146.「魔霧装置」
「夜の再現?」
ヨハンは一段と冷たく響いた。彼もわたしと同じく、なんとか感情を押し殺そうとしているのかもしれない。
ビクターはいかにも満足げに口を歪めた。永久魔力灯の明かりが彼の狂気的な笑みを薄っすらと照らしている。
「そう、夜の再現。魔霧装置……私の発明品だ。魔力を分解し空気中に噴射させて、魔物にとっての夜を擬似的に作り出しているのだよ。……まあ、完璧とはいえないがね。現に魔物は出現しない。しかし、この霧の中ではグールであっても夜明けに消えることはないのだよ」
「吶喊湿原もあなたの実験場ですか?」
「いかにも。あの場所には常時魔霧が発生するよう、魔霧装置を複数台設置している。君の口振りだと、どうやらキマイラのことまで知っているようだな……。嗚呼、我が愛しの試作品! もしやキマイラを殺したのも君たちかね?」
吶喊湿原の霧が発明品だとすると、キマイラの異常な習性――血の匂いに引き寄せられる――も奴の施したものだろう。首を落としても暫くの間、血を求めて動いたことを思い出した。嗅覚ではない別の機構で血に引き寄せられていたのなら、その異様な行動にも説明がつく。
「まあ、いい。キマイラに習性を付与するのは苦労したのだがね……。魔力誘引から血の誘引へ切り替えるのは難問だったが、見事に完成させたのだよ。騎士連中は処刑場代わりに使っていたようだが……。ところで、キマイラを試作品と呼んでいるのは理由がある。我々はもっと先を目指す必要があったからだ」
奴の独白は止まらない。
「たとえば、キマイラの誘引対象を血ではないものに切り替えたらどうなると思う? 魔物に引き寄せられ、魔物を敵と認識するような習性を付与したら? 魔物による魔物からの守護も不可能ではないのだよ」
「それをするつもりはないんでしょう?」とヨハンはすかさず口を挟んだ。
「なんだ、お見通しか。いかにも、今のところ実施するつもりはない。……私が神経を注いで研究しているテーマはいくつかあってだな。魔霧の中に魔物を閉じ込めておくのもそのひとつだ。これはキマイラによって概ね完成したと言っていい。私は総じて魔物を――夜を支配下に置くために研究を続けている。君たちは残酷だと思うかもしれないが、先ほどのグールたちも必要な実験だ。自我を保ったまま魔物の肉体を得て、なおかつ朝を迎えることが出来るなら人類はひとつ上のステージに到達する。つまり、もはや魔物は、魔術や魔具を持たない非力な人間たちにとっての天敵ではなくなるのだよ。誰もが魔物と対等に戦うことが出来る。夜に怯える必要などどこにもなくなるのだ」
それを素晴らしいと思えるような思考を持っている人間は、既に狂気に足を踏み入れている。ザクセンのように。
「子供たちは残念ながら自我を持ち得ず、加えて、グールから人間へと戻ることが出来なかった。まだまだ課題は多い。グールから人間に再度変異することさえ出来れば私の実験は完成に近づくのだが」
ビクターは当然として、その片棒を担いでいるのなら女王もとんでもない悪党だ。ノックスとシェリーの救出は勿論だが、女王を打ち倒してハルキゲニアを健全化しなければならない。ビクターの狂気は、放っておけば『最果て』全土を巻き込みかねない。
「ところで、君たちは私が憎くて堪らないのだろう? 非常に浅はかで愚かしい直情だが、私を敵視するのならセシル嬢も同じとは思わないのかね」
セシルの呼吸が更に荒くなる。セシルとビクターを同一視などするはずがないのに。
「セシルは味方よ。勇気を振り絞って『アカデミー』を案内してくれたわ。……あなたと敵対するリスクを負って」
どれほどビクターが恐ろしくても、セシルは一歩踏み出してくれたのだ。
ビクターは呆れたように、額に手を当てる。「全く、救い難い。……はじめから説明しよう。私は魔物を魔霧装置の中に閉じ込め、あらゆる実験をおこなった。耐久性、回復力、コミュニケーション……どれも芳しい成果はあげなかったが、耐久力テストの一環として血液を抜き続けたことがあった。そのグールは死んだが、血液は残ったのだよ。まるで奇跡のような発見だ。以降はその研究を進めなかったが……ちょっとした出来事があって、魔物の血液がどのように作用するのか知る必要が出てきたのだよ。だから、それを人間に射ち込んだ」
瞬間的に吐き気がして、口元を押さえた。
作用を知りたかった?
