1018.「夜の静寂を眺めて」
「なにも聞かないんですね」
ヨハンがそう切り出したのは、不夜城のバーを抜け、階段を降りているときのことだった。
わたしは黙って無視する。聞く必要のないことを聞かないのは当然だし、ヨハンの言葉にも特に返事の必要性を見出せない。彼と二人でいるときは、円滑なコミュニケーションなどという無駄な行為にリソースを割かなくていいことになっている。ほかならぬヨハンが決めた約束事だ。
ヨハンとルドラの交わした契約に関して、特段なにも思わない。ただ、今でもルドラの軍勢を利用すべきだとは考えている。そしてわたしの考えていることなんてヨハンにはお見通しらしい。
「お嬢さんはルドラさんの部隊を総動員すべきだとお考えなのでしょう?」
「ええ」
「まあ、妥当なお考えですな。実際、キュクロプスの大群とルドラさんの義体が再構築されるだけでも、戦力としては桁違いに上がる。そこに血族の面々が加わるとなれば安泰です」
なら、なぜそうしないのか。口にすることはなくとも、自然と頭に疑問が浮かぶ。すぐに消える自問でしかないが。
ヨハンは問わず語りに続けた。
「第一に、過剰な戦力は求めていません。第二に、我々には戦後が待っています。そのための布石としてルドラさんが適任だと判断したまでのことです」
ヨハンがルドラと交わした契約はこうだ。契約というより、賭けだが。
血族が勝利した場合、ルドラは煙宿の面々を戦利品としてラガニアに持ち帰っていい。そのなかにはわたしとヨハンも含まれる。
人間が勝利した場合、ルドラはなにもせずにラガニアへと一路撤退する。
どちらのケースであれ、夜会卿に弓を引いたことにはならない。その点をヨハンは強調した。ルドラがなによりも気にしていたのがその点だったから。前者は戦果をオークションに出せるわけで、夜会卿の不興を買うことはないだろう。後者であっても、敗戦という事実がある以上、手ぶらで帰っても言い訳は通る。それこそ、煙宿で起きた事件をありのまま喋れば済む話だ。そして、どちらの場合であってもルドラはヨハンの願いをひとつ聞き届けねばならない。願いが果たされるまでは、当然ヨハンの身に手出し出来ないことも添えられていた。
ルドラが契約に合意したのは、わたしも戦利品に含まれていたからだろう。あの老人は別れ際、わたしの手を握って『どうか五体満足で負けてくれ』なんて馬鹿なことを口にしていた。
契約に合意したルドラに、ヨハンがわたしから回収した交信道具――漆黒の小箱を渡したのはいささか性急に思える。彼にとって、戦争はもう終わったようなものなのだろうか。あるいは、ルドラ以外の使い道がなかったか。どうあれわたしとは無関係だ。
勝利するのが正しいのか、負けるのが正しいのか、わたしのなかでははっきりしている。敗北が最良の道だ。ただし、ニコルを撃破したのちに、だが。わたしの目的の上ではそれが一番適切。グレキランスがどうなろうと興味はない。
「それはそうと、お嬢さんに伝言を頼んでよろしいですか?」
「誰宛?」
「ナルシスさんです。何時間か前にアリスさんから聞いたのですが、どうも人間側の交信魔術はすべて血族に漏洩しているらしい。ああ、交信魔術師が攫われたわけではないのでご安心を。……アリスさんの師匠を請け負ってくれたヘルメスさん曰く、グレキランス地方の交信魔術は未発達なようです。いくらでも傍受可能なんだとか」
ナルシスが耳にしたら嘆きを爆発させるだろう。いつだったか、自分の傍受対策は完璧だとか言ってたから。
「その話はナルシス以外の交信魔術師にはしたのね?」
「ええ、伝達済みです。といっても、煙宿にいる面々だけですが」
それはそうだ。煙宿から外部への交信は契約で禁じられている。血族だけでなく、人間も。
明日の朝に煙宿を発つ兵士のなかには交信魔術師も含まれている。漏洩が事実だとしたら、彼らが自分から交信をおこなうことはありえない。背後を取ろうというのにわざわざ居場所を明かすような愚行は控えるだろう。もっぱら受信に専念し、受け取った内容を周囲の兵士に口伝えする役目を負うはず。一応帯剣しているので、いざというときには兵士のひとりとしても戦えなくはない。
ナルシスはそのひとりにはならない。スピネルとともにわたしとヨハンに同行することになっている。道中で受信した内容を空の上で囁いてもらう役割があるのだ。わたしとヨハンが戦場に降り立ったのちは、昨晩の煙宿と同じく待機となる。もとよりスピネルもナルシスも戦力として数えてはいない。
不夜城を出る頃にはすっかり日暮れ時になっていた。相変わらず濃い靄が立ち込めていて、空がくすんだ藍色に染まっている。
