1009.「喧嘩したい気分なの」
眼前には怪訝な顔がふたつ。アリスとマヤだ。背後ではスピネルが慌てている気配がする。衣擦れの音から、ナルシスは額に手を当てたことだろう。
部外者はどうでもいい。わたしの関心はたったひとりだけ。血族の魔術師マヤだ。
彼女はいかにも不快な表情を浮かべ、わたしの頭から爪先まで視線を流す。それから深い溜め息をついて目を逸らした。
「なんなの、次から次へと……。アリスは魔術のことを根掘り葉掘り聞いてくるし」
「アンタを買ってるんだよ。どうやって魔力を隠蔽してるのか教えてくれたっていいじゃないか」
言って、アリスがマヤへと近寄る。マヤは鬱陶しそうに片手でやんわりと押し退けた。
「だから、特別なことなんてしてないって言ってるでしょ。そもそも独学だし、誰かに教えたり出来るようなコツなんてないって」
「独学でもなんでもいいさあ。抽象的でもかまわないから、魔力の抑え方を喋っておくれよ」
嫌そうな顔をするマヤと、愉快そうに詰め寄るアリス。二人の間には謎の親密さが見受けられた。感情のないわたしにも分かるくらいには。
わたしの知る限り、アリスは敵と仲良くするようなタイプじゃなかったような気がする。……いや、そうでもないか。わたしとも元々は敵同士で、まだ果たされていない決闘の約束もある。それでもなんだかんだ交流してきたんだから一概には言えない。
「それで」とマヤはアリスの追求を無視してわたしを睨んだ。「喧嘩ってなに? わたし、あんたになにかした? そもそも初対面なんだけど?」
不愉快を丸めて投げつけるような疑問の数々は、当然だと思う。見ず知らずの相手から喧嘩を吹っかけられるのは気分のいい体験ではないだろう。
わたしは無言でマヤの横を通り抜け、湿原へと踏み出した。彼女と十メートルほどの距離を置いて振り返り、サーベルを抜く。
「喧嘩したい気分なの。無性に。相手はあなたじゃなきゃ駄目」
「……意味が分からない」
「意味なんてどうでもいいから、さっさとかかってきなさいよ。本気で」
煽るって、こんな感じだったはず。たぶん。
言うまでもなくわたしはムシャクシャしているわけではない。そんな感情どこにも存在しなかった。以前のわたしだって、腹が立ったとしても誰彼かまわず食ってかかることはなかったと思う。
「なるほど!」とナルシスが表情を晴らした。「クロエ嬢はマヤ嬢の魔術をコピーしたいのか! 雷の魔術師だったかな。クロエ嬢のレパートリーに雷は無いから、この際、増やしておこうというわけだ! マヤ嬢に説明しておこう。クロエ嬢の武器は魔術を保存する能力があるのさ。貴女の腕を見抜いて、手合わせを願い出ているということだね。喧嘩と言ったのは方便だ。マヤ嬢の雷の魔術を受けるには、契約の隙間を縫う必要がある。喧嘩程度なら許されているわけだから、そのような表現をしたのだよ、クロエ嬢は」
ひとり納得して頷くナルシスに、余計なことを口にして、と思った。口調は妄想を垂れ流している者のそれだが、ことごとく正鵠を射ているのだから特殊な男である。にもかかわらず、わたしが雷の吸収を乞うのではなく、あえて喧嘩を吹っかけた意図を汲み取ってくれないあたり、大事ななにかが欠けている。彼の隣で「なるほどっすね」と安堵するスピネルも大概だ。
「なにそれ。普通に嫌なんだけど」
マヤが吐き捨てるように言うのも道理だ。自分の得手をコピーされるのを快く思うわけがない。喧嘩云々と言ったのもそれが理由のひとつだ。もうひとつ、わたしにとってはなにより大事な理由がある。
「まあ、いいじゃないか」とアリスがマヤの肩に気安く触れる。「お嬢ちゃんだってアンタの親父を倒すのに一役買ったわけだろう?」
「ええ。わたしがいなければ煙宿の奪還は成功しなかった」
嘘を言っているわけではないが、あえて誇張してみた。今回の顛末はマヤにとって望ましいはず。ルドラと袂を分かつくらいには強い執着があるのだから。
やがてマヤはうんざりした顔で肩を落とした。
「いい加減眠いから、少しだけでいい?」
「駄目。本気でやって」
「鬱陶しい……なんなの」
呟くマヤに、サーベルを構えて見せた。
アリスの言う通り、彼女の魔力は特殊だ。一見すると一般人程度の魔力しか有していないように視える。ただ、よくよく観察すると表皮に均一な、揺らぎのない魔力の膜を張っていた。おおかたそれで魔力の無闇な流出を抑止しているのだろう。詳しいことは分からない。グレキランスの王立図書館の蔵書類で、魔力の漏出を防ぐ方法について記された書物は数あれど、自分の身体を魔力でコーティングしてどうこうするような内容はなかったと記憶している。マヤ自身が口にしたように、独自に発展させた技術に違いない。
マヤの手が気怠げに持ち上がり、手のひらがわたしへと向けられた。刹那、鋭角に曲がる一条の細い雷がまたたく間に接近して――。
「……なにしてんの? それでコピーするわけ?」
「コピーするにはサーベルで受ける必要があるわ」
「は?」
マヤとしては本当に面倒くさいのだろう。さっさと終わらせたいと思っているに違いない。だから嫌悪の表情を露わにしている。
わたしは彼女の雷を、サーベルを持っていない片手で受け止めたのだ。相応の痛みはあれど、些細なものである。手を貫かれることすらなかった。受けた瞬間には痺れが広がる感覚があったものの、それもせいぜい二の腕までの伝播である。
これだから、意図を明かさず喧嘩――願わくば死闘にしたかったのだ。
「これがあなたの本気なんだとしたら、がっかりね。ムカデに刺されたほうがマシ」
ムカデに刺された経験はないけど。
今回の煽りはそれなりに効いたらしい。マヤの表情が一転して怜悧に整った。
