160.「クレイジー・ドクトル」
丸眼鏡に、ぼさぼさの短髪。白衣。銀のアタッシュケース。その平凡極まりない顔を忘れることなんて決して出来ない。ハルキゲニアが直面している問題の源流にいる悪魔。
「ごきげんよう、お嬢さんがた。そして――ん? なにやら面白い奴もいるな」
ビクターに凝視されたからか、ケロくんはアリスの後ろに隠れた。ケロくんが実験材料として興味を引くのは理解出来る。中身が魔術師であるにしても、顔を変化させ、そのまま固着しきってしまうような術者は珍しい。
「まあ、いい。君たち――特に実験場で会ったお嬢さんが来るのを待っていたのだよ。あの痩せた男はいないのかね? ハルキゲニアの老魔術師は? 別行動か?」
口を開きかけたアリスを、わたしは手で制した。ビクターの言葉に付き合っていると精神が持たない。アリスがどう感じるかは知らないが、少なくともわたしは自制心を保つので精一杯だ。
「ふん……。会話するつもりもないか。まあ、いい。お嬢さん、君がルフ五体を八つ裂きにしたことは知っている。いやはや、見事だ。少し興味が出てきたよ。君の身体も是非とも礎になってほしいものだ。きっと素晴らしい素材になる……。オルガもそう思うだろう!?」
ビクターは声を張り上げてオルガに問いかけた。随分と高圧的な調子である。
彼女はひと言、「そうね」と答えただけだった。
どうやらオルガとイリーナはビクター側の人間と見て間違いない。問題は彼女たちが自発的に従っているのか、それともセシルのように脅されているのかだ。それによって取るべき行動が変わってくる。
「オルガ。イリーナ。あなたたちはビクターの味方なのね? 脅されているわけじゃなく……」
率直な答えが返ってくるとも思えなかったが、問わずにはいられなかった。声の震えや口調、あるいは表情から少しでも情報を得たい。彼女たちの本心を示すヒントを……。
しかし、彼女たちが口を開くより先にビクターが声を張り上げた。「ご名答! お察しの通り、オルガとイリーナは渋々ながら私に従ってくれている! 嗚呼! なんて哀れでいじらしい存在だろう! 私はね、彼女の姉妹に手を出さない代わりに協力してもらっているのだよ。それに二人だけではとてもじゃないがハルキゲニアでは、いや、世界中どこへ行っても生きていけない。……そうだろう?」
イリーナの瞳に涙が滲んでいた。そして、ぐすぐすと嗚咽している。そんな彼女を抱き締めて、オルガは短く答えた。「そうよ。もう私たちだけじゃ普通に生きることなんて出来ない」
オルガの口にした言葉の意味が分からなかった。普通に生きることが出来ない?
嫌な想像が頭をかすめる。それは容易に確信出来る想像だった。ビクターの実験によって彼女たちは日常生活に支障をきたすほどの影響が出ており、それを指して普通には生きていけないと表現したに違いない。
ビクターはこちらの想像を察したように、短く笑った。「今君が頭に思い描いているのはどんな光景かね? それは論理が通っているかね? ……まあ、いい。真相はこうだ。彼女たちは人間の食事だけでは充分な栄養を得られない。かといって魔物の血液や肉を食うことなんて出来やしない。魔物の血――それもラーミアとグールの混合液を体内に流し込み、充分に馴染んだ人間しか食えないのだよ」
がつん、と頭を殴られたような眩暈に襲われた。足元が揺れているように感じる。目の前のオルガは冷徹な無表情だったが、その姿さえ揺れて見えた。
今、ビクターはなんて言った?
魔物の血を馴染ませた人間の肉しか栄養にならない?
