174.「ハルキゲニアの女王」
豪奢な装いで、態度も高慢なエリザベート。一方で質素な白衣に凍りついた無表情のメアリー。生の謳歌と、永遠の死。あまりに対照的な組み合わせである。
メアリーを見つめていると『アカデミー』での一幕が克明に蘇ってきた。彼女の強靭な爪。自由に伸縮可能なそれは、わたしの心臓を貫くところだったのだ。ヨハンに助けられなければ危険な状態になっていたかもしれない。
サーベルを構える腕は、もう震えていなかった。彼女を突破しなければシェリーをはじめとする罪なき子供たちを救ったことにはならない。ガラス張りの小部屋やカプセルから彼らを出すことがわたしの目的ではないのだ。
勝てるだろうか。――そんな問いを頭の奥に押し込める。勝たなければならないのだ。小さな身体に詰まった無限の未来を繋ぐために。
ともあれ、こちらから仕掛けるつもりはなかった。迂闊に飛び込んで行って倒せる相手ではない。決定的な瞬間にわたしの腕が全力で動いてくれなければ相討ちだって望めないだろう。だからこそ、あえて危険を冒すつもりはない。
沈黙が広間に満ちていた。自分の鼓動がやけに大きく聴こえる。
静寂を裂くように、エリザベートが大きな欠伸をした。
「ふわぁ……。あら、失礼」
緊張感のない人……というよりも今広がっている光景をどこか他人事のように思っているような様子だった。目の前で誰がどうなろうと知ったことではない。そんなことよりも今日の服装と髪型のほうがずっと大切。……そんな人間性が垣間見える。
「ねえ、侵入者さん。少しお喋りしたいわ。ここまで来た人だもの、白痴じゃないんでしょう? それまでメアリーには大人しくしていてもらうから」
なにか算段でもあるのかと訝ったが、遠回しな計算を出来るような相手には見えない。援護の到着まで時間を稼ごうとしているのなら悪手だろう。現状、メアリーを凌駕する戦力なんていないはずだ。裏があるとするなら、ビクターが来るのを待つことくらいか。
――望むところだ。
こちらとしても休息なしに強敵と連戦するのは避けたい。それに、エリザベートに聞いておきたいことがあるのだ。
「話すのは歓迎よ。聞きたいことがたくさんあるから」
「じゃあ決まりね」言うや否や、エリザベートは両手を打ち鳴らす。「あたくしの部屋へ案内するわ。おいでなさい」
言い残して踵を返した彼女を、慌てて呼び止める。「悪いけど、ここを離れるつもりはないわ。子供たちを残していくなんて真似は出来ない」
カプセルから出たばかりの子供たちはまだ動けそうにない。このまま広間に置いていくなんて、なにをされるか分かったものじゃない。
振り返ったエリザベートの瞳は先ほどと打って変わって冷ややかだった。失望と軽蔑の入り混じった眼。そこには彼女の感情が色濃く反映されている。
「貴女って退屈な子なのね。こんながらんどうの場所でお喋りしたって楽しくないわ」
「楽しいとかつまらないとか、そういう問題じゃない。どんなに煽ったってここを離れないわ」
怯まずに言い返すと、エリザベートは首を傾けて大きなため息をついた。そしてさも渋々といった口調で答える。「なら仕方ないわね。わがままな子は嫌いだけれど、今回ばかりは許してあげる。せっかくここまで辿り着いたんだものね」
「それはどうも」
エリザベートは扇をひらひらとあおぎつつ、メアリーの耳に唇を寄せた。彼女の口が素早く動き、すると――メアリーは膝立ちの姿勢を取ったのである。
「ご覧の通り、メアリーはあたくしの忠実なしもべであり、今後のためのパートナーよ。あたくしの言葉に逆らうことなんてないの。つまり、メアリーに大人しくしていてもらうことは本当よ。けれど、貴女があたくしに近付けばどうなるか分かるでしょう?」
その爪で八つ裂きにするつもりなのだろう。間違いなく。
素直にやられるつもりはないが、苦戦は必至だ。今は身体を落ち着かせることのほうが大切である。
「肝に銘じておくわ。迂闊に近付いたりはしない」
それを聞いて、エリザベートはいかにも満足そうに笑みを浮かべた。
「結構よ。さ、本題ね。まずはひとつ」一旦言葉を切って、彼女は人さし指を立てた。「貴女がクロエさん?」
否定する理由はない。頷くと、エリザベートは眉を微動させ、喜悦の表情を強くした。
「なら、グレキランス出身なのね。帽子屋から聞いていたわ。まさか同郷人がいるなんて思っていなかったから会いたかったのよ」
帽子屋を使って殺そうとしたくせに、という反論は、ぐっと呑み込んだ。
「それはこっちも同じ気持ちよ。……あなたはどうやって『岩蜘蛛の巣』を抜けたのかしら?」
エリザベートに会話の主導権を奪われる前に切り出した。『岩蜘蛛の巣』。追放者たちの流刑地。生きて出られる人間は皆無と謳われていた。なのに彼女は生きてここにいる。その事実は、『岩蜘蛛の巣』に抜け道があることを意味しているのだ。安全かどうかはさておき、彼女が辿ったルートを確認出来れば今後の旅がやりやすくなる。
