175.「未来のために」
メアリーが前傾姿勢を取った。休息は不充分だったが、戦うしかないだろう。
サーベルの柄を握る手は少し痺れていた。決して万全の状態ではない。『百花狂乱』を二度。『風華』を限界いっぱいまで使用した。そしてもう一度過集中状態にならなければきっと勝てない。身体がもつかどうかは分からなかったが、出し惜しんで負けるわけにはいかないのだ。
後ろにいる子供たちを一瞥する。シェリーは半目を開けてこちらを見ていたが焦点が合っていない。他の子はまだ昏睡している。
自分ひとりのための戦いじゃない。幼い魂を背負っているのだ。
ようやくここまで辿り着いた。わたし自身が知らずに犯した過ちを清算しなければならない。そして、子供たちを正しい生活に戻してやるんだ。
メアリーの足に力が入るのが見え、呼吸を止める。
――来い。
「ストップ! ストップだ、メアリー」
ぞわりと背に悪寒が走る。
メアリーはその声に命じられ、姿勢を正した。
「エリザベート……事を急ぎ過ぎては困る。まだ素晴らしいサプライズがあるのだからな」
「あら、ビクターじゃない。なんの用かしら」そう返すエリザベートの目には、どうしてか軽蔑が籠っていた。
わたしの全身が強張ったのは緊張や恐怖のためではない。その声、その姿。吐き気を催さずにはいられない悪意の塊。
声の方向を睨むと、薄笑いを浮かべるビクターがエリザベートへと足を運ぶのが見えた。彼の手は、ひとりの子供の手を引いている。白の髪に華奢な身体。その目には布が巻き付けられていたが、見間違えようがない。数日間の旅路を共にし、ハルキゲニアで正常な生活を送るはずだった少年――ノックス。
「ノックス!!」
わたしの叫びが届いたのか、彼は足を止めてこちらに顔を向けた。返事はなかったが、その代わり彼はこちらへと足を踏み出そうとした。
「逃げるんじゃない。再会ならあとでたっぷりさせてやる」
言って、ビクターはノックスの腕を掴んで引き戻した。
頭の中で、糸のようなものがぷつぷつと切れていく。多分、理性の糸だ。
「ビクター!! その薄汚い手を離して!!」
「そう感情的になるな。全く、これだから盲目的な正義漢は嫌になるのだ。……まあ、いい。お嬢さんに報告がある」
「報告? どうせ悪趣味で馬鹿げた内容よ。聞く気なんてない」
もはや衝動は抑えがたかった。彼の手がノックスに触れているその一事だけで気がおかしくなりそうだ。
足に力が入り、気が付くとビクター目がけて疾駆していた。
「メアリー」と彼が呼びかけた瞬間、メアリーがわたしの前に立ちはだかった。いつの間に移動したのかも分からない速度で。
「どいて!!」
怒りのままにサーベルを振る。頭の中では断裂の音が響いていた。ぷつぷつぷつぷつ。
刃は、鋼鉄のごとき彼女の爪に弾かれて一向に肌へと到達しない。どれほど力を込めても、どれだけ速度を上げても、メアリーは涼しい顔で弾き続けた。
不意に、腹へ鈍い痛みが広がる。一瞬の隙を縫ったメアリーの蹴撃が直撃したのだ。
彼女の姿と天井、そして床がぐるぐると目まぐるしく移り変わる。やがて斜めになった視界で、敵の姿をぼんやりと捉えた。尋常でない力と速度で放たれた攻撃はわたしの身を吹き飛ばしたのだろう――広間の隅まで。
耳鳴りと眩暈。視界がぶるぶると震え、手足には力が入らない。あと少しなのに。あと少しでノックスに辿り着けたのに。
なんでわたしの身体は動いてくれないんだ。
「上出来だ、メアリー」
ビクターの声がやけに曇って聴こえた。こちらに接近する奴の靴音も曖昧な響きかたをしている。
「うむ……生きているようだな。上々だ。死なれたらせっかくのサプライズも意味がなくなってしまう」
距離を置いてこちらを見下ろすビクターに憎しみを注ぎ続ける。もしわたしが魔術師なら容赦なく遠距離攻撃を仕掛けてズタズタにしてやるのに。
「サプライズってなによ」とエリザベートが刺々しい口調で訊ねた。それからビクターへと近付く。高いヒールの音も、やはり奇妙な響きかたをしていた。
「よろしい。教えてやろうじゃないか。エリザベートも、そしてお嬢さんも、意識を保ってしっかり聴くといい」
エリザベートは腕組みをしてビクターを睨んでいる。二人に挟まれるノックスと、わたしを遠巻きに見つめるメアリー。決して幸いとは思えなかったが、ビクターはシェリーを含めた他の子供は一旦無視していた。今のうちに子供たちが逃げてくれれば一番なのだが、身体を動かせるような状態ではないのだろう。
ビクターは咳払いをひとつして、ノックスの顔に巻いていた布を取り払った。
ああ、間違いなくノックスだ。彼の表情は哀しみに満ちている。感情表現の苦手な彼をもってしても、充分に悲哀を浮かべさせる光景が広がっているのだろう。自分を助けに来たであろう存在が、力及ばず地に伏している。これほど苦しい瞬間があるだろうか。
