155.「セシリア~遺された奇蹟~」
ふと思い立って、一階の奥まった小部屋まで足を向けた。そこには『アカデミー』から助かった子がいる。レオネルが付きっきりで看病していたはずだ。
そのドアをノックすると、押さえた返事が聴こえた。レオネルのものである。「どうぞ」
ドアを薄く開け、するりと部屋に入るとすぐに閉めた。分厚いカーテンの引かれたその部屋は、机上のランプだけが照らす薄暗い空間だった。その薄暗闇は、ベッドに寝た女の子を刺激させないためなのか、レオネルが治癒魔術に集中するためかは分からない。
ベッド脇の椅子にレオネルは腰掛けていた。背もたれに身体を預けたその様は、明らかに疲弊している。
ベッドに寄ると、丁度女の子が目を擦って起き上がろうとした。その顔が痛々しく歪む。わたしは慌てて彼女の身体を、そっとベッドに横たえさせた。
徐々に安らぎを取り戻していく彼女の表情に、少しの安堵を覚えた。
「ごめん、起こしちゃった?」
「……ううん。今起きたの」
女の子は眠そうに答える。先日の息もたえだえな様子とは打って変わって、はきはきしている。元の調子を取り戻しつつあるのだろう。
「レオネルさん、本当にありがとうございます」
頭を下げると、老魔術師は首を振って否定した。「なに、進んでやったことです。それに、儂もこの子に助かってほしかった……」
そして、レオネルはぎこちなく微笑んだ。疲労の影がまとわりついた、胸の痛くなるような微笑である。一日中彼女に治癒魔術をかけ続けたことは容易に想像出来た。
「体調は恢復したようですが、足はどうにも……」
レオネルは沈痛な面持ちで告げた。彼ほどの魔術師であろうとも、痛ましいまでに潰された両足を元に戻すことは出来ないのだ。元来、魔術とは万能ではない。
「いいの……ありがとう、おじいちゃん」と女の子は健気にも笑みを浮かべる。
思わず涙が出そうになった。あの悲劇の渦中において両足の機能を失うことになっても、命だけは繋ぐことが出来たのだ。
女の子の頭を、そっと撫でた。「偉いね。お名前はなんて言うの?」
「セシリア」と彼女は答えた。
つん、と胸が苦しくなったのはセシルと名前が似ていたためだろう。救うことの出来なかった彼女を想ってしまう。
「……良い名前ね」
セシリアはえへへと笑う。
「あたし、名前がなかったからセシルお姉ちゃんがつけてくれたの」
思わず息苦しくなった。そうか。セシルが名付け親なのか。『ユートピア号』に揺られ、ここまで名無しのまま来たのだろう。そんな彼女を不憫に思ったのか、セシルが彼女に名前を与えたに違いない。
「お姉ちゃんのお名前は?」とセシリアはいじらしく訊ねる。
「お姉ちゃんはクロエっていう名前よ。よろしくね」
セシリアは心持ち口を尖らせ、なにか思い出すように首を傾げた。なんだろう。
ややあって、セシリアの顔がパッと明るくなる。
「――クロエ! 知ってる! ノックスとシェリーのお友達でしょ?」
どくん、と心臓が跳ねた。セシリアはノックスとシェリーのことを知っているのだ。
彼女を興奮させないよう注意しながら、優しく呼びかける。「そうよ。ノックスとシェリーのお友達。二人とセシリアはお友達なの?」
「うん。馬車にいるときに仲良くなったんだ。でも……」
口ごもった彼女を焦らせないよう、追及するのは控えた。セシリアの言葉が繋がるのを待つ。
やがて彼女は遠慮がちに口を開いた。
「ノックスもシェリーも、博士に連れて行かれちゃった……」
博士とはビクターのことだろう。握りかけた拳をなんとか脱力させる。
「セシリア……わたしはノックスとシェリー、いえ、子供たち皆を助けようと思ってるの。だから、あなたの知ってることを全部教えてくれないかしら? 無理はしなくていいからね」
するとセシリアは思いのほか力強く頷いて、痛みからか、顔を歪めた。
それから彼女は、ぽつりぽつりと思い出すように語り始めた。
「うんと、あのね。ノックス凄いんだよ。シェリーが連れて行かれそうになったとき、シェリーを守ったの。こう、両手で、バーって」
目を輝かせて彼女は両手を広げる。
ああ。
ノックスは、ちゃんと覚えていたんだ。シェリーがピンチになったら守ってあげるように、という約束を。
ぐっと涙を堪えた。
「本当はノックスも『あかでみー』に残るはずだったんだけど、博士がなんか難しいこと言って、一緒に連れてっちゃったの」
「どこへ行っちゃったんだろう」と訊ねると、セシリアは思い出すように唸った。
「うんと……うんと……シェリーはお城に行ったって。けどノックスは知らない。博士はノックスのこと褒めてたけど……」
勇敢な姿を見せたノックスを、ビクターが褒める……。その様子を思い浮かべて、寒気がした。そうだ。奴はそういう人間なんだ。意想外の抵抗を歓迎し、『愛』とかいう最低な文句で地獄へと引っ張っていく。
「それで、二人とも『アカデミー』からいなくなっちゃったのね?」
