1008.「資格を求めない町」
朝靄の大通りには多くの人々が行き交っていた。すっかり安堵を顔に浮かべて酒瓶を手にしてぶらついている者もいれば、遊女との立ち話に躍起になっている者もいる。一方、むっつりした顔で周囲を睥睨している者や、暗鬱に俯いている者も。彼ら彼女らの肌は一様ではない。人間のそれと血族のそれが入り混じり、装束も異なるものだから、文化がごちゃまぜになっている印象である。
「賑やかになりましたなぁ」と隣を歩くヨハンが平々凡々と口にする。
「無事でなによりだったよ、クロエ嬢もヨハン氏も。クロエ嬢が後れを取るとは思っていなかったが、最小限の血で済んだのはなりよりだ。スピネル氏もそう思うだろう?」
「そっすね! マジで恐かったっす! 町全部が巨人に囲まれてるなんて、ゾッとするっすよ!」
ナルシスとスピネルが地上に降り立ったのはつい先ほどのことだ。好奇の目はあれど、彼らへの敵意はどこにもない。今の煙宿で殺される憂いはないのだ。血族は誰ひとり檻には入らず、人間たちと同じように自由に過ごしている。その多くは遠慮がちだろうが、じき酒場の酔漢と一緒になって気楽さを愉しむことだろう。
この状況はすべて、ココの異議によるものだ。
『ここは煙宿だよ! 暮らすために必要な資格なんてひとつもない。だから、檻に入れるのはナシ! みんな自由に過ごしていいけど、お互いを無闇に傷付けなければいいだけじゃない? 戦争中は町の外へ出れないのは別にいいと思うけど、拘束してもしなくても一緒でしょ』
まったく、甘い提案だ。しかしながらポールは彼女を支持したのである。煙宿のルールに沿えばなんの問題もないと。竜人のスピネルやハーフのヨハンを受け入れている以上、血族も人間も関係ないとまで主張した。
ともあれ、完全な自由が保証されたわけではない。そこはヨハンの手管で、様々な付帯事項付きの契約を、一部の例外を除いて全員に結ばせたのである。血族は戦時中、町から一歩も出てはならず、防衛面でのみ魔物の動員を許可する。人間側も血族側も双方、煙宿で傷付け合ってはならない。ただし、酔って喧嘩する程度なら許容する。ほかの血族が来訪した場合や、魔物の襲撃にあたっては、人間と血族双方で協力して排除に務めること。血族側も人間側も煙宿から外部への交信は禁止。などなど。
要するに、町のなかで互いに平和に生活するように、という約束である。一切の娯楽は隔てなく許されていた。煙宿創始者のポールが、契約締結の時点から血族も人間もフェアなのだから、食事や酒を出さないといった道義に悖る行為はしてはならないと宣告したのである。
実際に契約を結ぶには随分と時間がかかった。それこそすっかり日が昇るまで。契約対象が血族だけではなく人間も含まれたためだ。
ヨハンの横顔を見ても、疲れているのかどうか分からない。いつだって病人じみた顔だから。
「そろそろ二重歩行者を解除したら?」
気まぐれにそんなことを言ってみる。本心ではどうでもいいけれど、空白の時間が生まれたので無駄口を利いてみただけだ。
ヨハンは「それもそうですね」なんてぼんやり言って、ナルシスとスピネルを見やった。「お嬢さんのお世話は二人にお任せします。私はしばらく休みますので。二人とも、休みたくなったら遠慮なく言うんですよ。そのときはお嬢さんもどこかに宿でも取ってください」
「私は休む必要なんてない」
「そうではなく、二人と一緒に行動していただきたい、という意味です」
スピネルとナルシスは両者ともに便利な存在だ。しかし今は大して効力を持たない。一旦煙宿で時間を潰すと決まった以上、スピネルの翼を頼る必要はなかった。ナルシスに関しては、流れ込んでくる交信魔術の内容をキャッチする役目はあれど、情報をわたしに伝えるだけなら一緒にいる必要はない。煙宿内でわたしの耳に直接交信を飛ばしてくれればいいだけだ。禁止されているのは、煙宿から外部への交信魔術の送信のみなのだから。
人間側の送信まで封殺する理由は考えるまでもない。煙宿は依然としてルドラに制圧されている――ヨハンとしては敵にも味方にもそう思わせておきたいらしい。
「クロエ嬢のことはお任せあれ。このナルシスとスピネル氏が責任をもってもてなそうではないか!」
「ウッス!」
もてなすってなんだ、と思ったけど、ナルシスの語彙が特殊なのは今にはじまったことではない。
ヨハンはこっくり頷くと、わたしに苦笑を送った。
「水蜜香の件は申し訳ございません」
「別にいいわ。作戦上必要だったんでしょ」
「中毒症状は出ていますか?」
「いいえ」
水蜜香の第三の症状。依存。以前のわたしは水蜜香が完全に抜けきるまで、甘い煙への誘惑でひどく惑わされたものだ。今のわたしにそのような感覚はない。試しにもう一度水蜜香を嗜んでみる気もなかった。
ヨハンに背負われている間のことは記憶に残っている。わたしのなかにしぶとく居残っている何人かの人格は邪魔だ。とりわけ酔ったときのわたしと、以前の甘ったれのわたしは消滅させたい。強敵と相まみえた際の恍惚の人格とだけ手を結ぶべきだ。
ヨハンが無言で手を差し出したので、一瞬なにかと思った。単なる握手だと察し、手を取る。温かい。ということは、今のわたしの体温のほうが彼よりずっと低いことを意味している。
「それでは、また」
ヨハンはそう言い残して姿を消した。
なんの握手だったのかは知らないし興味もない。さすがになんらかの魔術を施したわけではないだろう。すると心の赴きに依拠した行動なわけで、わたしには把握することの出来ない事柄だ。
「で、姉さんはどこに行くつもりなんすか?」
「野暮用。スピネルはどこかで休んでいていいわ。ナルシスも」
とんでもない、とでも言いたげにナルシスが首を横に振る。
