158.「待ち人、来たる」
身を低くして建物を見つめると、正門の左右にひとりずつ警備兵らしき男が立っていた。
「ケロくん」と囁くと、カエル頭がぴょこりと頷く。
ものの数秒で兵士二人が地面に横たわった。反響する小部屋で眠りに誘ったのである。ケロくんがいて良かった。隠密行動には絶好の魔術だ。
油断せず、息を潜めて正門に向かった。辺りを見回しても二人の警備兵以外に人影はない。木々のざわめきだけが嫌に大きく聴こえた。
アリスは兵士の傍にしゃがみ込み、慣れた手つきでボディチェックをしている。やがて彼女はニヤリと笑って鍵束を振って見せた。思わず苦笑いを返す。これまでアリスが生きてきた世界が垣間見えたような気がした。
アリスは正門の鍵穴を見つめてから鍵束の中のひとつで開錠した。ゆっくりと慎重に開け放つ。
実に妙な建物だった。左右に巨大な棚がいくつも設置されており、高所には梯子がかけられている。棚には書籍、紙類、薬瓶がぎっしりと詰まっていた。真っ直ぐ進んだ奥には、穴がぽっかりと口を開けている。
建物の中はひんやりとしていた。その冷気が前方の穴から流れていることにも気が付いている。招かれるように、わたしたちは無言で真っ直ぐ歩みを進めた。
やがて穴の前まで来ると、その正体が分かった。穴の先は地下へと伸びる階段である。わたしたちは足元の漆黒を見つめて暫し佇んでいた。アリスは警戒しているのだろう。ケロくんは先頭切って進む気がないだけだ。わたしはというと、足を止めざるを得ないような感覚に襲われていた。
濃い魔物の気配。メアリーのものではなく、かといってビクターの小瓶に納められた魔物ではない。もっと露骨な気配だ。
この階段を降りはじめたら、後戻りは出来ないような予感に打たれた。あまりに明確な魔物の気配のせいだろう。アリスは手近なところに設置されていた永久魔力灯を無理やり剥ぎ取り、穴を照らした。光の届かないほど奥まで階段は続いていた。
恐怖はない。怒りは上手くコントロール出来ている。目的ははっきりとしているのだ。ノックスの救出と、ビクターを討ち取ること。怖気づいている暇なんてない。
階段を一歩一歩降り始める。時折後ろを振り返って、ケロくんもアリスもついてきていることを確認した。問題ない。
階段も壁も銀色の硬い素材で出来ていた。鋼鉄だろうか。
降りれば降りるほど、息苦しさと魔物の気配が強くなった。
息を殺して一段一段降りていく。靴音の反響が心臓に悪い。この先で悲劇が舌なめずりして待っているかもしれないと思うと、呼吸が乱れた。
やがて階下にぼんやりとした灯りが見えた。一段降りるごとにその灯りは強くなっていく。そこで階段が終わり、ぽっかりと開いた入り口から光が漏れているのである。振り向いてアリスに頷きかけると、意思が伝わったのか、彼女は永久魔力灯を階段に置いた。ここから先、極力敵との遭遇は避けなければならない。侵入者の存在が察知されることによって、生き残っている子供たちに余計な災いが降りかかってしまうかもしれないのだ。永久魔力灯の微かな光でも不信感を与えかねない。
入り口の先は階段と同じ銀色の素材で出来た廊下が真っ直ぐ伸びていた。煌々たる灯りと、死角のない造り。廊下の先は長く、反対側から誰かが現れたらたちまちに侵入者であることがばれてしまう。厄介な構造である。
人影こそなかったが、いつ誰と出くわすか分からない。
廊下を避けて通ることは出来そうになかった。覚悟を決めて進む。足音を忍ばせつつ、可能な限り素早く。魔物の気配は廊下の先から感じる。進むごとに濃く、輪郭が確かになった。覚えのある気配だけれど、思い出せない。
途中、交差した横道や扉もあったが魔物の気配のするほうへ直進し続けた。
数百メートルほど進んだろうか。魔物の気配が急激に濃くなり、方向も分からなくなった。あちこちから感じる。魔物の肉体を使用した実験が行われていることは間違いない。
不意に、右の前方から靴音がした。かつ、かつ、かつ、とリズム良く響くその音は、三メートルほど前方の横道からしている。どんどんこちらに近付いて来るのが分かった。
この道は、相手から見れば丁字路になっている。このままでは遭遇は避けられない。
ケロくんを見つめると、彼は短く頷いた。
――反響する小部屋は即座に使われたはずである。にもかかわらず、足音はやまなかった。振り向くと、ケロくんの顔に汗の玉が浮かんでいる。
理由は不明だが、ケロくんの洗脳は失敗したようだ。元々が脳内で言葉を反響させる魔術である。眠りに関する言葉で頭をいっぱいにしたとしても歩みの止まらないような相手がいたって不思議ではない。横道の脇まで慎重に進み、息を殺す。こうなれば、実力行使だ。
