156.「涙色」
シェリーは城に囚われている。そしてノックスはビクターに連れて行かれた。前者は助けられるかもしれないが、後者について想うと居ても立ってもいられなくなった。
これはなんの罰なのだろう。『ユートピア号』へ売られ、グレゴリーに攫われ、ようやくハルキゲニアに来たと思ったらビクターという悪魔の手に落ちた。ノックスの歩む道には死神でもついてるのではないだろうか。そしてわたしも、彼の悲劇的な運命の手引きをしたひとりである。
部屋に備え付けられた鏡を見ると、目が赤く腫れていた。泣くことしか出来ないなんて、どれだけ小さな存在だろう。
あと二日。一度は待つと決めた時間である。しかし――。
部屋を出て、地下へと進む。広間には誰もいなかった。奥の扉を通過すると、長い回廊に部屋がずらりと並んでいた。
手前の扉をノックするとレジスタンスの男が顔を出した。
「ヨハンの部屋は分かるかしら?」
奥から三番目の部屋だと彼は教えてくれた。礼を言ってすぐに足を進める。
ヨハンの部屋をノックすると、中から間延びした返事が返ってきた。「どうぞぉ」
入ってきたのがわたしと見るや否や、ヨハンは怪訝そうな表情をした。それも当然だろう。目は腫れており、口元は引き結んである。おおよその心情は伝わっているに違いない。
「話があるの」
立ったまま切り出すと、彼は真剣な眼差しでこちらを見つめた。「なんです?」
「『アカデミー』から救出した子から、ノックスとシェリーの行き先を聞いたわ。シェリーは城よ。そしてノックスは、ビクターに捕まったみたい……」
ヨハンは答えなかった。続きを促すでもなく、例の気味の悪い視線を投げかけるわけでもなく、ただじっとこちらに目を向けている。
「本当は二日待つつもりだったわ。けれど、もしノックスがまだビクターの実験を受けていないなら……」
ヨハンは長いまばたきをひとつした。そして、眉尻を下げる。
「わたしは今すぐビクターの研究室――『ラボ』に行く」
「上手く『ラボ』を潰すことが出来て、そしてノックスを救うことが出来たなら、次はどうするんです?」
ヨハンは平静な口調でそう訊ねた。
「そのときは……一度アジトに戻るわ」
「アジトに戻る間に、シェリーのほうが不利になります。『ラボ』が潰されたとなれば、ビクターは魔力維持装置に繋がれた子供たちに手を出してでもこちらへの対抗戦力を整えるかもしれません」
「なら、『ラボ』を潰してすぐに城へ向かう」
ヨハンは短く首を振った。「お嬢さんひとりで騎士団とメアリーを相手にするんですか? それで本当に勝てるならお任せします。ただ、万が一にもお嬢さんが倒れることがあれば私たちは絶望的な状況になるでしょうね。『帽子屋』さえ倒すことが叶わない。それに、お嬢さんがビクターの実験体にならないとも限りません」
なにも言い返せなかった。彼の言葉をもっともだと思ってしまう。今わたしが進むことで状況はより悪くなるかもしれないのだ。
「全部倒す……」
そう呟くと、ヨハンは腕組みをしてやや俯いた。そしてゆっくりと目を合わせる。
「……そうですか。なら、革命はここで終わりかもしれませんね。まあ、善処はします。お嬢さんも、悔いの残らないようにどうぞ」
なんで否定しないんだろう。わたしは今、酷く混乱し、迷っている。そんなときに却って諦めるような言葉を口にするなんて。
いや、分かってる。自分が身勝手に思い悩んでいるだけだということを。結局ヨハンに責任を押し付けようとしているだけなのだということを。つくづく、騎士失格だ。
「なぜ泣いているんです」とヨハンは静かに言う。
「泣いてない」
嘘だ。頬を流れる熱い液体を確かに感じている。
「お嬢さん」と諭すような口調で彼は切り出した。「私には最善の選択が見えています。しかしながら、それに納得して頂けるかは当人次第です。無理に動かそうなんて思い上がりはありませんよ。私にはノックス坊ちゃんの命の保証までは出来ませんし、もしかしたらお嬢さんの行動で全てが好転するかもしれない。……私はあくまで、私の見える範囲で物事を判断しているんです」
言葉を切って、彼は顔を逸らした。「私は神様じゃないんです。だから、最終的にはご自分の意思に従ってください」
目を擦る。ヨハンの言う通りだ。たとえ誰かの選択に賛意を示そうとも、その責任は自分が取るしかない。だから後悔しないように動け、と言っているのだ。
ここから先、物事がどう動くかなんて分からないのだ。そしてヨハンは一度だって、ノックスとシェリーを諦めるなんて言っただろうか。彼だって二人を助けたいに決まってる。革命の成功と二人の命を天秤にかけるような人間じゃない。
ダフニーでの出会いは最悪だったが、その後、ヨハンについては徐々に見えてきた。決して油断のならない狡猾な男だが、無意味に人を陥れるような真似は決してしない。そして、可能な限り生命を優先する。『関所』での犠牲についてもそうだ。残虐な作戦の影に隠れてしまっていたが、アカツキ盗賊団の被害は最小限に留まっていた。アリスと再会した廃墟では、ケロくんの洗脳魔術にかけられたわたしを救い出し、アリス含めて誰ひとり犠牲の出ない方法で危機的状況を切り抜けたのだ。