「いや、同道するさ。クロエ嬢のお目付け役を担ったのだからね。スピネル氏も同じ思いだろう?」
「そっすね。姉さんと一緒が一番安心出来るっす」
来たければ好きにするといい。二人がいようといまいと、わたしの行動に違いは生まれないから。
やがて桟橋の末端までやってくると、二人の女性の姿があった。
「おや、お嬢ちゃんじゃないか。散歩でもしてるのかい?」
軽薄な笑みを口の端に浮かべたアリスが振り返る。隣の女性の血族もこちらを振り向いた。敵意剥き出しというわけではないが、煙たさを隠さない表情である。
雷の魔術師、マヤ。唯一ヨハンとの契約に一部合意しなかった血族だ。ほかの血族や人間に危害をおよぼさないことや、外部への交信はしない旨は合意したものの、煙宿に留まることを良しとしなかったのである。だから、彼女だけは戦時中もこの地を去ることが出来る。もちろん、いつでもというわけではない。タイミングは決まっているし、わたしたちと行動をともにする約束になっていた。
動機は私怨である。実の兄を殺した相手を潰すため。ルドラは随分必死になって止めていたけれど、最終的にヨハンが彼女の同行を許したのである。結果、ルドラはマヤに勘当宣言を下したが、わたしにとっては他人の家庭事情なんてどうでもいい話だ。勘当された彼女も願ってもない様子だったので、なおのこと気にする理由がない。
なんにせよ、マヤには個人的に用がある。
「マヤって言ったかしら。わたしと喧嘩してくれない? お得意の雷の魔術で」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『スピネル』→二度目の『霊山』来訪で出会った、薄黄色の鱗の竜人。臆病で、長いものに巻かれる性格。クロエが無理やり『霊山』に押し入ったことにより、門番をしていた彼も裁きを受ける手はずになっていた。クロエが竜人の族長となったことで無罪放免となり、それから彼女を「至高の星」と呼んで心酔し、自ら下僕関係を望んだ。「至高の星」とは、竜人を含めた世界全部を良くする存在なんだとか。詳しくは『第四章 第二話「幻の森」』にて
・『ナルシス』→王都の騎士団に所属している交信魔術師。自信家で演技口調。しかし交信魔術の腕前は送受信ともに優秀。また、元真偽師。観察眼と魔力察知にも長けている。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー①前線基地ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『煙宿』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。ゆえに人探しはご法度。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」「煙宿~②不夜城~」』にて
・『ココ』→『煙宿』にある針治療の店『針屋』に居候する女性。気さくで明るく、演技が達者。魔術の才能があり、得意の裁縫と組み合わせ、魔力を織り込んだ衣服を作る。魔力の糸を断つのも結ぶのもお手の物。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』『450.「復路の梟」』にて
・『ポール』→『煙宿』の創始者。水蜜香の中毒者であり、娘を溺愛していた。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~②不夜城~」』にて
・『竜人』→全身を鱗に覆われた種族。蛇に似た目と、鋭い爪を持つ。王都の遥か西にある山脈に生息している。弱者には決して従わない。鱗の色で階級が二分されており、『純鱗』は気高く、『半鱗』は賤しい存在とされている。詳しくは『626.「血族と獣人」』『幕間.「青年魔術師の日記」』にて
・『二重歩行者』→ヨハンの得意とする分身の魔術。影に入り込んで移動することが可能。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて
・『縫合伯爵ルドラ』→黒の血族で、ラガニアの伯爵。領地に金鉱を有する老翁。夜会卿主催のオークションの常連であり、彼とは表向き親密な関係。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー③赫灼の赤き竜ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー④銀嶺膝下マグオートー」』にて
・『水蜜香』→微睡草と呼ばれる、麻痺毒を持つ植物を刻んで干したもの。燻した煙を吸引することで、酩酊状態に誘う。中毒性が強く、量を誤れば廃人となる場合も。『煙宿』で生産された水蜜香が、王都の歓楽街に密輸されている。詳しくは『393.「甘き煙の宿場町」』にて
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。実は防御魔術のエキスパート。王都の歓楽街取締役のルカーニアと永続的な雇用関係を結んだ。ラガニア随一の魔術師ヘルメスに弟子入り。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』『Side Alice.「ならず者と負け戦」』にて
・『マヤ』→縫合伯爵ルドラの次女。ルドラの指示で夜会卿に捧げられたが、兄であるアビシェクのみが殺害され、彼女は生かされた。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー④銀嶺膝下マグオートー」』にて




