1014.「指輪返却物語」
不夜城の階段を淡々と登る。今のところ水蜜香の甘い匂いは感じない。副流煙程度であれば大丈夫だろうが、高濃度の煙を吸引して再び肉体を乗っ取られるのはごめんだ。
緩やかな傾斜のついた歪な階段を進むわたしには、なんの落胆もなかった。終わったことに頓着するなんて金輪際ない身である。
ロットの提案に対し、ラニがしばしぽかんとしていたのを思い出す。その表情のままぼろぼろと涙を流し、洟水を垂らし、手をお椀のかたちに差し出したのである。
『約束するぅ。約束するからぁ、お願い、指輪を返してぇ』
涙に濁った懇願はむろんわたしの心を一ミリも動かさなかったが、傍から見ればみっともない声だったろう。室内の血族たちが顔を見合わせ、思い思いに顔を歪ませていた。どれも困惑の表情だった気がする。少なくとも、ラニを嘲弄するような様子は微塵もなかった。同情の気配がほんのひと欠片くらいしか見出せなかったのは、彼女の言葉に面食らったというより、人望の無さを示しているように思えたものだ。普段は高慢ちきで、他人を踏みつけて悦に浸っている人格なのはロットの体験談だけでも察するに余りある。
指輪を奪うでもなく、手を震わせてひたすらに返却を待っている彼女に、ジークムントは小さく『真実だ』と呟いた。それで納得したのかは知らないが、ロットは銀の指輪を彼女に手のなかにそっと安置したのである。自分の手に戻った魔具を、彼女がぎゅっと握りしめたのは言うまでもない。それを装着せずに、震える拳を胸に押し付けて目を瞑り、それでも涙が流れては床に落ちた。
『その指輪、しばらく貸してくれない?』と言ってみたのだが、ぶんぶんと首を横に振るラニはまるで幼女じみていた。まあ、わたしの言葉も、それを発するタイミングも悪かったろう。ロットとジークムントが同時に振り返り、呆れ顔を浮かべていたから。
おそらく、ラニは二度と指輪を手放さないだろう。誰になにを言われようと。加虐的な性格が直るかは甚だ怪しいものだったが、彼女は部屋にいる血族たちに、もう虐めたりしないから無理して自分に従わなくていいと口にした。建物のなかに控えているほかの血族にも伝えるよう命じてまで。それが演技だったかどうかは謎だ。ジークムントが口を挟まなかったあたり、真実なのだろう。血族たちは戸惑いを隠さず、やがてぞろぞろとラニのもとを離れていった。側近中の側近であろう数名だけを残して。
指輪を嵌めたラニは、涙を拭いもせずにロットの手を握った。
『ねえ、あたくし、なにをお返しすればいい?』
『なにもいらねえよ』
顔を逸らしてぶっきらぼうに言うロットに、ラニはいくつかの装身具を外して渡そうとしたが、彼は頑なに拒んだ。売れば相当の金貨になるだろうに。
『不安なのよ。……あんたを疑ってるんじゃないんだけど……その……やっぱり返せって言われるのが怖くて』
『だから、俺は卑怯者になりたくなくて返しただけだ。もう二度と誰かを虐げたりしなけりゃ、それでいい』
『約束する! 約束するから!』
『分かったから、もう手を離してくれ』
これで改心する保証はない。長年かけて培われた性格はそう簡単に変わらないものだ。
ふと思いついて『水蜜香と指輪を交換しない?』と持ちかけてみたのだが、ラニは睨むし、ロットもわたしを振り仰いで濃い溜め息をついていた。ジークムントはもはや苦笑していたのを覚えている。
わたしが指輪を得る機会は、おそらく皆無だった。ロットは魔具を返すと心に決めていたわけで、彼らに出会ったときに交渉を持ちかけたとしても失敗に終わっただろう。もはやその場にいる必要もなくなったわたしは、二人に短い別れを告げて建物を出たのである。
そして今、不夜城を登っているわけだ。当初の目的――ヨハンに会うために。不夜城に彼がいる確証はないけれど、なんとなく上を目指しているのは、ずっと頂きで待機していた名残りからかもしれない。靄の先を見つめ続けるわたしの横に、大抵は彼の姿があった。今もそこにいるような気がする。もし姿がなければ、そのときはそのときだ。不夜城には煙宿を牛耳る男がいる。彼なら居場所を知っているかもしれない。
黙々と階段を登っていると、左右を壁に挟まれた回廊に出た。頭上に丸型の永久魔力灯が儚い薄明かりを落としており、光の届かない闇がいっそう濃く映る。
回廊の先で水音がしていた。進むにつれてそれは大きくなっていく。回廊脇の一段下がった場所に、ぽっこりと半円になった場所があった。そこにひと抱えもある大きさの桶が置かれていて、二人の人物がなみなみと湛えられた水のなかに手を突っ込んで、なにやら作業をしている。桶の真上の蛇口から流れる水が絶えず溢れ、鉄錆の浮いた排水溝へと流れていた。
わたしの足音に気付いたのか、二人は手を止めて振り返る。片や作り物の無表情。片や怜悧な無表情。ビスクとレオンだ。ビスクはいつもの花嫁衣装ではなく、質素な黒のブラウスと膝丈のスカート、そしてエプロンを身に着けていた。レオンは白の開襟シャツにベストにスラックスという出で立ちではあるが、足には添え木、腹には包帯を巻いている。そして二人とも袖口を捲っていた。彼らの頭上に灯った白色の永久魔力灯が、服に散った水の痕を黒々と際立たせている。