次の攻撃はもっとマシだろう。でもたぶん、本気ではない。最大級の魔術を使うまで何度でも煽ってやるつもりだ。今のわたしはどんな言葉であれ抵抗なく口に出来る。
「さっさと一番強い魔術を使いなさいよ、腰抜け。疲れてるなんて言い訳聞きたくない。それとも、契約違反になるのが恐いの? それなら大丈夫よ。今のあなたじゃ喧嘩にすらならないもの」
「姉さん、大丈夫っすか? その、痛くないんすか」
「大丈夫よ。心配してくれてありがとう、スピネル」
わたしはマヤたちと別れ、『ほろ酔い桟橋』を進んでいる。目的を果たした以上、もう彼女に要はない。
「スピネル氏は優しい方だ。でも心配無用。今のクロエ嬢は致命傷以外は無傷だし、痛みも瞬間的なものだろう?」
「そうよ」
訳知り顔で言うナルシスに頷きかける。
「それにしても、あの巨大な雷撃は見事だった。さすが本職の雷の魔術師! 敵無しとまでは言えないが、独学であの練度なら達人と言って差し支えないだろう! それを生身で受けるクロエ嬢の胆力も素晴らしい。ただ――」
ナルシスがちらとわたしを見やる。彼の装いは開襟シャツにズボンひとつ。それも薄手のやつに変わっている。
「服が全焼してもサーベルを構え続けるのは、いささか仰天した。まあ、それも正真正銘の戦士の在り方なのだろう。クロエ嬢を見ているといつも新鮮な驚きに心が潤うよ」
今、わたしはナルシスの着けていた外套をまとっている。その下はほぼ全裸だ。別に裸で歩くのになんの抵抗もないけど、仕事が終わって帰還したわたしに、ナルシスが目を逸らしながら外套を渡したので厚意に背かなかっただけである。
以前のわたしなら、たとえ戦闘中であろうとも肌の露出でひどく取り乱したことだろう。くだらない自意識だ。服を着て産まれてきた者はいないのに。
「ともあれ、服は見繕う必要があるね。どこかで買おう。なに、代金はこのナルシスにお任せあれ!」
「なんであなたが払うの?」
「妙齢の女性の裸を見てしまった償いさ」
よく分からない。けど、当人が納得しているならそれでいい。実際、わたしは大して金貨を持っていないのだから。
なんであれ、ちょうど仕事を頼みたい相手がいる。この煙宿において――もしかしたらグレキランス中でも――右に出る者はいない服飾の専門家に。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。実は防御魔術のエキスパート。王都の歓楽街取締役のルカーニアと永続的な雇用関係を結んだ。ラガニア随一の魔術師ヘルメスに弟子入り。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』『Side Alice.「ならず者と負け戦」』にて
・『マヤ』→縫合伯爵ルドラの次女。ルドラの指示で夜会卿に捧げられたが、兄であるアビシェクのみが殺害され、彼女は生かされた。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー④銀嶺膝下マグオートー」』にて
・『スピネル』→二度目の『霊山』来訪で出会った、薄黄色の鱗の竜人。臆病で、長いものに巻かれる性格。クロエが無理やり『霊山』に押し入ったことにより、門番をしていた彼も裁きを受ける手はずになっていた。クロエが竜人の族長となったことで無罪放免となり、それから彼女を「至高の星」と呼んで心酔し、自ら下僕関係を望んだ。「至高の星」とは、竜人を含めた世界全部を良くする存在なんだとか。詳しくは『第四章 第二話「幻の森」』にて
・『ナルシス』→王都の騎士団に所属している交信魔術師。自信家で演技口調。しかし交信魔術の腕前は送受信ともに優秀。また、元真偽師。観察眼と魔力察知にも長けている。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー①前線基地ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『煙宿』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。ゆえに人探しはご法度。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」「煙宿~②不夜城~」』にて
・『縫合伯爵ルドラ』→黒の血族で、ラガニアの伯爵。領地に金鉱を有する老翁。夜会卿主催のオークションの常連であり、彼とは表向き親密な関係。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー③赫灼の赤き竜ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー④銀嶺膝下マグオートー」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。また、グレキランス一帯の地方を指して用いられる。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『王立図書館』→王都グレキランスにある図書館。クロエが好んで通っていた場所。詳しくは『203.「王立図書館」』にて
・『ほろ酔い桟橋』→『煙宿』のなかで、一般的な住民の住むエリア。『不夜城』以外の部分はすべて『ほろ酔い桟橋』にあたる。居住区よりも娼館や酒場、賭博場といった広義の娯楽施設のほうが多い。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』にて




