16.「深い夜の中心で」
耳元で風切り音が鳴っている。確か、騎士時代も同じ音を聴いていたはずだ。それも頻繁に。たとえば、援護要請を受けたときや、街なかで突然魔物の気配を感じたとき。決まって夜の深い時間帯だった。今だってそれは変わらない。背中の温かさと、スコップ以外は。
限界まで前傾して駆け続けた。
「――大丈夫?」
「平気」
丘を越え、町の北部を目指す。気配はそちらの方角からしていた。スピードは緩めず駆ける。
どんどん気配は強くなっていく。厄介な魔物がいるのかもしれない。
街道を突っ切って町を迂回するように北部へと進むと、なだらかな丘が見えた。
丘の頂上。どうやらそこにいるらしい。濃い気配がひとつと、大量の小さな気配。群れと、それを束ねている魔物がいる。焦りで歩調が乱れそうになるのを必死で抑えた。
群れの中心でタクトを振るような魔物は、まず間違いなく呪術を使ってくる。今までもそういった手合いは倒してきた。しかし、今は状況が悪すぎる。元騎士とはいえ、わたしは単なるスコップしか持っていないし、ネロを守りつつ戦わねばならない。ハルは近接戦闘のみで、呪術に対抗出来る知識もないだろう。あまり気乗りしない考えだが、あとは、あの憎らしい男がどこまで出来るかだ。
魔物の姿を見て息を呑んだ。思わず足を止めそうになってしまう。
――大量のゾンビ。そして、黒のローブを羽織った体長三メートルはあろうかという骸骨。リッチ、屍の王、そんな呼び名だったはずだ。尽きることのない大量のゾンビを使役し、自身は遠距離から呪力の塊を撃つ戦法を得意とする。厄介この上ない。ほとんど絶望的な状況だ。
あの男は丘の上で戦っているようだった。まだ距離があったので正確には分からないが、二人分の影が躍動している。
それに勇気を得て、足を速めた。しかし、やがてある事実に気付いた。戦っているのは例の男と、その分身だけだったのである。
胃の底が冷えていく。顔を流れる汗がやけに冷たく感じた。
ゾンビをスコップで薙ぎ払いながら前へ進む。
「ハル!」思わず声を上げてしまう。彼女は無事のなのか、それとも……。
男と分身の間に、巨大な魔力が渦巻いている。その中心で、ハルが倒れていた。
「厄介なことになっちまいましたよ! 早く加勢してください!」
ハルのもとに駆け寄り、彼女の身体を揺さぶった。「ハル! ハル!」
冷たい。それに、魔力がどんどん抜け落ちていくようだ。自分自身の呼吸が乱れるのが、はっきりと分かる。
不意に、わたしの首に回った腕が外れた。ネロが、ふらふらとハルのほうへと向かう。やがて彼女の手のひらを探り当てると、強く握り締めたようだった。
「ハル! ……ハル? ハル、返事してよぉ!」
ネロがほとんど泣き声で叫ぶなか、わたしは彼女の心臓に耳を当てた。
まるで、全ての音が消え去ったようだった。ゾンビの呻きも、ナイフで奴らに応戦する男とその分身の喘ぎも、ネロの慟哭も、一切が遠く離れていく。これまでも何度か味わった感覚だった。そのたび、もう二度とこんな経験はしない、全て守ると誓うのだ。何度も、何度も、何度も。けれど、繰り返される。悲劇は否応なしに訪れて、心に深い傷痕を残していく……。
やがて音が蘇る。
「そいつ、この丘にたどり着いたときに倒れたんですよ! ふっつりと、糸が切れちまったみたいに! 鼓動を確認しましたが、事切れてやがりました! わけが分からねえですよ! それで、こいつらが涌いて出てきたんです! まるでハルさんの魔力を喰うためみたいに!」
男の言葉が正しいのかも分からない。真相なんてどうだっていい。事実、ハルは死んだのだ。
涙を拭って、立ち上がる。
「おい! ガキを守れ!」
ネロの背後には、男が倒し損ねたであろうゾンビが迫っていた。
「ネロ! 動かないで!」
そう叫んで、ゾンビを切り倒す。そして男に加勢した。
「わたしがいいと言うまで、絶対にそこから離れないで!」
返事はなかった。いや、きっとネロは言われなくても動くことはないだろう。そんな気がした。ずっと彼女の冷たい手を握り続けるに違いない。
「助かりますよぉ! お嬢さん!」
「――うるさい!」
切っても切ってもゾンビは尽きそうになかった。そうだ、親玉を潰す必要があるのだ。
「ねえ! 火は持ってないの!?」
「マッチぐらいしかないんでさあ! こいつらには使えやしないですよぉ!」
男もゾンビの弱点は知っているようだった。ある程度の炎があれば焼き払うことが出来るのだが。
こうしていても埒が明かないどころか、破滅は時間の問題である。いくら速度を上げて切断力を高めているとはいえ、元は農業用のスコップなのだ。武器の耐久ももちろんだが、体力的な問題もある。わたしはまだまだ動けるが、男のほうはというと微妙である。息が上がっているように見えた。
「ねえ、約束して! わたしがあの親玉を叩く! だから絶対に、一体たりともゾンビをネロとハルに近づけないで!」
「いいですよぉ! 誓います! だからさっさとブッ倒してください!」