狂ってる。一体なんのためにそんな残虐なことが出来るんだ。気が付くとわたしは口元に手を当て、乱れた呼吸を必死で整えていた。
オルガの口が薄く開かれる。「あなたには悪いけど、事実よ。私もイリーナも、そうしなきゃ生きていけない。魔物の血と人間の血をブレンド出来る技術はビクターくらいしか持たないわ。……つまり、私たちは生きている限りビクターに決して逆らうことが出来ないのよ。勿論、妹のマーシャのこともあるけど」
「なんで……」
なんで、そんなに落ち着いて言葉を吐けるのか。そう言おうとしたのだが、とてもじゃないが続けることは出来なかった。オルガの目付きは凍て付くような冷たさを湛えていたのだ。どんな返事が来ようとも動じない、そんな雰囲気。
生きるために他のなにかを犠牲にする。自然の摂理かもしれないが、食人なんて異常だ。結局ビクターによって本来あるべき人間の姿が著しく歪められ、蹂躙されている。
「妹のことがなければとっくに自殺してるわ。私だって好きで食べてるわけじゃない。……共食いなんて……。食事の時間はいつも地獄……」
オルガは相変わらず落ち着いた口調ではあったが、さすがに言葉の最後では顔を歪めた。怒りと悔しさを、諦めと哀しみで緩めたような、不安定な表情。
オルガの内心の苦痛は充分に理解出来た。そうしなければ自分も、次女のマーシャも、そしてイリーナも生きていけない。だからこそ心を切り崩してでも気丈でいなければならないのだ。
「いい加減聞き飽きたよ。悪趣味な演説に興味なんてないねぇ」
隣を見ると、アリスが弐丁の魔銃を構えていた。丁度わたしの怒りも爆発寸前だったが、アリスが引き受けるかたちになった。
彼女は引き金に指をかけてビクターを睨んでいる。
「おや、撃っていいのかね。私に用があってここまで来たのではないのか?」
たちの悪い記憶力。わたしがノックスとシェリーの行き先について叫び訊いたことを覚えているのだろう。だからこそ、『ラボ』の襲撃も事前に予測が出来たというわけだ。
「ノックスに会いたいのだろう? そして別働隊がシェリーの救出に向かっているというわけか。残念だがそちらは『ラボ』よりも厳重な警備で固められている。今頃ノッポの男もレオネルも拘束されているだろう」
やや俯き、歯噛みして動揺を演じる。ビクターの思い違いは却ってありがたい。もしヨハンとレオネルが城に向かってなどいないと知れたら、その分の戦力がこちらに流れ込んでくる危険があった。『帽子屋』や『白兎』、あるいはメアリーがここに現れたら勝ち目は薄くなる。
ビクターは嘲笑した。「そら、図星だろう? ただでさえ少ない戦力を分散させるなど、実に愚かだ」
「……うるさい」
本当に奴の言葉は耳障りだったが、誤った理解を強めてくれるとありがたかった。
直後、不愉快な笑い声が大広間に反響した。ビクターは完全に思い込んでくれているようだ。
「シェリーに会わせられなくて残念だ。いや、会う方法がひとつだけあるぞ! 素晴らしい! そうだ、君たち皆が礎になればいい! そうすれば再会を許してやろう! 無論、君たちに正常な意識があるかは保証できないが!」
アリスを横目で見ると、目が合った。引き金にかけた指に力が入るのが見える。今にも発砲してしまいそうな様子だ。
「さすがに気の毒だ。ノックスに会わせてやろう。そら――」
言って、ビクターは背後の暗がりに手を伸ばした。
ビクターはその姿を自分の前に持ってくる。
目と口を布で覆われ、手を縄で縛られ、粗末な生地で作られた緑のワンピースを着せられた子供。その白の髪と背格好……。目と口は隠されているので分からなかったが、顔立ちに覚えがあった。
間違いない。ノックスだ。
「ノックス!!」
駆け寄ろうとした瞬間、ノックスの首元でナイフが光った。「ストップ、ストップ。焦っちゃいけない。彼は私の貴重な実験材料なんだ。まあ、今のところは失敗作としかいえないが必ずや有効利用して見せる」そしてビクターは邪悪な笑みを見せた。「私が愛せない存在はないからね」
駄目だ。とてもじゃないが冷静でいられない。手が震え、呼吸が不揃いになる。
