144.「魔物以上の怪物」
先ほどまでの子供は、もはや影もかたちもなかった。代わりに目の前に立っているのはグールである。
――思考が止まる。あまりにも常軌を逸した光景だった。
グールはよろよろとわたしに近寄ってくる。呼吸をするのも苦しかった。子供がグールになり、ザクセンを噛み殺した。そしてわたしへと不安定な歩みを進めている。
どうしてこんなことになっているのか、一体どうすればいいのか、まるきり分からない。はっきりしているのは、今、あってはならないことが起きているということだけ……。
「お嬢さん!」と叫びが聴こえて、ヨハンが目の前に飛び出した。そしてグールにナイフを向ける。
「駄目……」
「なにが駄目なんです!?」
「だって、子供は……」
ヨハンはわたしが言い終わらないうちにグールを裂いた。最前まで子供だったその身体は、力を失って床に倒れた。ヨハンは確実に仕留めるべく、その喉を裂く。
本来、グールは死ねば蒸発するはずである。しかし目の前に倒れたそれは消える気配をまるで見せなかった。
「グールじゃない……。だって、消えないもの……。子供なんじゃ……」
ヨハンはわたしの肩を掴んで、無理矢理振り向かせた。
「今、目の前にいるのは魔物です。いいですか? 自責の念に駆られるのは後にしてください」
全く気がつかなかったが、広間はグールで溢れかえっていた。先ほどまで麻痺波の影響で身を起こすことも出来なかった子供たちは、どうしてかひとりもいなかった。
「目を覚ましてください。この量のグールは私とレオネルさんだけじゃ少々厄介です。お嬢さんの力が必要です」
「子供は――」
「クロエ!!」
彼はわたしの肩を掴んだまま叫んだ。脱力しそうになるわたしの身体を支えているみたいに。
「哀しみも怒りも、後回しにしてください。崩れ落ちるのも後です。今は――魔物を倒すんですよ。……こんなこと、私だって言いたくないんです」
それだけ言うと、ヨハンは一歩前に歩み出てグールと対峙した。レオネルも苦悶の表情を浮かべて魔球を放っている。セシルはしゃがみ込んで耳を塞ぎ、目をぎゅっと瞑っていた。
腕に力が入らない。気を抜くと倒れてしまいそうだ。視界が落ち着かず、到底集中など出来る状態ではない。
けれど、戦わなければならないときがある。感情に蓋をしてでも。
ヨハンの隣でサーベルを構える。一瞬見えた彼の口元は、きつく結ばれていた。
それからわたしは、無心で刃を振るった。一体、二体、と切り伏せていく。普段なら蒸発するはずの肉体は、いつまで経っても消えようとしなかった。それはつまり、純粋なグールではないということを意味しているのだろう……きっと。
サーベルを振るうたび、力が抜けそうになった。胸が張り裂けそうに痛む。それでも柄を握り直し、足を踏み出した。
「あああああああああああああ!!」
自分の絶叫が、まるで他人の叫びに聴こえた。苦しみの渦の中にいる自分と、それを冷めた目付きで眺めている自分。
飛ぶ血潮も、おぞましい手応えも、グールが身に纏った薄緑色のワンピースの切れ端も、一歩引いて眺めている。グールの死体はどんどん増えていき、やがて広間を満たした。
一体の魔物さえいなくなると、膝から崩れ落ちた。見開いた目からは涙が伝って止めどない。全身が震え、呼吸は不揃いだった。
全身の震えと、途方もない罪悪感が胸を覆っている。
誰もなにも言わなかった。互いを励ます声さえない。
不意に、ぱちん、と手を叩く音がした。それは徐々に増え、音も大きくなっていく。
ぱちん、ぱちん、ぱちん、ぱち、ぱち、ぱちぱちぱちぱち。
音の方向――エントランスへと続く開け放たれた扉の先を睨むと、ぼんやりと白い姿が近付いて来るのが分かった。
やがて白衣の男が姿を現した。彼はいかにも感動に堪えないといった表情で拍手している。痩せ型、丸眼鏡、のっぺりと印象の薄い顔、ぼさぼさの黒い短髪……。
見覚えのある姿だった。マルメロの賑やかな通りに現れた異様な魔物の気配。その白衣の男は、マルメロで目にした男そのものだった。あのとき彼の手にしていたアタッシュケースから感じた、ごく微弱な魔物の気配はよく覚えている。
ひきつるようなセシルの声が漏れる。「ビクター……」
「ごきげんよう、セシル嬢」と白衣の男――ビクターは平静な口調で返した。
そうか。こいつが。
こいつがノックスとシェリーの行方を知り、そして子供のグール化なんて、考えることさえ寒気のする悪趣味を仕掛けた張本人か。