ゾンビの群れを薙ぎ払い、リッチへと向かう。奴の眼窩の内側に青白い炎が燃えていた。リッチが手のひらを前方――ハルの方向へ向ける。手のひらの中心で、濃い紫の塊が次第に大きくなっていく。
それは疑いようなく、呪力の塊だった。あれを放たれたら、まずい。
手段を選んでる余裕なんてない。ゾンビの頭を足場にして飛び上がった。丁度、ハルの姿がわたしの背に隠れるように。
リッチの眼窩の炎が大きく揺らめき、呪力球がひと回り小さくなった。
呪力を放つときには前兆がある。エネルギーをまとめ、目標をさだめ、放出のために力を込める。リッチも例外ではない。そして、あらゆる生物がそうであるように、攻撃の瞬間は防御が手薄になる。
「行っけええぇぇ!」
渾身の力を込めてスコップを投げた。それがリッチの頭蓋骨を叩き割るのを確認した瞬間、腹部を衝撃が襲った。
地面に激突し、何度か身体が跳ねて、それから転がる。意識は朦朧としていた。もはや武器はない。一発きりの弾丸。そしてわたしは外さなかった。その結果だけで充分だ。これでゾンビは消え、この不愉快な夜も終わる。
ゾンビはどろどろと溶けていった。――約半数のみ。
溶けるゾンビと、依然としてネロとハルに迫り続けるゾンビが、ぐらぐらと揺れる視界に映る。個体差? 使役されていないゾンビがいた? まとまらない思考のなかで、ひとつの可能性を見つけ出した。
起き上がろうとすると、全身が痛んだ。
これしきのこと、なんでもない。元騎士なんだ、わたしは。
ふらつく身体をなんとか保って立ち上がる。声をあげようとしたが、血の塊を吐き出しただけだった。
もう一体、リッチがいる。そう知らせようとする前に、ゾンビの群れを挟んだ向かい側に、ローブ姿の骸骨がむくりと大地から現れた。ずっと地中に隠れて様子をみていたのだ、こいつは。すると、さっきの奴よりもずっと厄介かもしれない。
リッチが手のひらを前方にかざすと、そこには既に放出可能な大きさの呪力球があった。充填していたのだ。きっと一体目のリッチが倒されたのを知った瞬間から。
「逃げて!!」
「おいガキ! そいつから離れろ!!」
わたしたちの声は届いたのだろうか。いや、いずれにせよリッチの動きのほうが早かった。逃げる暇なんてなかったろう。
ネロはハルの手を握ったまま、魔力の渦の中心にいた。
呪力球はネロに激突する瞬間、破裂音とともに空へと逸れていった。
「よく頑張りましタネ。ここまで来るのは勇気が必要だったでショウ」
土煙のなか、質素なメイド姿が見えた。男が振り向いて目を剥いている。きっと、わたしも同じ表情をしていただろう。
「マスター」
「ハル!」
失ったと思った声が風に乗って、わたしまで届く。
「マスター、一緒に世界を見まスカ?」
「うん!」
魔力の糸が二人の目を繋ぐ。不思議なことに、ネロの身体に魔力が宿っていた。それも、尋常でない量が。
「僕、こんなぐちゃぐちゃの顔してたんだ」
「それだけ頑張ったのでショウ。ありがとう、ネロ」
そうしてハグする二人を見つめ、頬を流れる熱い涙を感じた。なぜ彼女が立っているのか。理由は分からないが、ようやくなにかが報われたような、そんな気になった。
「よく分かりませんが、そろそろ手助けしてもらってもいいですかねぇ!」
そう言いながら、男は二人に寄ろうとするゾンビを次々切り裂いていった。
「さて、マスター」
「うん」
「ワタシに目一杯、魔力を預けてくだサイ」
「うん」
ハルの身体に魔力が集まっていく。どんどん吸い込まれていく。どんどん、どんどん。際限ないほどに。
やがてネロの身体から、一切の魔力が消え去った。そしてハルは立ち上がる。
リッチが二発目の呪力球を撃ったのはその瞬間だった。
ハルは振り向いて瞬時に拳を振り、呪力球を逸らした。さっきもああやって守ったのだろう。ハルはネロに向き直る。
「マスター、ワタシは絶対に倒れまセン。アナタがいる限り戦い続けられマス。だから――共に戦ってくれまスカ?」
「当たり前だよ! 僕はハルのマスターだもん!」
ハルはニッコリと笑って見せた。あんな綺麗に笑えたんだ、と思わず驚いてしまう。わたしの視線に気付いたのか、ハルはこちらを一瞥してウインクした。
そしてリッチを振り仰ぐ。
「マスター、ご命令ヲ」
「あいつを倒して」
「承知しまシタ。排除しマス」
膝を折って前傾したと思ったら、土煙が上がった。そこにハルの姿はない。
リッチの目の前、中空で彼女は、弓で矢を引きしぼるように拳を引いていた。
そして、一瞬で振り抜かれる。
空気がびりびりと震えた。リッチの頭蓋が消し飛び、少し遅れて破裂音が響き渡る。
鳥肌が立っている自分に気付いて、苦笑した。騎士団にも、あれほどの拳士はいない。そんな超常的な力の持ち主がハルなのだから、もう笑うしかない。
彼女が着地するのと同時に、ゾンビが溶けて消えた。
ハルは呆然とするわたしに気付いて、ちょっぴりはにかんで見せる。
そうして照れ隠しのように、スカートを広げて会釈した。
【改稿】
・2017/11/21 口調及び地の文の調整。ルビの追加。
・2017/12/21 口調及び地の文の調整。ルビの追加。




