さんはすぐに死んでしまうからね」
ノックスの瞳が大きく見開かれる。
『逃げて』と叫ぼうとしたが、ただの呻きにしかなかなかった。必死に身体を動かそうとしても、メアリーの足に圧されて身動き出来ない。
わたしの命は散っていい。だから、ノックスを救って。神でも悪魔でもいい。なんでもいいから、彼を助けて――。
ノックスの首に注射器が突き立てられた。
「さあ、夜を始めよう」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『ノックス』→クロエとともに旅をした少年。本来は『アカデミー』に引き取られたはずだったが、現在はビクターに捕らえられている。
・『メアリー』→ビクターの妻。既に亡くなっているが、ビクターの実験によって蘇った。意思はないとされている。詳しくは『153.「鎮魂と祝福、祈りと愛~博士の手記~」』『154.「本当の目的地」』参照
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『ボリス』→ビクターが最初に作り出した人造魔物。元々は人間の死体。詳しくは『154.「本当の目的地」』にて
・『キマイラ』→顔は獅子、胴は山羊、尻尾は蛇に似た大型魔物。獰猛で俊敏。詳しくは『100.「吶喊湿原の魔物」』『114.「湿原の主は血を好む」』にて
・『ラーミア』→半人半蛇の魔物。知能の高い種。『86.「魔力の奔流」』に登場
・『ルフ』→鳥型の大型魔物。詳しくは『37.「暁の怪鳥」』にて
・『キュクロプス』→巨人の魔物。『51.「災厄の巨人」』に登場
・『小瓶』→・ここでは『縮小吸入瓶』を指す。付近にあるものを縮小させ、吸入してしまう小瓶。ビクターの発明した魔道具。詳しくは『147.「博士のテスト・サイト」』にて
・『疑似餌』→魔物の持つ魔力誘引特性を利用した魔物引き寄せの魔術。対象の身体に魔力を注ぎ込むので、対象者が引き寄せの力を持つ。詳しくは『83.「疑似餌」』にて
・『魔霧装置』→魔力を分解し空気中に噴射させる装置。この霧のなかでは、魔物も日中の活動が出来る。また、グールの血を射ち込まれた子供を魔物にするためのトリガーとしても使用される。ビクターの発明した魔道具。詳しくは『146.「魔霧装置」』にて




