159.「川のほとりの三人姉妹」
眼鏡の女性はオルガと名乗った。
「ビクターから反逆者の話は聞いていたわ。こんな状況を変えてくれるなら歓迎よ。反逆者が来たら協力することに決めていたわけ。――どう? これなら納得してくれる?」
オルガは真剣な目付きでわたしたちを順繰りに見つめた。
言葉も態度も真摯ではあったが、奥底の感情までは読めそうにない。
『ラボ』は敵の重要施設である。そこで協力の申し出があること自体が怪しかった。セシルといいオルガといい、あまりに都合が良過ぎる。ビクターが反乱分子ばかりを囲っているとも考えづらかった。相応の理由があるならまだしも。
「信用出来ないねえ。あんまり都合が良過ぎるんじゃない?」とアリスは警戒心を露わにする。彼女もわたしと同じ疑いを抱いているのだろう。
「アリスの言う通りね。そもそも現状に不満があるのにビクターの下にいること自体が理解出来ないわ」
わたしの言葉を聞いたオルガは、口元を結んでやや俯いた。そして一拍置いてからこちらの目を真っ直ぐに見つめる。
「あなたたちの不信感は尤もよ。……あなたたちがビクターのことを少しでも知ってるなら、あいつのやり口は分かるわよね? 無理やり引っ張り込まれて、実験材料にされて、それで脅されて働かされる。そんな経緯よ。あいつは自信と好奇心と余裕は憎たらしいほどたっぷりあるから、多少考えが食い違っていても手元に置いてくれるんでしょうね」
あっさりとした口調ではあったが、ビクターの名を口にしたときだけは眉間に皴が寄った。オルガが抱くビクターへの嫌悪感は確かなのだろう。
しかし、ひとつ引っ掛かりがあった。実験材料にされて、というフレーズである。オルガとイリーナはビクターの実験材料にされたのだろうか。
脳裏にセシルの悲鳴が蘇る。もし彼女たちがビクターの実験体なら悲劇は避けられない。
「実験材料って……あなたたちはビクターになにかされたの?」
オルガは寂しげに微笑んだ。その瞬間だけ、顔付きから険しさが消えた。「大したことじゃないの。歩きながら話すわ。……いつまでもその状態じゃイリーナが泣いちゃうから解放してくれないかしら? 勿論あなたたちの望む通り、子供たちの場所まで連れていくから」
オルガの口調は落ち着いていた。抵抗の意志は感じられなかったが、演技じゃないとも言い切れない。……困った。
「いいよ。離してやりな。ただし、不審な動きをしたらすぐに撃つからねぇ」
アリスを信用し、イリーナを捕まえていた腕を緩める。すると彼女はパタパタとオルガに寄り、抱きついた。「おねえちゃぁん! 怖かったよぉ!」
そしてイリーナはぐすぐすと泣き始めた。イリーナはわたしと同じくらいの歳だろうか……。オルガはイリーナよりもいくつか年嵩に見える。
「よしよし。良い子だから、泣かないで」とオルガはイリーナの頭を撫でる。なんとも罪悪感を煽られる光景だった。
オルガはばつが悪そうに「ごめんなさいね。この子、弱虫なのよ」と呟いた。
イリーナは「うぇぇん」と声を上げて泣いている。
「あんまり大声を出さないで頂戴。誰か来るかもしれない」
思わず釘を刺すと、オルガは首を振って否定した。
「その心配はいらないわ。ここには私とイリーナと子供たちだけだもの」
疑問が一斉に頭を占領する。そんなことがあるだろうか。たった二人で実験のサポートやら雑務やらをこなしているのだろうか。加えて、反抗の意思を持った二人に『ラボ』を仕切らせているのか。事実だとしたらあまりにも異常だ。
オルガはイリーナの頭を撫でながら、当然のように答える。「ここは一般人が働くには危険過ぎるのよ。……魔物の血液の話は知っているかしら?」
頷いてみせると、オルガは続けた。「ここでは主に血液の採取と維持をおこなっているのよ。拘束した魔物とはいえ危険だってことは分かるでしょう?」
すると、彼女たちは一般人ではないのだろう。言葉通りだとそうなる。
アリスが疑問を口にする。「あんたたちは普通の人間にしか見えないんだけど、そうじゃないって言うのかい?」
「そうよ」と答えてオルガはイリーナの手を引いて歩き始めた。歩きながら話すつもりなのだろう。
五つ分の靴音が響く。
「始めから話をさせて……こんな機会は滅多にないから」とオルガは切り出した。廊下はまだまだ続いている。
先頭にオルガとイリーナ。次にわたしとアリス。アリスの後ろでケロくんがぴょこぴょこしているという並びである。
オルガの話に耳を傾けつつ、彼女たちの動きに注視した。妙な動きがあればアリスの魔弾が飛ぶだろうが、警戒するに越したことはない。いつでもサーベルを抜けるよう柄に手を触れる。
「私たちは三人姉妹だったのよ。ハルキゲニアの近くでひっそりと暮らしていたわ。……海峡に流れ込むささやかな川のほとりで」
うっとりと、懐かしむようにオルガは語る。当時の情景を頭に思い浮かべているのだろう。
「幸せな時代だったわ。三人で仲良く狩りをしながら日々を過ごしていたの。私と、次女のマーシャと、末っ子のイリーナで……。イリーナは見ての通り泣き虫で、よく私とマーシャに泣きついたわ。今でもそうだけれどね」
それを聞いたイリーナは頬を膨らませて「そんなことないもん」と拗ねたように呟いた。随分と子供っぽい人だ。
「マーシャは我儘で口が悪かったけど、しっかり者だったわ」
暫しの沈黙。思い出に浸っているに違いない。そんなオルガの追憶を断つようにアリスが口を挟んだ。「仲良し姉妹の話なんて興味ないねぇ。端的に話しな」
「道は長いわ。少しくらいゆっくり喋らせてよ。久しぶりにビクター以外の人間と喋れて嬉しいのよ?」
アリスは苛立ちを隠さずに返す。「それは光栄だねぇ。いつまでも牧歌的なお話をするつもりなら間違って撃っちゃうかも」