「さて、再会はおしまいだ。そうそう、魔銃のお嬢さん。発砲しても構わないが私はノックスを盾にするかもしれん。……彼が傷付くのは私としても避けたいのだが、いかがかな?」
耳鳴りがした。もう精神的に限界を振り切っている。
隣でアリスの声がした。
「ビクターだっけ? あんた碌な死に方しないよ」
「うーむ……。これはどうも的外れな台詞だな。私は死に方になどこだわらんよ」
きっと、そうだろう。命乞いをするような人間でもなければ、死を恐れるようなタイプでもない。
「絶対に……絶対に後悔させる」
そして、サーベルを抜き放った。どうしてか、オルガの瞳が大きく見開かれる。
わたしの言葉を聞いて、ビクターは鼻白んだように言った。「後悔か。なるほど。レトロな正義感だな。お嬢さんはボリスと仲良しになれそうだ。……まあ、いい。オルガ! イリーナ!」
彼が呼びかけると、二人がわたしたちの前に立ちはだかった。
「そうだ。敵の排除は君たちの役目だ。しかし、万が一ということもある」
ビクターがアタッシュケースを開いて少しいじると、辺りに霧が立ち込めた。
刹那、オルガが振り向いて叫ぶ。「ビクター! こんなこと聞いてない! あの子ら全員を発症させたら私たちは――」
彼女の言葉を、ビクターの哄笑が遮った。「なあに、数日ひもじい思いをするだけだ。いい実験だろう?」
直後、グールの唸りが広間に反響した。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『ケロくん』→カエル頭の魔術師。正式名称はケラケルケイン・ケロケイン。本名はアーヴィン。詳細は『第三話「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」』『幕間.「ハルキゲニア~時計塔最上階~」』参照
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『実験場』→ここでは『アカデミー』を指して言っている。
・『アカデミー』→魔術師養成機関とされる場所。実際はビクターの実験施設。倒壊済み。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』『121.「もしも運命があるのなら」』『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『ルフ』→鳥型の大型魔物。詳しくは『37.「暁の怪鳥」』にて
・『魔銃』→魔砲の一種。魔術師の使用出来る魔具。アリスが所有。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』にて
・『ノックス』→クロエとともに旅をした少年。本来は『アカデミー』に引き取られたはずだったが、現在はビクターに捕らえられている。
・『シェリー』→ハイペリカムで保護された少女。クロエによって『アカデミー』に引き渡された。ノックスと同様に、現在行方不明。詳しくは『94.「灰色の片翼」』、『98.「グッド・バイ」』にて
・『ラボ』→『アカデミー』同様、ビクターの研究施設。
・『レオネル』→かつてハルキゲニアを魔物から守っていた魔術師。レジスタンスのメンバー。詳しくは『104.「ハルキゲニア今昔物語」』にて
・『帽子屋』→ハルキゲニアの騎士団長。魔力察知能力に長けている。シルクハットの魔具『奇術帽』で戦う。詳しくは『137.「帽子屋の奇術帽」』にて
・『白兎』→ハルキゲニアの騎士。魔術師。詳しくは『112.「ツイン・ラビット」』にて
・『メアリー』→ビクターの妻。既に亡くなっているが、ビクターの実験によって蘇った。意思はないとされている。詳しくは『153.「鎮魂と祝福、祈りと愛~博士の手記~」』『154.「本当の目的地」』参照
・『ボリス』→ビクターが最初に作り出した人造魔物。元々は人間の死体。詳しくは『154.「本当の目的地」』にて
・『ラーミア』→半人半蛇の魔物。知能の高い種。『86.「魔力の奔流」』に登場
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて




