161.「悪夢からの解放」
鉄柵が暴力的な音で鳴る。打ち付けられる身体、揺れる柵、爪や牙が金属を掻く響き。そう長くは持たないだろう。
「ビクター」
呼びかける自分の声が震えたのが分かった。
もう限界だ。どんな悲劇に直面しても凛と立つことなど、今のわたしには出来ない。行き場を塞がれた怒りはそのまま哀訴へと反転する。ノックスを人質に取られ、またも子供をグールに変えられ、目の前の姉妹はあまりに残酷な生き方を強いられている。
「……もうたくさんよ。……もう……誰かを苦しめないで。ノックスを解放して……」
油断すると膝から崩れ落ちてしまいそうだった。アリスとケロくんがどんな表情をしているのかは分からなかった。二人を見る余裕すらない。
「残念ながら君の願いは聞けないな。私自身の使命のために、だ。目の前の事実を残酷だと感じるのは結構だが、あまりに凡人過ぎるな」
そうだ。こいつに情けを乞うなんて初めから無意味だ。
嘆くだけなら簡単。膝を突いて泣き喚いたら、いくらか気分が晴れるかもしれない。
しかし――そんな行為になんの意味もない。
ノックスの首にナイフが突きつけられている以上ビクターを刺激するわけにはいかなかったが、言葉は口から溢れ出た。「そうね……。そうだったわ。あなたにはなにを言っても無駄ね」
ビクターは満足気に何度か頷いた。「そうでなければ困る。君のような人間は無理解を象徴してくれて構わない。いずれ愛して見せよう。その前に……オルガとイリーナが本当に君の敵である理由を話してやろう」
鉄柵が悲鳴をあげ、餓えた獣のような唸りが広間に響いた。
「お嬢さん――君は目の前の淑女が人間だと思っているのかね?」
奇妙な問いだった。人間でなければなんだと言うのだ。「二人は人間よ」
ビクターの嗤いが弾けた。それを背景に、オルガが小さく舌打ちをし、イリーナはばつの悪そうに俯いた。
「盲目だ! オルガとイリーナは人間ではない! 食事の面では失敗したが、私の実験の素晴らしい成功例だ。勿体ぶるのはやめよう……彼女たちは元々魔物なのだよ!」
オルガの目から光が失せる。イリーナは俯いて白衣を握り締めていた。
二人が魔物?
「魔物から人間にすることは成功したのだ! 食事面に難があるが、越えられない壁ではない。この成果をもとにすれば、いずれグールも人間にすることが出来るだろう。私は魔物と人の間を行き来する生物を生み出すのだ。……もはや人類は夜に怯える必要はない。昼間は人間として牧歌的に生き、夜は魔物として人類の敵と対等に渡り合えるのだよ! もうすぐ人間は次のステージに行けるぞ!」
ビクターを無視して、二人の女性に呼びかける。「……オルガ。イリーナ。ビクターの言葉は真実なの?」
オルガは短く一度頷いた。「……真実よ」
現実が屈折する。狂った速度で展開する悪夢をどうすれば終わらせられるのだろう。ビクターの死は悲劇の終焉に違いないだろうが、そのためにノックスを犠牲になんて出来ない。
「む。そろそろ檻が限界だな……。オルガ! イリーナ! 子供たちと協力して侵入者を排除しろ! 遺漏なくやり遂げたらブレンドした肉を腹いっぱい食わせてやる!」
オルガの目付きが急激に鋭くなる。イリーナは相変わらずおどおどとしていたが、それでもわたしたちと対峙していた。
「それでは――アディオス! 君たちの死体は拾いに来てやろう! 貴重な素材だからな」
ビクターはノックスの首元にナイフを押し当てたまま通路の先に消えていった。
その直後である。鉄柵がけたたましい音を立てて破られた。グールの唸りが大きくなる。それとほぼ同時に、ビクターが去っていった通路の入り口がガラガラと崩れ落ちた。きっとビクターの仕掛けなのだろう……これで奴を追うことすら出来なくなったわけだ。
元魔物とされる二人を倒し、加えて大量のグール――その呼び名には抵抗があったが、グール以外に表現方法が見つからない――をなんとかしなければならない。
グールが次々とこちらに迫ってくる。アリスは銃口を向けて何度か発砲したが、弐丁魔銃に装填出来る計十二発の弾丸で倒しきれる量ではない。ケロくんは言わずもがな、だ。
不意に魔物の気配がどす黒く強まった。
「もう全部終わりにしましょう」そう呟いたオルガの背から、体長の何倍もの長さの、細長い尾のようなものが伸びた。
咄嗟にサーベルで防御の構えを取ったのだが、こちらへ振り下ろされることはなかった。それはグールを一瞬で薙ぎ払い、全滅させたのである。
彼女の意図は勿論読めなかったが、それどころではない。
これで『ラボ』に捕らえられていた子供たちは全員命を喪ったことになる。他に生き残っている子がいなければ、だ。胸が引き裂かれるように痛み、身体中に焼けるような怒りが広がった。それはオルガに対するものではない。言うまでもなく、こんな馬鹿げた悪趣味を開陳したビクターに向けた怒りだ。
「あたしたちは攻撃しないのかい?」と問いかけるアリスは、いつの間にかオルガとイリーナにそれぞれ銃口を向けていた。彼女はシビアに状況を判断している。きっと、ヨハンと同じ人種だ。目の前の感情には決して囚われず、自分がなすべきベストな方向を模索している。常に……。
オルガはひとつ息をついた。「どうしてあなたたちを攻撃しなければならないのかしら?」
どうして? そんなの、決まってる。
「わたしたちがあなたの敵だからよ。人間と魔物は本来相容れないし、そもそもビクターの指示に従うのならわたしたちを倒すべきじゃないの?」と思わず口から零れた。
オルガは首を振って否定する。
「ビクターの指示になんて従うつもりはないわ。……さっきも言ったけど、もう全部終わりにしたいのよ。こんな生き方も――ただただ憎まれることも」
含みのある言葉だった。強いて追及する気にはならなかったが、オルガには思うところがあるのだろう。
そういえば、先ほど彼女は食事を『共食い』と表現した。そしてビクターは、二人の口に入るものはラーミアの血液を混ぜた人間のみと言っていたはずだ。すると――。
「あなたたちは……元々ラーミアなのね?」
「ええ。人間からそう呼ばれていることは知っているわ」
ラーミアは魔物の中でも人間に近いとされる種である。上半身が人を象っていることや、知能が高いことがその理由だ。だからこそビクターは魔物の人間化という実験の第一歩として彼女たちを選んだのだろう。そして彼の目論見通り、オルガとイリーナを人間にすることが出来た。
震える手でサーベルを構える。目の前にいるのは、元々狡猾とされる魔物だ。
そして、言わずにはいられないことがひとつある。
「ねえ……あなたたちの妹はラーミアのままなのね?」
「そうよ。マーシャは魔物のまま」とオルガは答えた。どこか寂しげな口調で。
「マーシャは――」
言いかけたわたしを、オルガが遮った。「マーシャはここよりも西の地へ行ったわ」
ああ……。やっぱりそうか。ラーミア自体、そう何度も遭遇する魔物ではない。
「わたしは――」
オルガはわたしに喋らせたくないのか、即座に言葉を挟んだ。「言わなくていいわ。あなたがサーベルを抜いたときに分かったもの。……あなたは気付いていないかもしれないけど、その刃にはマーシャの匂いがついているのよ」
オルガが言うと、イリーナはしくしくと泣き出した。そして「おねえちゃぁん」と喚く。
やめて。人間の姿で、そんな言葉を口にしないで。
耳を覆いたくなるような嗚咽だった。
「なら、わたしは敵なのね……」
いっそ飛びかかってくれればありがたかった。残虐で、狡猾で、血も涙もない魔物の本性を見せつけてくれれば――。
オルガは静かに、そしてきっぱりと告げた。
「あなたを傷付けるつもりはないわ」そこで言葉を切り、一拍置いて続ける。「勿論、あなたを憎く思わないわけじゃない。けれど……ビクターのほうがずっとずっと憎いのよ。殺しても殺し足りないくらい。さっきは子供を盾にされて手出しが出来なかったけど」
悔しそうにオルガは俯いた。そして、さらに続ける。
「……あいつは私とイリーナの中に流れる血を子供に射ち込んで、それを……わたしたちに食わせていたのよ。マーシャが生きている間は、あの子がビクターの毒牙に掴まらないように……言いなりになるしかなかった。……イリーナの身体に流れる血を口にしていると思うと、誇張でなく、死にたくなったわ。だからあなたのサーベルを見たとき――」
それ以上言わないで。頼むから。
「もう生きていなくていい、と言われた気がしたの。……やっと地獄から解放される。私も、イリーナも」
イリーナはオルガに抱きつき、わんわんと泣いた。その心情は計り知れなかったが、オルガへの信頼と愛情は存分に感じられる。
おかしなことだと思うが、わたしは彼女たちを魔物だと思うことが出来ない。
オルガは柔らかな笑みを浮かべた。「勝手かもしれないけど、今ここで――」
やめて。
「私たちを、解放してくれないかしら」
言って、オルガとイリーナは座り込んだ。オルガの手はイリーナの頭を撫で続ける。
彼女の口にした『解放』が死を意味していることは痛いほど理解出来た。
「アリス……」思わずその名を口にして、アリスを見た。
彼女は首を横に振る。その目は酷く冷徹で、鋭かった。
震える手でサーベルを振り上げ、一度下ろして両手に持ち替え、再度振り上げた。それでも震えが収まらない。
「ごめんなさいね……。でも、本当に感謝しているのよ。ありがとう……」
わたしは、目を瞑った。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『ノックス』→クロエとともに旅をした少年。本来は『アカデミー』に引き取られたはずだったが、現在はビクターに捕らえられている。
・『アカデミー』→魔術師養成機関とされる場所。実際はビクターの実験施設。倒壊済み。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』『121.「もしも運命があるのなら」』『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『ケロくん』→カエル頭の魔術師。正式名称はケラケルケイン・ケロケイン。本名はアーヴィン。詳細は『第三話「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」』『幕間.「ハルキゲニア~時計塔最上階~」』参照
・『弐丁魔銃』→アリスの所有する魔具。元々女王が持っていた。初出は『33.「狂弾のアリス」』
・『ラボ』→『アカデミー』同様、ビクターの研究施設。
・『ラーミア』→半人半蛇の魔物。知能の高い種。『86.「魔力の奔流」』に登場。クロエが討伐したラーミア(マーシャ)については『第三話「軛を越えて~③英雄志望者と生贄少女~」』参照




