1012.「愛の値段」
女性に絡みつかれるクマールを眺め、足を止める。
「オマエ、クロエだろ。親父がご執心だった女。そうだろ?」
随分とぞんざいな口振りだ。事実なのだから頷いたし、なんとも思わないけど。
「それで、なにか用?」
そう促すと、クマールは絡みつく女性を一瞥した。
「この町じゃ、女を抱くのに金貨百枚ってのは本当か?」
なんとなく話が見えた。女性は娼婦か。それでクマールに吹っかけたのだろう。
遊女はおろか、娼婦の値段なんてわたしは知らない。記憶のどこにもなかった。ただ、実際はもっと安かろう。金貨百枚なんて高値、どんな品物であれ聞いたことがない。針姐の墨で同じ値段を要求された過去があるが、それはわたしを諦めさせる方便だ。
「せいぜい五枚か十枚でしょ。知らないけど」
知らないのに口を出すのもどうかと思ったが、出発まではまだ充分に時間がある。ヨハンに会って話をするのも短時間で済むだろう。無駄なコミュニケーションを取るのにやぶさかではない。
わたしの言葉に、クマールから見えない角度で女性が恨めしそうな視線を送った。やっぱり騙していたのか。血族だから簡単に欺けると思ったのだろう。しかも装飾品の豪華さを見ても金持ちだと分かるのだからなおさらだ。実際ルドラの長子なわけで、金に不自由していないはず。薄暗い稼業をしている者は大抵、そういうのに鼻が利くのかもしれない。
「そうか。テメェ、オレを騙しやがったのか! 真実の愛を教えてやると言ったな!? それが本当は金貨十枚程度なのか!?」
クマールは激して女性の肩を掴んだ。
呑気な男だと思う。食堂に入るのにも躊躇している血族とは大違いだ。この町での自由が決まるや否や女性を買おうとしているのだから。彼から誘いかけたのではないだろうけど。
女性は寂しげに視線を落とすと、みるみる涙を浮かべた。化粧が落ちる前にそれをさっと拭う。慣れた仕草だ。
「実は、出稼ぎなの。故郷に病気がちの弟がいて、その子のために大金が必要で……。でも、貴方を騙すなんてひどい女ね。ごめんなさい。忘れて頂戴。ほかの女の子と遊んで……」
女性はクマールの手をやんわりと外して、触れられていた箇所にそのまま手を添え、斜に俯く。流暢な言い訳と諦めで却って男を繋ぎ止めるのが彼女の手管なのか、それとも煙宿の娼婦に共通した技術なのか定かではない。ともかく、彼女の言葉は嘘だろう。出稼ぎならば煙宿ではなく王都のほうが適している。『ほろ酔い桟橋』をうろつく男の懐に大金などあろうはずがないのだから。
クマールはしばし黙して女性を見やっていた。一分かそこらだろう。甚だどうでもいいので不夜城方面へと足を踏み出しかけたところで動きがあった。彼は懐から半透明の覆いに包まれた金貨を女性に手渡したのである。見るに、金貨十枚。女性は躊躇いがちに、しかし決して断ることなく受け取る。クマールはまたぞろ懐から金貨十枚の覆いを手渡す。それが合計十回繰り返され、女性の両手に金貨百枚が積み上がった。
金貨が無言で積まれるなか、徐々に女性の顔から喜びが失せ、怖気が浮かぶのが見て取れた。吹っかけられたと分かって大金を渡す男に、さすがの彼女も不安を覚えたに違いない。彼は尋常一様の人間ならいざ知らず、血族なのだ。
「オマエの言い値通り、百枚払ってやる。弟のことはどうでもいい。オレは同情なんざ持ち合わせちゃいねえからな。真実の愛を教えろ。でなきゃ容赦しねえ」
女性の手のなかで覆い越しに金貨が打ち合わさって、微かに音が鳴る。危害を加えたらクマールの命も失われるわけだが、それを忘れさせる程度には迫力があったのだろう、彼女にとっては。女性の顔はすっかり青褪めている。
助け舟を出すつもりはなかった。この女性に恩を売る気もない。だからわたしが口を開いたのは気まぐれだ。あえて無駄な言葉を弄したに過ぎない。
「絶対的な愛なんてどこにも存在しない。それを探す道のりのなかで、ひとは愛を掴む。ただし、その愛はなにものにも担保されず、絶えず消えては現れる蜃気楼のごときもの。それでも愛を求め続け、かつ与え続ける営みによってのみ、愛なるものが束の間、姿を表す。心の内部に萌した愛らしきものを疑いつつも信じることでしか、愛なるものは維持出来ない。かように儚く、その存在すらもが薄弱な概念を信奉せよ。雑に扱うなかれ」
クマールは怪訝な顔で「なに言ってんだ、テメェ」と吐く。
「王立図書館に所蔵されてる小説に登場する一節よ。野蛮で浮気性な男の話。主人公は本物の愛を求めて手当たり次第に女性に手を出しては落胆して捨てるんだけど、ある日、道端に捨てられてた紙片を拾うの。それは啓蒙書の一ページで、さっきわたしが言った内容が書かれてる。男は啓蒙書の警句に衝撃を受けて、以来、女性に優しくなった。愛の探し方を変えたわけ」
