1016.「等身大の人生を」
レオンとビスクと別れてから、わたしはひたすら不夜城を登り続けた。ようやくバーの扉まで来たわけだが、微かに水蜜香の匂いがする。バーから漏れ出る微量の香気から、室内はある程度換気されているように感じる。少なくとも、ひと呼吸で肉体の制御権を失ってしまうほどの濃度でわだかまってはいないだろう。
それでも念を入れて少しだけ扉を開けると、匂いは強まったが多少のものだった。これなら影響はないはず。バーに足を踏み入れる。
室内の人々の視線がわたしへと投げかけられた。煙宿の創始者であるポールがソファに座し、取り巻きのスーツの男たちが思い思いの場所に座っている。血族の姿はたったひとつ。ポールの隣に腰かけた長身痩躯の男だけ。確かヨハンによる契約締結の場で目にした記憶がある。
「よお、元気そうだな」
ポールはどろりとした目付きで片手を挙げた。この部屋の換気をおこなったのは彼だろう。ソファのあたりから水蜜香の名残りが漂っている。あの濃度であっても、中毒者のポールにとっては大きな問題ではなかったというわけだ。いつだったか、大量に吸引しなければ効能を得られないくらいには冒されていると言っていたのを覚えている。
「あなたも元気そうね、ポール。頂上へ行きたいんだけど、昇降機を動かしてくれる?」
「ああ、かまわねえよ」
ポールは立ち上がり、壁の一角に手を触れた。軽い擦過音が上方から降ってくる。
「そういえば、レオンに会ったか?」
「ええ。ビスクと一緒に洗濯してたわ」
ポールはしばしの間を置いて「そうか」と呟いた。安堵しているようでもあり、憂鬱そうでもある。他人の感情の機微は今のわたしに分かるはずもない。
昇降機のそばで佇んでいると、不意に声がした。ソファのほうからだ。
「貴女はクロエですね?」
声のほうを見ると、長髪の血族である。彼は微笑して顔を心持ち傾けていた。
「そうよ」
「嗚呼、やはり。不夜城の入り口で見かけたときにもしやと思ったのです。私はヴィハーン。ルドラ領で官吏をしておりました。貴女にお会い出来て光栄です」
なにをそんなに嬉々としているのだろう。妙なことでも企んでいるのか。ポールとその部下を懐柔して、この状況を打開する策を練っている可能性はある。
危害を加えてはならない。戦争中は外部に連絡を取ることも、町の外に出ることも出来ない。それでいて逆転する方法を出せるほどの知略家なら、そもそも敗北の憂き目に遭うようなこともなかったろう。
それにしても『光栄』とはどういうことだろう。
「光栄だなんて、そんな大層な身分じゃないわ」
「いえいえ、貴女はニコルさんのお気に入りですから、それだけでも大層なものです。それに、貴女には個人的に感謝しているのです」
わたしとニコルの関係を血族が知っているのは今さら驚くに値しない。ただ、感謝とはこれいかに。
「感謝?」
「ええ。此度のルドラの失策は貴女がいなければ成立しなかった。そうでしょう? おおかたメフィストはルドラと個人的な契約を交わしたはずです。彼自身と、ココさんでしたか、あの娘の安全を保証する代わりに貴女を差し出すといった内容でしょうね。ルドラがそれに食いつかなければ、メフィストが暗躍する機会もありませんでした」
このヴィハーンという男は、こちらの作戦の全容は知らないまでも、わたしの存在を目にしてヨハンの戦略を逆算したのか。もしそうなら知恵者だ。ヨハンほどではないにせよ。
「それで感謝される意味が分からないわ。あなたたちは負けるために煙宿を襲ったわけじゃないでしょ?」
「ごもっともです。はじめから敗北を望んでいたわけではございません。ただ、途中からはそうなるように願っておりました。……ポールに出会い、恥ずかしながら水蜜香の罠にかけられてはじめて、私は私の無力を知ったのです」
それからヴィハーンは手短に事の次第を語った。自らの異能で間延びされた永遠の時間のなかで、ポールだけはそばにいてくれたことも。
どうやら彼はポールに依存しているらしい。しかもヴィハーン自身も中毒者と化しており、水蜜香をほどよく嗜まなければ正気でいられないとまで断言していた。中毒になっている時点で正気を疑うが。
「もうポールには話してあるのですが」ヴィハーンはポールを一瞥し、はにかんだ。「私は戦争が終わっても煙宿に留まります」
「水蜜香が必要だから?」
わたしの問いに、ヴィハーンはかぶりを振った。そして浸るように目を閉じる。
「私にはポールが必要なのです。あの胸苦しい暗闇のなかで、ポールは私を見捨てなかった。だから、生涯彼のそばを離れないつもりです」
ポールを見やると、彼は苦笑を浮かべた。
実際、迷惑ではないだろう。むしろ側近として充分に役立つはずだ。ヴィハーンは自らの語りのなかで、もう二度と異能を使うつもりはないと宣言していたが、それを差し引いても能力は高い。転移魔術、交信魔術、視覚共有、欺瞞の鏡面、看破魔術などなど、戦闘向きではないが他者を出し抜くには過剰なまでの能力を有している。人間側が戦争に勝利したあかつきには、ポールも自分の――そして煙宿の商売を再開するはず。胡乱な交渉事も多いだろう。そこにヴィハーンがいれば大助かりのはずだ。
「でも、ルドラがあなたを手放さないんじゃない?」
「知ったことではありません。もうルドラ領など、どうでもいい。私は私の等身大の人生を歩むと決めたのですから、誰にも邪魔はさせませんよ」
断固とした口調のヴィハーンの肩に、ポールが手を添えた。「そういうわけだ。ヴィハーンを連れて行こうとする奴がいたら容赦はしねえ」
うっとりとポールを見上げるヴィハーン。どうやらこの血族の心の深部をポールはがっしりと握り込んでいるらしい。
便利な男だからという理由だけだろうか。ヴィハーンを水蜜香の中毒者にしてしまった罪悪感があるとか? それとも、例のガラスの小部屋での一件から友情でも芽生えたのかもしれない。
まあ、ヴィハーンがこちらに牙を剥くことがなければなんだっていい。