人間に魔物の血液を射ち込んだ?
悪意を遥かに超えている。
「……すると、被験者の身体は変異したのだよ。皮膚が一部変色して活動能力も著しく低下した。おそらくは拒否反応だろう。なんとかならないものかと試行錯誤した結果、身体変化を緩和する薬液を開発することが出来た……。それからはひたすら耐性を作るための実験が続いたよ。魔物の血を射ち込んでは、薬液を射ち込む。その繰り返しだ。結果は成功とも失敗ともいえない。――嗚呼、ボリス! 私の最初の被験者も、やはり子供だった。最終的には人間でも魔物でもない、実に半端な生物が出来上がってしまった……。具体的にどうと言うつもりはないが、貴重な礎になってくれたよ。それ以降は魔物の血と薬液をブレンドし、それぞれの濃度を調整する実験が続いた。……そして! ようやく人間がグールになることが出来たのだよ! まだまだ課題は多いが、現段階では魔物化のタイミングを調整する技術は確立出来ている。魔霧装置を浴びると、被験者はグールへと変わるのだよ……。そうなるまでには非常に地道な作業が必要でね……。魔物の血液と緩和剤の複合液を一週間に一度は射ち込んでやらなければならない。セシル嬢は注射が上手くてね、重宝したよ」
セシルは崩れ落ち、耳を塞いでいた。ぎゅっと目を瞑って、震えている。
「セシル嬢は注射液がなんなのか、それがどういう結果をもたらすのか、その辺りは一切知らなかった。それをどう評価する? この結末に導いた人間のひとりである彼女を、君たちは迎え入れることが出来るかね? 笑顔で抱き締めてやれるか?」
ビクターを無視してセシルの元へ向かう。
そしてしゃがみ込み、耳を塞ぐ両手に触れた。びくり、と震えが伝わる。彼女の瞼はきつく閉じられたままだ。自分が悪辣極まりない実験の片棒を担いでいたと知って平然としていられるはずがない。
硬く強張った彼女の肩に触れ、それからひしと抱き締めた。
直後、肩口にぬるい液体が広がる。そして、彼女の嗚咽が届いた。
「あなたは騙されただけよ。知らなくて、自分ひとりじゃ引き返せない場所まで引っ張られてしまっただけ。悪いのは全部ビクターよ」
拍手が聴こえた。セシルと離れて、ビクターを睨む。
彼は瞳を輝かせ、邪悪な笑みを浮かべていた。
「いやはや、素晴らしい! 感動的だ! 知らなかったとはいえ子供をグール化させる実験に片足を突っ込んでいた彼女を受け入れるとは! この場面には万雷の拍手が必要だ! そう思うだろう?」
息を整え、怒りのかたちと方向性を調整する。
視線の先にいる怪物は、非人道的な実験を喜んで繰り返す真正の極悪人だ。一秒でも生き長らえさせるわけにはいかない。
「おそらく、ノックスとシェリーは貴族街区にいるんでしょう。……ビクターはそれ以上の情報を出す気がないようです。――つまり、もう歯止めをかける必要はありません」
ヨハンが手にしたナイフが、永久魔力灯の光を反射して閃いた。
醜悪なモノローグも、毒々しい独演会も終わりだ。奴の実験ごと叩き潰し、将来犠牲になるかもしれない多くの人を救ってやらなければならない。
感情の一切を籠めてサーベルを構えた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『永久魔力灯』→魔力を施した灯り。光度や色調は籠められた魔力に依存する。魔道具。詳しくは『38.「隠し部屋と親爺」』参照
・『吶喊湿原』→ハルキゲニアの西に広がる湿原。詳しくは『100.「吶喊湿原の魔物」』にて
・『キマイラ』→顔は獅子、胴は山羊、尻尾は蛇に似た大型魔物。獰猛で俊敏。詳しくは『100.「吶喊湿原の魔物」』『114.「湿原の主は血を好む」』にて
・『ザクセン』→ハルキゲニアからの使者。笛の魔具を所有。詳しくは『98.「グッド・バイ」』にて
・『ノックス』→クロエとともに旅をした少年。本来は『アカデミー』に引き取られたはずだったが、現在行方不明。
・『シェリー』→ハイペリカムで保護された少女。クロエによって『アカデミー』に引き渡された。ノックスと同様に、現在行方不明。詳しくは『94.「灰色の片翼」』、『98.「グッド・バイ」』にて
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『アカデミー』→魔術師養成機関とされる場所。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』『121.「もしも運命があるのなら」』にて