靴音が間近まで近付き、白衣が翻った瞬間、敵の身体を後ろ手に締め上げて口元を手のひらで覆った。ふわり、と華やいだ香りがする。亜麻色の長髪がくすぐったい。
わたしが拘束したのは、研究員らしき女性だった。おそらくはビクターの指示を受けて『ラボ』で働いている人間だろう。彼女に魔物の気配がないかどうか注意深く確認したのだが、周囲の気配があまりに濃く、判断は難しかった。
その女性はモゴモゴと喋って暴れた。
「大人しくして。じゃないと命の保証は出来ないわ」
我ながらヨハンじみていて嫌な言葉だったが、そう囁くと彼女は身を硬くした。思ったよりも素直である。
危ないところだったが、不審に思われるような物音を立てることなくやり過ごすことが出来そうだ。取り急ぎ、彼女を本当に縛り上げて――。
「イリーナ! どうしたのよ、全く――まあ!!」
運の悪いことに、横道のすぐそばに扉があり、そこからシャープな銀縁眼鏡をかけた女性が現れ、驚きの声を上げた。イリーナ、というのはわたしが拘束している研究者のことだろう。目の前の眼鏡の女性も白衣を身に着けていたので同じ立場なのだろう。少し険のある顔立ちだった。
「静かに。綺麗な顔に穴が空くよ」
アリスは銃口を真っ直ぐに彼女へ向けていた。わたしの腕の中で、拘束した女性のほうがもたもたと鈍くさい暴れ方をした。
「イリーナ。落ち着きなさい」
眼鏡の女性は至って冷静に、両手を上げて拘束済みの女性――イリーナへ呼びかけた。眼鏡の彼女はこの状況を充分に理解しているように見える。イリーナはというと、わたしの腕の中で暴れるのをやめ、またも身を硬くした。緊張と不安が腕を通して伝わってくる。たとえビクターの悪事を破壊し子供たちを救出するためとはいえ、雇われの職員に危害を加えるのは心が痛む。
「あなたたちの目的は?」と眼鏡の女性は問う。
「わたしたちはここに囚われている子供たちを逃がしに来たのよ。――そのついでにビクターを潰す」
下手な取り繕いは不要だ。今のところ力関係ははっきりしている。
「そう」と彼女は呟いた。それだけである。
ふと思った。彼女たちが施設の内部について熟知しているのなら案内役がいるほうが助かる。無論、彼女たちがビクターの実験材料でないという確証は得られないが。
「ここで命を散らせたくないのなら教えて頂戴。子供たちはどこにいるの?」
「この廊下の先よ。信じられないのなら一緒に行ってあげてもいいわ」
眼鏡の女性は顔色ひとつ変えずに言う。不気味なほど冷静だ。
「……あたしたちは侵入者なのよ? なんであんたがそこまでしてくれるわけ? 怪しいわぁ……」
アリスは挑発的な笑みで眼鏡の女性に詰め寄ったが、やはり彼女は顔色を変えない。
「私は」彼女は一旦言葉を切って、わたしたち三人を見渡した。「私は――あなたたちのような人が来るのを待っていたのよ」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『反響する小部屋』→ケロくんの使う洗脳魔術。詳しくは『65.「反響する小部屋」』にて
・『ケロくん』→カエル頭の魔術師。正式名称はケラケルケイン・ケロケイン。本名はアーヴィン。詳細は『第三話「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」』『幕間.「ハルキゲニア~時計塔最上階~」』参照
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『メアリー』→ビクターの妻。既に亡くなっているが、ビクターの実験によって蘇った。意思はないとされている。詳しくは『153.「鎮魂と祝福、祈りと愛~博士の手記~」』『154.「本当の目的地」』参照
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『永久魔力灯』→魔力を施した灯り。光度や色調は籠められた魔力に依存する。魔道具。詳しくは『38.「隠し部屋と親爺」』参照
・『ノックス』→クロエとともに旅をした少年。本来は『アカデミー』に引き取られたはずだったが、現在行方不明
・『アカデミー』→魔術師養成機関とされる場所。実際はビクターの実験施設。倒壊済み。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』『121.「もしも運命があるのなら」』『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『ラボ』→『アカデミー』同様、ビクターの研究施設。