「さてさて、それではこのへんで私は消えます。明日の朝はちゃんと兵士を見送ってくださいね。私も出向きますから」
ヨハンは出し抜けに言って、こちらの返事も聞かずに――返事をする気はなかったが――霧散した。
また二重歩行者を使っていたのか。興味はないが、本体はどこでなにをしているのやら。
「嗚呼! そんなの嘘だ! 私の交信魔術が傍受されるなんてあり得ない! あり得ないのだよ!」
針屋の二階の一室に戻ると、夜半頃にナルシスが目覚めたのでヨハンの言葉を伝えた結果、案の定のリアクションを受けた。そのせいでスピネルまで目を覚ます。
「なんすか、こんな夜中に」
「嗚呼、スピネル氏! 聞いてくれ! クロエ嬢が言うには、私の交信魔術が敵に傍受されていたというんだ! 信じられない! どうやってだ!? どうやったんだ!?」
「知らないわ。ヨハンかアリスに聞いて」
アリスの名には一瞬首を傾げたが、ナルシスはすぐに、薄っぺらい寝具の上でごろごろと悶絶しはじめた。やかましいことこの上ない。
煙宿はいつになく静まり返っている。それも当然で、多くの兵士が明日の出発に向けて眠っているのだ。
「ナルシス、そのへんにして。明日に備えて寝てるひとたちに迷惑よ」
「嗚呼……正論っ!」
案外素直なのか、ナルシスはそれで黙った。ときどき苦しげに呻いたり、宙を掻いたりしたが。
それもしばらくすると収まって、再び眠りに就いたようである。雑音が消えたからなのか、スピネルも寝息を立てていた。
深い霧に閉ざされた窓外を眺める。いくつもの魔物の気配がしていた。血族の気配も。今、この町は実質的に魔物の巣と化していることだろう。したがって一般的な魔物が出現して煙宿の人々に襲いかかる憂いは少ない。
ほぼすべての人々が等しく眠る夜なんて、煙宿では滅多にないだろう。夜こそ賑わう町だったのだ。大通りに連なる酒場では喧騒が弾け、賭場は熱気を増し、遊女があれよあれよと酔漢の手を引いていく。大気には様々な香りが入り混じる。肉の焼ける匂い、香水の匂い、お酒の匂い、水蜜香の匂い……。
それらは今このときにおいては、失われたものだ。もしかしたら戦時下に入ってから徐々にその傾向が強くなったのかもしれないが、ずっと不夜城の頂点にいたわたしが自覚したのはこの瞬間である。
夾雑物が取り去られた、純粋な夜の静寂が広がっていた。
今のわたしも、これと似たようなものかもしれない。無駄なものが削ぎ落とされた凪ぎ。
わたしはずっと窓外を見ていた。空がぼんやり白んでからも。
血族がグレキランスに侵攻して、十日目の朝が訪れようとしていた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『不夜城』→『煙宿』の中心にそびえる塔のこと。富裕層や要人が住まう。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』にて
・『縫合伯爵ルドラ』→黒の血族で、ラガニアの伯爵。領地に金鉱を有する老翁。夜会卿主催のオークションの常連であり、彼とは表向き親密な関係。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー③赫灼の赤き竜ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー④銀嶺膝下マグオートー」』にて
・『キュクロプス』→巨人の魔物。『51.「災厄の巨人」』に登場
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『煙宿』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。ゆえに人探しはご法度。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」「煙宿~②不夜城~」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より
・『夜会卿ヴラド』→黒の血族の公爵。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『毒色原野』を越えた先に彼の直轄地アスターが存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。不死の力を持つ。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』『927.「死に嫌われている」』にて