「分かったわ。話を進めましょう……。ある日私たち三人は大喧嘩をしてね、マーシャが出て行ってしまったのよ。もうずっと前のことよ。それからは私とイリーナの二人で暮らしていたんだけど、何年か前に哀しい出来事が起こったわ」
オルガの声が一段沈んだ。
「私たちはよく地下で遊んだりしていたんだけれど――ほら、ハルキゲニアの地下には入り組んだ水脈や洞窟があるでしょう? その日もそこで過ごしていたんだけど、目を離したらイリーナが消えていたの。……必死になって探したわ。地下全部、と言っても過言じゃないくらい。その途中でビクターに会ったのよ」
言葉の最後は、怒りを押し殺したような声音だった。消えた妹を探して地下を歩き回るうち、魔物よりもずっと厄介で醜い男に遭遇してしまったのだ。彼女たちの不幸はその瞬間から始まったに違いない。
「ビクターはイリーナの居場所を知っていると言ったわ。そして、妹のところまで連れて行ってやる、と……。けれど、信用出来なかった。私は抵抗したんだけど、取り巻きの騎士に捕らえられてこの場所まで連れてこられたのよ」
すると、『ラボ』はハルキゲニアの地下洞に繋がっているのだろう。今はどうか知らないが、オルガが捕らえられたときはそうだったということだ。先ほど降りた階段はそのまま地下洞窟の高度まで降りているとも考えられる。
「この施設の大広間にイリーナは捕らえられていたわ。そして私も同じように拘束されたの。全身を拘束具だらけにされて、とてもじゃないけど抜け出すことは出来なかったわ。そして……酷い実験が始まったの。何日も何日もよく分からない液体を注射されて……。気が狂わなかったのはイリーナが傍にいてくれたお蔭ね。私はイリーナを励ますことで、自分自身の正気も保っていたのよ」
ハルキゲニアのはずれでささやかに暮らす二人の人生を、ビクターは粉々に破壊したというわけだ。他の住民と関わりをあまり持たない二人暮らしの人間……。そんな存在がひっそりいなくなったとしても誰も気が付かない。おそらく、そんな意図で彼女たちをターゲットにしたのだろう。どこまでも最低な人間。
「実験は、ビクターが言うには成功らしいわ。そこから先は経過の確認という名目で魔物の血液採取をやらされたの。勿論、はじめは断って逃げようとしたんだけど……あいつはマーシャのことを脅しの材料にした。……マーシャをもっと酷い、命さえ消えてしまうような実験材料にするか、二人で忠実に働くことによって次女だけは無事に生きてもらうか……。選択肢なんてないようなものよ。それが口から出まかせの脅し文句だとしても、ビクターなら本当にやりかねない。……マーシャにはそのまま生きてほしかったの。私たちが我慢すればいいだけだから」
イリーナの背を撫でて、オルガは続けた。
「ビクターの実験に付き合うことですっかり心がズタズタにされてしまったわ。私たちだって、子供を弄ぶようなやり方には共感出来ない。命は正しく消費されてこそ命なのよ。ビクターは生命そのものを冒涜してる」
その通りだ。ビクターは実験によって自然を捻じ曲げ、世界を醜悪な箱庭にしてしまおうとしている。そんな野望が叶うとは思わなかったが、現にハルキゲニアは奴の実験場として作り変えられてしまった。
「あら……随分と長話をしてしまったわね。もう着いたわ」
廊下の先は、岩が剥き出しになったドーム状の大広間だった。『アカデミー』の広間よりもずっと広い。天井付近に輝度の強い永久魔力灯がいくつか取り付けられており、薄暗さは感じられなかった。
広間の先はぽっかりと、通路のらしき穴が空いている。わたしたちから向かって右側の壁沿いに鉄柵が取り付けられており、その中に小さな影があった。
「約束通り連れて来たわよ」とオルガは広間の先の通路へ向かって呼びかけた。
靴音が響く。そして、いかにも不快な拍手も。
「上出来だ、オルガ! ここまで賢い飼い犬はなかなかいないぞ!」
通路の先の暗がりから、憎んでも憎んでも足りない、ハルキゲニアの悲劇の元凶が姿を現した。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(113部分)に載せておりますのでそちらも是非。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『ケロくん』→カエル頭の魔術師。正式名称はケラケルケイン・ケロケイン。本名はアーヴィン。詳細は『第三話「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」』『幕間.「ハルキゲニア~時計塔最上階~」』参照
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『セシル』→『アカデミー』の働いていた女性。ビクターの実験の犠牲者。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』参照
・『アカデミー』→魔術師養成機関とされる場所。実際はビクターの実験施設。倒壊済み。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』『121.「もしも運命があるのなら」』『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『ラボ』→『アカデミー』同様、ビクターの研究施設。
・『永久魔力灯』→魔力を施した灯り。光度や色調は籠められた魔力に依存する。魔道具。詳しくは『38.「隠し部屋と親爺」』参照




