15.「取り返しのつかない朝が来る前に」
魔物の気配が近くなってきた。奴の指示に従うのは癪だが、戦わないわけにはいかない。ネロの命がかかっているのだ。スコップを手に取った。
昨晩より過酷な戦闘になるだろう。ハルたちが魔物を無視して進んでいくのなら、標的は自然とわたしたちに置きかわる。ネロとわたしに関しては魔物を引き寄せないだろうが、厄介なのが奴の分身である。これはそのまま魔力の塊と言っていい。それも、ハルよりも強い魔力を放っている。魔物にとってはこれほど分かりやすい標的はない。
ネロを守る。その一心で身構えた。精神を研ぎ澄まし、魔物の数と距離を測る。玄関口から五メートルばかり離れた場所に一体。反対方向に二体――こちらはまだ二十メートル以上離れている。
「あなた、喋れるんでしょ?」
「ええ、当然。本体とは常に魔術の交信がありますから、お嬢さんの声も届くし私の声も二重歩行者を介して伝えられます」
「なら、もし魔物が室内に入るようなことがあったら大声で叫んで。あなただってネロを生かしておきたいはずよ」
「まあ、そうですね。承知しました。しかしお嬢さん、私の口約束を信用できるんですか?」
「……信用するしかない状況でしょ。魔物が近づいてくるのを待っているだけじゃ、いずれ小屋も壊されて群に襲われる。そうなったらネロを助けられないかもしれない」
「賢明な判断ですなぁ。いいでしょう。約束は守りますよ。なんなら契約と言い換えてもいい。ギィブ、アンド、テェイク。分かってきたじゃないですか」
これ以上奴に付き合っている必要はないと判断し、外に出る。念のためドアは閉めておいた。破られそうになれば音で気付くことが出来るように。
深呼吸ひとつ。これはネロを守るための戦いだ。最速で一体ずつ切り倒す。
前方にグールの姿が見えた。地を蹴り、そのままの勢いでスコップを振るう。確かな手応え。倒れ込むその姿を確認し、身を翻して小屋の裏手へと駆けた。
余計な力が入り過ぎている。落ち着け。王都での任務だと思え。憎しみが先走っていると思わぬところで隙が生まれる。
裏手のグールとはまだ距離があった。小屋を離れるのは躊躇われたが、だからといって奴らの遅い歩みを待っているわけにはいかない。
先ほどと同様に、一体は駆けたスピードそのままに胴体を切り裂いた。残ったほうの唸りが月夜を震わす。
振り向きざま、そいつの喉に刃を突き立てた。
この程度ならなんてことはない。二体の身体が蒸発しはじめるのを確かめてから、小屋へ駆けた。周囲に魔物の気配はある。丘の向こうに十体ほどだろうか。
やがてそれらが丘を越え、小屋を目指して不確かな行進を続けるのが感じられた。ある程度は小屋に引きつける必要がある。最低限二十メートル。十体全てのグールがわたしを無視して小屋を目指したとしても、そのくらいの距離があれば全滅させられる。反対方向に魔物の気配を感じたとしても、その距離であればすぐ戻ることだって可能だ。
呼吸を整え、奴らが二十メートルを割るのを待つ。最初の一体が到達するまで、あと数秒だ。十体がそれぞれの間隔を置いて迫ってきている。最初の戦闘を始めれば、あとは連続で相手にするほかない。休息なしの連戦。
構わない。そんなもの、今までいくらでも味わってきた。
やがて一体目がエリアに入ると、そいつ目掛けて疾駆した。先ほどと大きくやりかたは変えない。
一体目の胴を薙ぎ、続く二体目も勢いそのままに首を落とす。三体目の胸を足場にして飛び上がり、四体目を頭から切断する。そうしてよろめく三体目の足を払い、倒れたところをスコップで突き刺した。五体目にはスコップを両手に持ち替え、引き抜く勢いのまま逆袈裟切りを浴びせる。