・『漆黒の小箱』→ヨハンの所有物。交信用の魔道具。箱同士がペアになっており、握ることで交信が可能。仮想空間の生成と精神抽出の魔術で成立している。初出は『69.「漆黒の小箱と手紙」』
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者だが、実は魔王と手を組んでいる。黒の血族だけの世界を作り上げることが目的。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐。詳しくは『875.「勇者の描く世界」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。また、グレキランス一帯の地方を指して用いられる。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ナルシス』→王都の騎士団に所属している交信魔術師。自信家で演技口調。しかし交信魔術の腕前は送受信ともに優秀。また、元真偽師。観察眼と魔力察知にも長けている。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー①前線基地ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。実は防御魔術のエキスパート。王都の歓楽街取締役のルカーニアと永続的な雇用関係を結んだ。ラガニア随一の魔術師ヘルメスに弟子入り。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』『Side Alice.「ならず者と負け戦」』にて
・『ヘルメス』→かつてのラガニアでトップクラスに優秀だった魔術師。ねちっこい性格で、人付き合いの苦手な男。もともと魔術学校で講師をしていたがクビになり、一時期ガーミール公爵に雇用されていたが、彼が零落したことでドラクル公爵に鞍替えした。オブライエンの犯罪的魔術を看破し、彼の右腕と左足を木端微塵にした過去を持つ。血族化して以降は夜会卿に仕えていたが、ニコルによる襲撃以降、四代目となるガーミールに鞍替えした。死を契機に、事前に契約を交わした相手に成り変わることで不老不死を実現する異能を持つ。対象者はヘルメスの記憶と肉体と魔力をコピーした、ヘルメスそのものとなる。その際、相手の持つ魔力も上乗せされる。夜会卿の支配地であるアスターに訪れたルイーザの精神を叩き折って泣かせた過去を持つ。ヨハンの提案により、オブライエン討伐ならびに戦争での人間側の勝利後には、四代目ガーミールの部下とともにグレキランスに残り、アルテゴのワクチン研究をすることに合意。オブライエン討伐を見届けるべく、アリスの片目を介してウィンストンと視覚共有をしている。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『スピネル』→二度目の『霊山』来訪で出会った、薄黄色の鱗の竜人。臆病で、長いものに巻かれる性格。クロエが無理やり『霊山』に押し入ったことにより、門番をしていた彼も裁きを受ける手はずになっていた。クロエが竜人の族長となったことで無罪放免となり、それから彼女を「至高の星」と呼んで心酔し、自ら下僕関係を望んだ。「至高の星」とは、竜人を含めた世界全部を良くする存在なんだとか。詳しくは『第四章 第二話「幻の森」』にて
・『二重歩行者』→ヨハンの得意とする分身の魔術。影に入り込んで移動することが可能。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて
・『針屋』→『針姐』が『煙宿』で営む針治療の店。刺青を彫り込む仕事も請け負っている。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』にて
・『魔物の巣』→主に、魔物の牛耳る地を指す。定義としては曖昧で、昼間でも魔物が姿を消さない場所や、ひとつの種が支配している場所や、逆にあらゆる種が雑多に出現する場所も『魔物の巣』とされる。『61.「カエル男を追って~魔物の巣~」』にて
・『水蜜香』→微睡草と呼ばれる、麻痺毒を持つ植物を刻んで干したもの。燻した煙を吸引することで、酩酊状態に誘う。中毒性が強く、量を誤れば廃人となる場合も。『煙宿』で生産された水蜜香が、王都の歓楽街に密輸されている。詳しくは『393.「甘き煙の宿場町」』にて