責任転嫁なんてしない。わたしが出来るのは、現状で最善を尽くすことだけだ。
焦りに囚われて、怒りに沈んで、憎しみに身を委ねて、それでいいはずがない。
「ごめんなさい……あなたの言う通りよ。大人しく二日待つわ……」
ヨハンは微かに口元を緩めた。「悩んで構いません。気が変わったら『ラボ』へ行くといいです。それがお嬢さんの後悔しない選択なら無理に曲げるつもりはありません。ただ、出発前にはひと声かけて下さいね。今度は止めませんから」
目を瞑る。そうして、頭から余計な感情を追い出す。
目を開き、頷いた。ヨハンも頷き返す。
もう悩まない。自分が納得したのなら、それが最も良い選択なのだ。
「お嬢さん」
部屋を出ようとすると、呼び止められた。ヨハンは靴音を鳴らしてこちらに寄る。その手に水色のハンカチが握られていた。「表に出る前に涙は拭きましょう」
「……泣いてない」と呟いてハンカチを受け取る。「でも、ありがとう」
「それじゃ、私は用事があるので出かけます。それを返すのはいつでもいいですからね」
言って、ヨハンはひとりで出て行ってしまった。彼の善意が心に沁みる。声こそ上げなかったが、思う様泣いた。
ひとしきり泣くと、ハンカチはすっかりぐしゃぐしゃになってしまった。洗って返さないと。
ふとハンカチを広げると、妙な柄に気付いた。なんだろう、これは。真ん中に大きく木が描かれている。それ以外にはなにもない。生地が水色なので、まるで水中に生えているかのように見えた。こういうのがヨハンの趣味なのだろうか。
ハンカチを畳み、部屋を出た。そのまま洗い場を借りてハンカチを綺麗にし、自室で干しておいた。窓から入る風で、ハンカチの巨木がひらひらと揺れる。
どこへ出かけたのか知らないが、ヨハンが帰って来るまでに乾くだろうか。
いや。
ヨハンは、ハンカチを返すのはいつでもいいと言っていた。今は持っておこう。少なくとも、革命が達成されるまでは。
サーベルを抜き、すっかり軽くなった刀身を陽光にかざした。刃が銀に輝いている。
あと二日。ハルキゲニアの悲劇が終わるかどうかはわたしたちにかかっている。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シェリー』→ハイペリカムで保護された少女。クロエによって『アカデミー』に引き渡された。ノックスと同様に、現在行方不明。詳しくは『94.「灰色の片翼」』、『98.「グッド・バイ」』にて
・『ノックス』→クロエとともに旅をした少年。本来は『アカデミー』に引き取られたはずだったが、現在行方不明
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『ユートピア号』→子供を乗せてハルキゲニアへ向かう馬車。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』にて
・『グレゴリー』→タソガレ盗賊団の元頭領。詳しくは『32.「崖際にて」』『45.「ふたつの派閥」』参照
・『アカデミー』→魔術師養成機関とされる場所。実際はビクターの実験施設。倒壊済み。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』『121.「もしも運命があるのなら」』『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『ラボ』→『アカデミー』同様、ビクターの研究施設。
・『メアリー』→ビクターの妻。既に亡くなっているが、ビクターの実験によって蘇った。意思はないとされている。詳しくは『153.「鎮魂と祝福、祈りと愛~博士の手記~」』『154.「本当の目的地」』参照
・『帽子屋』→ハルキゲニアの騎士団長。魔力察知能力に長けている。シルクハットの魔具『奇術帽』で戦う。詳しくは『137.「帽子屋の奇術帽」』にて
・『ダフニー』→第一話の舞台。詳しくは『第一話「人形使いと死霊術師」』にて
・『関所』→アカツキ盗賊団の重要拠点。対立組織に奪われたがクロエたちの働きで取り戻した。詳しくは『第二話「アカツキ盗賊団」』にて
・『アカツキ盗賊団』→孤児ばかりを集めた盗賊団。詳しくは『第二話「アカツキ盗賊団」』にて
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『ケロくん』→カエル頭の魔術師。正式名称はケラケルケイン・ケロケイン。本名はアーヴィン。詳細は『第三話「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」』『幕間.「ハルキゲニア~時計塔最上階~」』参照