横並びに襲い掛かる六、七体目は両手持ちの横薙ぎで蹴散らす。そしてスコップを再び片手に持ち直し、八体目が伸ばした腕を瞬時に切り飛ばした。九体目の胴にスコップを突き立てて持ち上げ、ちょうど縦列になった八体目と十体目に向けて放り飛ばし、飛び上がる。重なって倒れた三つの胴を、落下の勢いを乗せて両断した。
身を起こし、呼吸を整える。大丈夫。造作もない。
小屋のほうにも敵の気配はなかった。辺りに魔物はいないようである。一旦ネロの様子を見に行こう。
小屋に戻ると、ネロと男は相変わらずの姿勢を保っていた。
「大丈夫だった?」
「ええ、そりゃあもう、おかげさまで」
「あなたには聞いてない」
「そりゃ残念」
ネロを見つめ、呼びかける。「ネロ、大丈夫だからね。お姉ちゃんがちゃんと守るから。だから、もう少し辛抱していて」
ネロは涙混じりの声で「分かった」と呟いた。
彼にとって、ハルの告白は裏切りだったのかもしれない。失望しただろうか。騙されたと感じただろうか。それを責める時間もなく、彼女は行ってしまった。泣き縋る言葉しか出せなかったネロは、明けることない暗闇のなかで、どんなに巨大な哀しみを感じているだろう。
この長い夜が明ければ、取り返しのつかない朝が来る。そのときわたしは、ネロになにをしてやれるだろう。
考えながら、神経だけは鋭敏に保っておいた。
魔物の気配はある。しかし、どうも妙だ。距離感が掴めない。遠くで散り散りになっているのかもしれないが、こちらに一体も流れてこないのはなぜだろう。
それは唐突に訪れた。――悪寒が全身を駆け巡り、一瞬なにも聴こえなくなるほどの耳鳴りがした。思わず周囲を見回すと、男の分身が霧のように消え、包丁が床で跳ねた。
悪寒は続いている。おそらく、二人の身になにかがあったに違いない。
ネロのそばに寄って、囁きかける。「もう大丈夫。あいつはいなくなったから。……けど、よく聞いて。今からお姉ちゃんはハルのところに行く。ネロは――」
言いかけて、次の言葉が浮かばなかった。わたしは盲目の少年を置いて、どれだけ離れたかも分からない二人を追うのだろうか。その間に魔物が現れたら? じゃあ、彼をここで守り続けるべきなのだろうか。
もし、だ。もしハルが危機的状況に置かれているなら。助けが必要だったなら。「もし」や「なら」がいくつも頭に浮かんで、次の言葉を見つけられずにいた。
「……行く」
「え?」
「僕も行く。邪魔しないから、連れて行って。きっと、ハルは今苦しい思いをしているから。それに――」
ネロの声には、もう涙は混じっていなかった。
「それに、ハルと約束したから。勇気を出せ、って」
彼の存在が戦闘においてどれだけのハンデになるか、そんなことは頭から締め出した。臆病で、気が弱くって、空想家だった少年。そんな彼が勇気を振り絞って夜へと踏み出そうとしているのだ。目じりを指で拭って、彼に呼びかける。騎士として。
「指示に従える?」
「うん」
「逃げろ、って言ったら、なにも見えなくても逃げるんだよ。動くな、って言ったら、身体はそのままにすること。守れるかしら?」
「守る」
「よし。じゃあ――」
言って、彼を負ぶった。一瞬ネロの身体が強張ったが、すぐに肩に手が回る。その細い腕は、震えていなかった。漆黒の夜を進むより、魔物の咆哮を聴くより、ハルの助けになれないことが一番恐ろしいのだ、彼は。スコップを片手に外へ踏み出した。相変わらず嫌な寒気がする。
「――振り落とされないように、しっかり掴まりなさい」
少年の腕に力が宿るのを感じて、全速力で駆け出した。
ハル、どうか無事でいて。そう祈りながら。
【改稿】
・2017/11/20 口調及び地の文の調整。ルビの追加。
・2017/12/21 口調及び地の文の調整。ルビの追加。