口を開きかけたノックスを制すように、ビクターは静かに呼びかけた。
「ノックス。ひと言でも喋ったらお嬢さんは死ぬ。これは脅しではなく、ただの事実だ。目の前で無意味なメロドラマを演じられることも嫌いではないが、今はご勘弁願いたいからな。さあ、分かったら黙っていなさい」
ぐっと口元を引き締めたノックスの目が、小さく震えた。
……もうたくさんだ。ビクターによって演出されるなにもかもが。
「おや、立てるのだね」
膝立ちになったわたしを見て、ビクターは感心したように眉を持ち上げた。サーベルを掴み、腕を引く。
投擲は得意だ。今までだって何度もやってきた。魔王の指を落としたのも、リッチの頭を砕いたのも、実を結ぶことはなかったがラーミアに仕掛けたのも投擲である。
歯を食い縛ると、口元から血が零れた。
それでも戦わなければならないときがある。
サーベルを握った手に渾身の力を込めた。――刹那、目の前に紫の身体が立ちはだかる。冷ややかな目と、物言わぬ口。
「反撃は諦めたまえ。頑張っても所詮はメアリーに潰されるだけだ。虚しいと思わないのかね?」
知ったことじゃない。
メアリーの身体目がけてサーベルを思い切り突いた。――が、刃は止まる。彼女の手に掴まれた刀身は少しも動かすことが出来なかった。それこそ、一ミリも。刃を掴んでいるはずなのに彼女は一切血を流さない。肌までも人間を超えた硬度を持っているのだろう。
「学習しない子は好きじゃない。しかし、君は特別だ。大丈夫。命が尽きたとしても働く場を提供してあげよう。……未来のために。私は誰しも愛せるのだから!」
メアリーの背に隠れて、ビクターの顔は見えなかった。それを良かったとさえ感じる。その顔を見たらきっと、憎しみに身を焼かれてなにもかも分からなくなってしまうだろうから。
歯を食い縛り、サーベルに力を籠め続ける。少しも動かないことが分かっていても、脱力し、諦めに沈んでしまうなんて絶対に嫌だ。どんな絶望的な状況であろうとも未来を目指し続けなければならない。ビクターの口にする醜悪な『未来』ではなく、人並みの幸福を送れる正しい『未来』を。
目の前に眩い光が満ちた。意識を保っている限界点を示しているのかとも思ったが、どうも違う。刀身から魔力が溢れているのだ。それはどんどん量を増して輝く。
――と、手からサーベルが離れた。メアリーが尋常でない力で抜き取ったのである。そして彼女は刀身から手を離すとサーベルを蹴り飛ばした。鋭い音が鳴り響き、わたしの唯一の武器が遥か遠くへと転がっていく。
「どうした、メアリー? 武器をもぎ取ったりなんかして」
ビクターは刀身から溢れた魔力に気が付いていなかったようだ。それを察知したのはメアリーのみであり、危険を感じたのか、刃を遠ざけたのであろう。憎たらしいほど優秀な敵だ。
その直後に訪れたのは、迫りくるメアリーの膝、激しい痛み、そして絶えず揺れる視界である。
「メアリー! その辺でいい! 殺すんじゃない!」
ビクターの叫びが遠く聴こえる。メアリーの追加攻撃は彼のプランにはなかったようだ。それもそのはずで、メアリーは先ほどの魔力を受けて自己判断のもとに攻撃をおこなったのであろう。
朦朧とする意識を懸命に繋いで、目の前の敵を睨んだ。
正真正銘、もう身体を動かせそうにない。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『メアリー』→ビクターの妻。既に亡くなっているが、ビクターの実験によって蘇った。意思はないとされている。詳しくは『153.「鎮魂と祝福、祈りと愛~博士の手記~」』『154.「本当の目的地」』参照
・『百花狂乱』→騎士団ナンバー9のシンクレールとともに編み出したクロエの技。視覚に頼らずに魔力を感知し、高速で斬撃を繰り出す。詳しくは『169.「生の実感」』にて
・『風華』→花弁の舞う脳内世界。集中力が一定以上に達するとクロエの眼前に展開される。この状態になれば、普段以上の速度と的確さで斬撃を繰り出せる。詳しくは『53.「せめて後悔しないように」』『92.「水中の風花」』『172.「風華」』にて
・『シェリー』→ハイペリカムで保護された少女。クロエによって『アカデミー』に引き渡された。詳しくは『94.「灰色の片翼」』、『98.「グッド・バイ」』にて
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『ノックス』→クロエとともに旅をした少年。本来は『アカデミー』に引き取られたはずだったが、現在はビクターに捕らえられている。
・『リッチ』→呪術を使う魔物。ゾンビを使役する。詳しくは『16.「深い夜の中心で」』参照
・『ラーミア』→半人半蛇の魔物。知能の高い種。『86.「魔力の奔流」』に登場