「……それで、そいつは愛を手に出来たってわけか。薄っぺらい話だ」
「いいえ。男は結局愛がなにかなんて分からなかったし、愛されもしなかった。男の悪評は広まってたから、急に優しくなったって誰も相手にしないわ。でも諦めずに色んな女性にアプローチを続けて、でも振り向いてもらえない。ラストは――」
「待て、言うな」
クマールはそう遮って、小説のタイトルと、煙宿で入手可能かを訊ねてきた。この町に書店があるかは知らないので、書名だけを教える。
彼は短く「そうか」と呟くと、女性を伴って付近の空き家へと去っていった。
自分でその小説を読む気なのだろうか。まあ、好きにするといい。彼の顔には思案げなものがあったが、娼婦とともに去った以上、やることはやるのだろう。ただ、そう物騒なことにはなるまい。彼の脅迫めいた狂喜はなりを潜めていて、内省の雰囲気が漂っていたから。まあ、今のわたしの観察眼なんてアテにならないけど。
クマールが小説を読んでどう思うかは知ったことではない。主人公はラストで、捨て猫を拾って家に帰る途中、以前手酷く捨てた女性に刺されて死ぬのだ。
『とっくに手遅れになった人生にようやく兆した光が潰えるその瞬間、彼は自分を変えた例の書物の一節を思い出した。流れ出した血を猫が舐めている。女の靴が石畳を打つ音が段々遠ざかっていった。身体の末端から中心へと冷気が広がり、同時に感覚も失せていく。頭だけが明敏で、そう長くない人生の航跡が脳裏に映えた。
俺は一匹の盲いた獣だった。生涯、闇しか知らないはずだった。しかし死に際であれ、光を見た。あの光を愛と呼んだらバチが当たるだろうか。
事切れた男のそばで猫がひと鳴きし、路地へと去っていく。夕陽が男を、家屋の影に隠した。』
これが最後の場面である。以前のわたしがこの作品を読み終えて、どのように感じたかは覚えていない。
クマールを見てふと思い出したので諳んじてみただけだ。彼の姿がなんとなく、その小説の主人公に似ていたからかもしれない。もちろん、肌は紫ではないけれど。
わたしはクマールとは反対方向――不夜城方面へと足を向けた。酒場から漏れ聞こえるざわめき。遊女のものらしき嬌声。賭場から流れる罵声と笑い。それら全部を聞き流して、淡々と歩んだ。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『縫合伯爵ルドラ』→黒の血族で、ラガニアの伯爵。領地に金鉱を有する老翁。夜会卿主催のオークションの常連であり、彼とは表向き親密な関係。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー③赫灼の赤き竜ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー④銀嶺膝下マグオートー」』にて
・『針姐』→『煙宿』で針治療の店を営む、本名不詳の女性。派手な着物姿。語尾の上がる独特の喋り方をする。ザッヘルの妻。食後に、煙管で水蜜香を一服するのが好き。魔力を込めた墨を彫り込み、対象に強化魔術を付与することが出来る。ただし、墨は能力の使用や時間経過に応じて肉を蝕む。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』にて
・『煙宿』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。ゆえに人探しはご法度。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」「煙宿~②不夜城~」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ほろ酔い桟橋』→『煙宿』のなかで、一般的な住民の住むエリア。『不夜城』以外の部分はすべて『ほろ酔い桟橋』にあたる。居住区よりも娼館や酒場、賭博場といった広義の娯楽施設のほうが多い。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』にて
・『不夜城』→『煙宿』の中心にそびえる塔のこと。富裕層や要人が住まう。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』にて
・『王立図書館』→王都グレキランスにある図書館。クロエが好んで通っていた場所。詳しくは『203.「王立図書館」』にて