「あらま……『岩蜘蛛の巣』を知ってるのね。ま、当然よね。貴女も追放者なんだから」
エリザベートはこちらを一方的に、王都からの追放者と判断して疑う様子はなかった。訂正する必要もないので黙っていると、彼女が続ける。
「あたくしの通った道と貴女の進んだ道を比べたいのかしら?」
「ええ」
「ええと……そうねえ……。うーん……」
と、エリザベートは緊張感なく首を左右に傾げる。頬に人さし指を当てるその仕草が年に似合わない。
結局彼女はかぶりを振って「忘れたわ」とだけ答えた。疑う気も起こらないほど素直な口調である。
仕方がない。『岩蜘蛛の巣』のルートに関しては一旦保留にするほかなさそうだ。
「ところで、貴女はグレキランスに戻ろうとしているのかしら。『岩蜘蛛の巣』について訊くのはつまり、そういうことじゃなくって?」
妙に鋭い。
「ええ。そうよ」
「戻ったって殺されるだけよ。つまらない……」
エリザベートの言う通り、追放者なら命の保証はない。しかしこちらは事情が異なるのだ。わたしは王都での記録上、ニコルとともに魔王の城に住んでいることになっているはずである。
考えたくないことだが、魔王がわたしの姿に化けて……。
「あなただってグレキランスを目指しているんでしょう? 自分を追放した王都を滅ぼすために」
刹那、女王の目付きが鋭くなった。こちらを品定めするような視線である。
「なんで知っているのかしら? ビクターが喋ったの? それとも帽子屋? ねえ、誰がその話をしたの? 教えて頂戴な。ほら」
威圧的な声色で言うと、彼女は右腕を僅かに持ちあげた。
それを合図に、メアリーが立ち上がる。その瞳には殺意はもちろん、敵意すら見いだせない。しかし、彼女には感情表現というものが存在しないのだ。ビクターの醜悪な実験によって動く死体と化しているだけなのだから。
「誰だっていいじゃない。わたしは知っていて、その上であなたと話しているのよ。それに、城の中心部まで入られてしまってるんだから秘密もなにもないわ。……わたしひとりが敵なら話は違うけど、そうじゃないんだから」
「帽子屋もグレイベルも『白兎』も『黒兎』も倒しちゃったって言うのかしら?」
「きっと、ね」
別れた仲間のことを想い、力強く答えた。
エリザベートは不満を露わにする。「自信満々なのね……。人間には勝てても、貴女たちはメアリーに勝てないわ。束になったってね」
「どうかしら……。やってみないと分からないわね。少なくとも、わたしは負ける気なんてないわよ」
サーベルを構えると、女王は酷く冷たい目でこちらを睨んだ。不満、敵意、傲慢、不快感……そんな具合の感情がどろどろに溶け合った目。
佇むメアリーに意識を集中し、沈黙に耐えた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『メアリー』→ビクターの妻。既に亡くなっているが、ビクターの実験によって蘇った。意思はないとされている。詳しくは『153.「鎮魂と祝福、祈りと愛~博士の手記~」』『154.「本当の目的地」』参照
・『アカデミー』→魔術師養成機関とされる場所。実際はビクターの実験施設。倒壊済み。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』『121.「もしも運命があるのなら」』『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『シェリー』→ハイペリカムで保護された少女。クロエによって『アカデミー』に引き渡された。詳しくは『94.「灰色の片翼」』、『98.「グッド・バイ」』にて
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『グレキランス』→クロエの一旦の目的地。通称『王都』。
・『帽子屋』→ハルキゲニアの騎士団長。魔力察知能力に長けている。シルクハットの魔具『奇術帽』で戦う。本名はジャックであり、『タソガレ盗賊団』元リーダー。詳しくは『137.「帽子屋の奇術帽」』『152.「今日もクロエさんは器用~肖像の追憶~」』『48.「ウォルター≒ジャック」』にて
・『岩蜘蛛の巣』→王都を追放された者が放り込まれる洞窟。初出は『110.「もしもあなたがいなければ」』
・『グレイベル』→ハルキゲニアの防衛を担っていた魔術師。女王の軍門に下った。レオネルの弟子。詳しくは『111.「要注意人物」』にて
・『白兎』→ハルキゲニアの騎士。魔術師。本名はルカ。詳しくは『112.「ツイン・ラビット」』『164.「ふりふり」』『Side Alice.「卑劣の街のアリス」』にて
・『黒兎』→ナイフを複製する魔具『魔力写刀』の使い手。残忍な性格。本名はクラウス。詳しくは『127.「魔力写刀」』『Side Alice.「卑劣の街のアリス」』にて




