1.「新居の夜」
時は遡る。
わたしはニコルにもたれて眠った振りをしていた。馬車の揺れより、彼の呼吸のリズムが気になってしまうくらいにはどぎまぎしていたのだ。幼馴染の英雄と新婚ほやほや、華の乙女ロードまっしぐら。土埃はまるで花吹雪、馬のいななきも祝祭のラッパに聴こえたくらいだ。
わたしたちは一週間の道のりを経て魔王の城へと辿り着いた。英雄の地として、また、抑止力として魔物を鎮めるために、その城を新居と定めたのだ。彼はその決意を幼馴染であるわたしに打ち明け、誓いの指輪を見せたのだ。彼がガラス細工のごとく慎重にわたしの薬指にそれを嵌める手付きを、舞い上がる思いで見つめたものだ。
それは月夜が似合いそうな、尖塔がいくつもそびえる荘厳な城だった。これから先、ここにコウモリが飛ぶことはなく、オオカミの遠吠えも響くまい。迷宮のような茨の庭は全て刈り取って、代わりに小さくて可愛らしい花をたくさん植えよう。そうして春は芳醇な空気を肺いっぱいに吸い込み、冬には塔の頂の窓越しに、白銀の世界をしっとりと眺めるのだ。
彼が魔物の残党と戦うときには、必ずお供しよう。そんなことを考えながら、腰に差した短剣を愛しく思ったものだった。花嫁となったわたしに、国王がじきじきに贈ってくれた武器――風の魔術がこもった短剣。祝福溢れる特別な剣。彼が危機に瀕したときには、これで勇敢に加勢せよとのメッセージに違いない。誇らしい気持ちでそれを拝受したのである。
王としても、英雄の結婚相手がわたしであることに満足している様子だった。それもそのはずで、わたしは勇者の去った王都を護衛していた騎士団の一員だったのである。鎧にお気に入りの花飾りをつけていたので、『華のクロエ』なんて呼ばれていた。吹雪のような高速の斬撃、倒した魔物は数知れず、凛と立つ一輪の花。戦果報告の場や定例会議、果ては敵前でも、騎士団長はいつだって恥ずかしげもなく真面目な顔でそう紹介したのだった。とにもかくにもそんなわけで、わたしは敵多い元勇者の花嫁として適任だったし、加えて彼自身とも幼馴染だったし、気が無かったわけでもない。嘘。めっちゃ好きだった。幼い頃から正義感が強く、不正や悪に対して誰より敏感だった彼。幼い、傷つきやすい心と身体を何度彼に守られたか分からない。恩人であり、わたしにとっての個人的な英雄だった。
馭者が王都への道を引き返していくと、いよいよ彼とふたりきりになった。未来と現在の幸せが一緒くたになって押し寄せて、呼吸するのもひと苦労。
そんなわたしにニコルは微笑みかけ、城の中へと導いていった。
薄暗いホールの突き当りには幅広の階段が翼のように、左右の壁沿いに広がっていた。階段を右に進むと回廊があり、いくつかの尖塔に繋がっている。まるまるひとつ書庫になっている塔もあると、彼は教えてくれた。魔物に本が必要なのか疑問だったが、元々は隣国の王が治めていた城なのだそうだ。その隣国も魔物に滅ぼされてしまったのだが、城やその周囲の様子を見る限り建造物や書物や自然に関して魔物の干渉はないようだった。人間のみを蹂躙し、その後に取って代わって平然と生活を続けている奴らの姿を想像すると胸がむかむかしてくる。
そのほか右の回廊を行く間に、ゲストルームや書斎へ続く扉を簡単に説明してくれた。
その晩、食事は上手く喉を通らなかった。幸せで胸がいっぱいとはこのことか、とぼんやりと思いながらも、やたらに鳴る心臓をどうにか落ち着かせようと努力していた。
食後、彼に誘われてダンスホールへ向かった。どぎまぎしたが、断るわけがない。
王都にある大衆酒場の野暮なダンスフロアとは比較にならないくらい華美なダンスホールだった。くびれた柱に支えられた空間を、天井高く吊るされたシャンデリアの豪奢な明かりが照らしている。金の縁取りがされた真っ赤な絨毯は、踏みしめるのも躊躇われた。
ホールで彼に身を任せ、音楽のないダンスをくるくると踊ったのである。言うまでもないことだが、わたしはぎこちないステップを踏みながら、やはり自分の鼓動のことばかり心配していた。まあ、そのくらい乙女なのである。
ダンスホールをぐるりと回る階段をのぼると、ちょうどホールを見下ろせる位置に大扉があった。そこを抜けると玉座だと彼は教えてくれた。
魔王の城の玉座。そう考えると気が進まなかったが、彼は迷いなくそこを通っていったので、ついて行くほかなかった。
玉座は薄暗かった。月光の湿った光が斜めに射し込んでおり、神聖で、どこか寂しい雰囲気を感じずにはいられない。
彼はその場所で、豊かな微笑みを湛えてあいつを紹介したのだ。
そう。死んだはずの魔王を。
【改稿】
・2017/11/05 口調及び地の文の調整。ルビの追加。
・2017/12/21 口調及び地の文の調整。ルビの追加。