「うん……」
寂しそうに答えたセシリアの頭を撫でた。
「教えてくれてありがとう」
そして、精一杯の笑みを浮かべる。多分、かなりぎこちないだろう。
「『あかでみー』はなんで壊れちゃったの?」とセシリアはぼそりと投げかけた。
どう答えるべきだろう。迷ってレオネルを見つめると、彼は「正直に答えてあげましょう」と返した。
そうだ。セシリアは素直に話してくれた。だからこそ、真摯に答えてやるのが本当だ。
「博士が壊したのよ」
「そっか……。皆死んじゃったの……?」
彼女の疑問に、思わず唇を噛みしめる。子供騙しはしたくない。
「そうよ」
そう。皆、博士の実験台になり、そして最期はわたしたちが殺したのだ。たとえ正しい行動だったとしても、命を奪ったことに変わりはない。
「セシルお姉ちゃんも……?」
セシリアの声に涙が混じる。
答えに窮しているうちに沈黙が続いた。わたしは、やっとのことで小さく頷く。
セシリアが、ぐっと奥歯に力を入れたのが分かった。多分、涙を堪えているのだろう。それでも、その瞳から幾筋も涙が零れる。決壊してなお、気丈に歯を食いしばるセシリアを見て、胸を裂かれるような感覚を覚えた。
「助けられなくて、ごめん」
わたしは精一杯、それだけを口にした。
するとセシリアは口元を震わせ、少しずつ言葉を紡いだ。「セシル……お姉ちゃんが、わたしに……逃げろって、それで、暗い部屋に……隠してくれて……あたしが、注射……怖かったから……」
そこまで言って、彼女は泣き出した。声を上げて、わんわんと。
セシリアの身体に覆いかぶさるようにして抱きしめる。足に負担がかからないよう注意しながら。そしてわたしも涙を零した。
この子だけは魔物の血液を射ち込む前に『アカデミー』のどこかに避難させていたのだろう。セシルにとっては、それが精一杯の抵抗だったのかもしれない。ビクターの行為が決して正しくないと気付いてから、最初の抵抗……。
ビクターの手伝いをしていたといっても、セシルは全てを知らなかった。加えて、その身には五本もの縮小吸入瓶が内包されていたのだ。大っぴらに反抗出来るはずがない。
それでもセシルはこの幼い命を救おうとし、そして、わたしたちに協力もしてくれた。
彼女が保護した子供は確かに生きている。重傷を負ってはいたが、その生命は輝いている。
決して充分とはいえない。後悔ばかりが頭を覆う結末だ。けれど、最悪ではない。セシリアだけは生きているのだ。
ひとしきり二人で泣くと、セシリアの顔をそっと撫でた。彼女は目を擦り、泣き疲れたのかうとうととし始めた。
「この子はレジスタンスで責任を持って育てます」
レオネルは慎重な口調で言う。
わたしは頷くだけで精一杯だった。それを最後に、小部屋を去った。
なんとか感情を押し殺し、自室に戻る。しっかりと鍵をかけたことを確認し、ベッドに腰を下ろした。そして枕を手に取って顔をうずめる。
涙は止めどなかった。怒りに口が歪んだ。憎しみで心が真っ黒になる。
シェリーが女王の城へ運ばれたのなら、彼女は魔力維持装置に繋げられていることだろう。
しかし、ノックスは。
ノックスは、ビクターの目を惹いた。そしてきっと、魔力維持装置ではない特殊な地獄へと手を引かれていったに違いない。考えたくない。けれど、酷い光景ばかりが目に浮かぶ。
呼吸が乱れ、心臓が爆発しそうだった。今すぐにでもビクターの私的な研究室――『ラボ』まで疾駆して、その首をはねとばしてやりたい。
あと二日。わたしの心には、大きな亀裂が入っていた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『アカデミー』→魔術師養成機関とされる場所。実際はビクターの実験施設。倒壊済み。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』『121.「もしも運命があるのなら」』『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『レオネル』→かつてハルキゲニアを魔物から守っていた魔術師。レジスタンスのメンバー。詳しくは『104.「ハルキゲニア今昔物語」』にて
・『治癒魔術』→読んで字のごとく、治癒の魔術。それほど高い効果はない。詳しくは『131.「ネクスト・ターゲット」』にて
・『ユートピア号』→子供を乗せてハルキゲニアへ向かう馬車。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』にて
・『ノックス』→クロエとともに旅をした少年。本来は『アカデミー』に引き取られたはずだったが、現在行方不明
・『シェリー』→ハイペリカムで保護された少女。クロエによって『アカデミー』に引き渡された。ノックスと同様に、現在行方不明。詳しくは『94.「灰色の片翼」』、『98.「グッド・バイ」』にて