一歩踏み出すと、進路を塞ぐようにヨハンが前に出た。どうして邪魔をするのか理解が出来ない。すぐそこに、徹底的に叩きのめしてやらなきゃならない敵がいるのに。
「どいて」
「お嬢さん……今は抑えてください。私たちは奴と話す必要があります。……分かりますね?」
そう言って振り向いたヨハンは、鬼気迫る表情をしていた。目付きは鋭く、顔面の皮膚は張り詰めている。必死で怒りを押し殺し、論理に舵を握らせているのだ。
わたしはそこまで大人にはなれない。けれど――ほんの少しの間だけ足を止めるくらいなら、なんとか出来る。
ヨハンは短く頷き、ビクターに向き直った。「はじめまして、ビクター。反吐以下の最低な歓待をありがとう」
「ごきげんよう、侵入者。サプライズを気に入っていただけたようでなによりだ」
どんな邪悪な繰り言が交わされようと、口を挟むまい。今でさえ、憤怒を抑えるので精一杯なのだから。
ふとレオネルを見ると、彼はセシルの盾になるかのように、彼女の前に出てビクターを睨んでいる。それまでの柔らかな印象とは全く異なっていた。何年も抱えてきたであろう怒りや憎しみがその瞳の一点に籠っている。明確過ぎるほどの殺意。
彼の後ろで、セシルは不揃いで不安定な荒い呼吸を繰り返していた。目を見開き、がちがちと歯を鳴らしている。
誰もがそれぞれ別々の感情を抑えこんでいるのだろう。そしてそれらは一様に激しい感情であるに違いない。
「ビクター。……いくつか質問してもいいでしょうか?」ヨハンは冷えた口調で投げかけた。
「三つなら許そう」
「……まずひとつ。あなたがハルキゲニアでおこなったことについてです。魔具及び魔道具の製造、都市防衛システムの確立、そしてこの広間で起きた悪趣味な顛末。……これら全てがあなたの仕業ですね?」
「いかにも!」とビクターは叫び、わたしたちを順番に見つめて拍手した。「ぜひとも感想を聞きたいものだ! 私の実験はどうだったかな?」
狂気的な口調。ザクセン同様、救い難い人間であることは間違いない。
拍手に混じって、ヨハンの舌打ちが聴こえた。
「君たちは私の子供たちを殺したんだろう? どうだった? 特に、刃物を持っているお二方に聞きたい! 彼らの肌は人間の斬り心地だったろうか? それともグールの?」
歯を食い縛り、耐える。
怒りに囚われるな。目的を見失うな。ノックスとシェリーのためだ。きっとヨハンは正しい情報を引き出してくれる。
「そんな判断がつくほど、私たちは冷静に刃を突き立てはしませんでした」
ビクターはいかにも落胆した調子で肩を竦め、首を横に振った。
「残念……良い体験談を聞けると思ったんだがね。まあ、いい」
この男には、わたしたちと同じ赤い血が流れているのだろうか。
ビクターの表現した通りだとすると、子供のグール化は彼にとって『実験』なのだろう。一体なんのためにそんな醜悪極まりない『実験』をしなければならないのか、さっぱり理解出来ない。だが、いかなる理由があろうともビクターの行為は正当化出来るはずがなかった。
思うに、正しいとか間違ってるとか、倫理だとか道徳だとか、人間性や道理の到底及ばない遥か堕落した場所に奴の魂は存在する。腐った泥土よりも穢らわしい。
ビクターの見た目は人間だが、きっと、魔物以上の怪物だ。
◆改稿
・2017/10/31 誤字脱字修正。
・2018/05/14 レオネル→レオネルさん
◆参照
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『ザクセン』→ハルキゲニアからの使者。笛の魔具を所有。詳しくは『98.「グッド・バイ」』にて
・『レオネル』→かつてハルキゲニアを魔物から守っていた魔術師。レジスタンスのメンバー。詳しくは『104.「ハルキゲニア今昔物語」』にて
・『異様な魔物の気配』→詳しくは『47.「マルメロ・ショッピングストリート」』にて
・『ノックス』→クロエとともに旅をした少年。本来は『アカデミー』に引き取られたはずだったが、現在行方不明。
・『シェリー』→ハイペリカムで保護された少女。クロエによって『アカデミー』に引き渡された。ノックスと同様に、現在行方不明。詳しくは『94.「灰色の片翼」』、『98.「グッド・バイ」』にて
・『魔道具』→魔術を施した道具。魔術師であっても使用出来る。永久魔力灯などがそれにあたる。詳しくは『118.「恋は盲目」』にて