「そういえば」とポールに水を向けた。「ヨハンを見た?」
「さっき頂上に上がっていったところだ。なんの用事があるんだか……」
ちょうどいい。それなら頂きで落ち合える。ルドラ軍の扱いに関する諸々の疑問を問い詰めてやろう。
「昇降機を上げて頂戴」
昇降機へ入りしな言うと、ポールは無言で壁に手を触れた。
みるみるうちに視界が流れていく。若干の凹凸のある壁が下へ下へと過ぎる。壁に触れたら一瞬で皮膚が擦り下ろされることだろう。わたしの治癒可能な範囲は、通常の人間が自己再生出来るところまでだ。多少なら肉を失っても即座に回復する。自分の身体についてはおおむね把握していた。
ひとならざる力。ヴィハーンはそれを呪わしく感じたらしいが、無意味な感傷に過ぎないと思う。力は力でしかない。力によって等身大の自己の無能さに気付いたとして、なにか問題でもあるのだろうか。力も自分の一部なわけで、等身大であることを少しも損なわないのに。異能を封印すると語っていたヴィハーンは率直に言って愚かだ。その愚かさを惹起したのは彼の感情に違いない。つまりは、感情こそが愚かさの根源と言える。彼の場合も、そしてわたしの場合も。
やがて昇降機の上昇速度が緩やかになり、目的地にたどり着いた。そしてすぐ異変に気付く。
昨晩わたしが煙宿に帰還したときには、頂上の小屋の数々が破壊されていた。しかし今はそれらの残骸がすっかり消えていて、二階建てほどの高さの小さな宮殿が建っている。建材は石やら木やらで構成されており、通常の建築物ではないことは一目で分かった。すべてが継ぎ接ぎなのだ。それも、常人の目には視えない糸で縫合されている。
外にヨハンの姿がないことをさっと確認し、わたしは宮殿へと足を向けた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『レオン』→ビスクの婚約者。人形術を得意とする魔術師。独り言が多く、コミュニケーションに難がある。カシミールの弟であり、マダムの息子。三人とも血の繋がりはない。『黒の血族』のオークションでマダムに落札された。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~②不夜城~」』にて
・『ビスク』→レオンの妻であり、ポールの娘。故人。ポール曰く、控えめで優しい性格とのこと。彼女の死後、レオンはその姿を模した人形を所持するようになった。彼は人形もまたビスクと呼び、大切にしている。レオンが傷付くと、人形は彼の魔力を吸い上げて駆動する。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~②不夜城~」』にて
・『不夜城』→『煙宿』の中心にそびえる塔のこと。富裕層や要人が住まう。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』にて
・『水蜜香』→微睡草と呼ばれる、麻痺毒を持つ植物を刻んで干したもの。燻した煙を吸引することで、酩酊状態に誘う。中毒性が強く、量を誤れば廃人となる場合も。『煙宿』で生産された水蜜香が、王都の歓楽街に密輸されている。詳しくは『393.「甘き煙の宿場町」』にて
・『煙宿』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。ゆえに人探しはご法度。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」「煙宿~②不夜城~」』にて
・『ポール』→『煙宿』の創始者。水蜜香の中毒者であり、娘を溺愛していた。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~②不夜城~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『縫合伯爵ルドラ』→黒の血族で、ラガニアの伯爵。領地に金鉱を有する老翁。夜会卿主催のオークションの常連であり、彼とは表向き親密な関係。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー③赫灼の赤き竜ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー④銀嶺膝下マグオートー」』にて
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者だが、実は魔王と手を組んでいる。黒の血族だけの世界を作り上げることが目的。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐。詳しくは『875.「勇者の描く世界」』にて
・『メフィスト』→ニコルと魔王に協力していた存在。ヨハンの本名。現在はクロエと契約し、魔王討伐に協力している。初出は『幕間.「魔王の城~尖塔~」』
・『ココ』→『煙宿』にある針治療の店『針屋』に居候する女性。気さくで明るく、演技が達者。魔術の才能があり、得意の裁縫と組み合わせ、魔力を織り込んだ衣服を作る。魔力の糸を断つのも結ぶのもお手の物。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』『450.「復路の梟」』にて
・『転移魔術』→物体を一定距離、移動させる魔術。術者の能力によって距離や精度は変化するものの、おおむね数メートルから数百メートル程度。人間を移動させるのは困難だが、不可能ではない。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『視覚共有』→その名の通り、視覚を共有する魔術。詳しくは『9.「視覚共有」』にて
・『欺瞞の鏡面』→対象の視界を欺く魔術。詳しくは『533.「欺瞞の鏡面」』にて