「クロエか。そこでなにをしている? 散歩か。いや、違うな。目的があってここに来たはず。血族の大隊が通過した以上、監視目的で塔の頂上に戻る必要はない」
レオンが平素のごとくぶつぶつと脳内の思考を垂れ流している。無視して先に進もうと思ったが、ビスクがエプロンで自分の手を拭い、彼の肩をトントンと叩いた。そして彼女は両手を前に揃えてお辞儀をする。
「ああ、すまないビスク。悪い癖だ。ご機嫌よう、クロエ。君は無事そうだな。怪我はないか?」
奇妙だ。ビスクは人形だけど、普段から動いているわけでもなかろう。レオンの肩を叩くような真似は見たことがない。もっとも、あまり面識はないからなんとも言えないが。
レオンとビスクは半透明の魔力の糸で互いに繋がっている。彼女を稼働させているのはレオンなわけで、こうした何気ない仕草も全部、彼が意図的に命じているのだろうか。ふと湧いた疑問だったが、即座に消え去った。知り得ないことを考えたところで甲斐はない。
ともかく、話しかけられて無視をするわけにもいかない。そう急ぎの用事を抱えているわけでもないのだから。
「ええ、見ての通り無傷よ。レオンは大怪我ね。強敵と戦ったの?」
「ああ。私とビスクで戦ったが、随分と強かった。彼が最初から最後まで無駄なく立ち回っていたなら、きっと負けていただろう」
「彼?」
「クマールだ。ルドラの長男の」
真っ昼間から娼婦と懇ろになろうとしていた男か。納得だ。彼が手にした棍はラニの指輪に負けず劣らず、整った魔力を備えていたから。
「さっきクマールと会ったわ。人間の女性とこれから遊ぶところだった。真実の愛を求めて、ね」
冗談ってこんなふうに言うものだと思う。たぶん。
でも失敗だったらしい。レオンは考え込むように指の背を唇に当てて俯いた。冗談の意味を分析しているのかと思ったが、違った。
「長く険しい道を歩む気になったのだな、彼も」
神妙な声で言うレオンに冗談っぽさはない。そもそも彼がふざける姿を目にした記憶は皆無だ。
それからレオンは、クマールとの戦闘後のことを語りはじめた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『不夜城』→『煙宿』の中心にそびえる塔のこと。富裕層や要人が住まう。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』にて
・『水蜜香』→微睡草と呼ばれる、麻痺毒を持つ植物を刻んで干したもの。燻した煙を吸引することで、酩酊状態に誘う。中毒性が強く、量を誤れば廃人となる場合も。『煙宿』で生産された水蜜香が、王都の歓楽街に密輸されている。詳しくは『393.「甘き煙の宿場町」』にて
・『ロット』→騎士団に入ったばかりで、実践経験を持たない少年。入団早々、騎士団員すべての追放が決まったことに強い憤りを感じている。自覚していないが、防御魔術の才能がある。トリクシィによる『煙宿』襲撃で、シーモアに救われた。現在、シーモアの使用していた槍の魔具『蒼天閃槍』を所持している。詳しくは『幕間.「王都グレキランス ~一縷~」』『第二章 第七話「追放騎士」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ジークムント』→初老の真偽師。王への謁見前に、クロエを真偽判定にかけた。謁見中の事件により、王都追放の処分を下された。詳しくは『261.「真偽判定」』『幕間.「王都グレキランス ~追放処分~」』にて
・『魔具』→魔術を施した武具のこと。体内の魔力が干渉するため魔術師は使用出来ないとされているが、ニコルは例外的に魔術と魔具の両方を使用出来る。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『煙宿』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。ゆえに人探しはご法度。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」「煙宿~②不夜城~」』にて
・『永久魔力灯』→魔力を施した灯り。光度や色調は籠められた魔力に依存する。魔道具。詳しくは『38.「隠し部屋と親爺」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『レオン』→ビスクの婚約者。人形術を得意とする魔術師。独り言が多く、コミュニケーションに難がある。カシミールの弟であり、マダムの息子。三人とも血の繋がりはない。『黒の血族』のオークションでマダムに落札された。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~②不夜城~」』にて
・『ビスク』→レオンの妻であり、ポールの娘。故人。ポール曰く、控えめで優しい性格とのこと。彼女の死後、レオンはその姿を模した人形を所持するようになった。彼は人形もまたビスクと呼び、大切にしている。レオンが傷付くと、人形は彼の魔力を吸い上げて駆動する。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~②不夜城~」』にて




