136.「天然っ子」
彼女はビクターの助手という立場らしかった。助手とはいっても重要な職務は任されず、専ら子供の世話と雑務とのことである。
ベッドに寝かされた子供たちが一体どういう状態にあるのかセシルは知らないらしかった。日に二度の注射に加えて血圧と心拍の測定を記録するばかりで、それが具体的にどういう意図のもとにおこなわれているのかも、その結果なにが起こるのかも知らない。ただ、それが異様なことである予感はずっと抱いていたらしい。
『アカデミー』の重要性は警備の面からも明らかである。彼女の口からも『帽子屋』の常駐は異常であると語られた。騎士団長が常に守る施設は、外部への謳い文句と実態が大きく異なる。そこを支配するのは魔具職人であるビクター。どう考えてもおかしな話である。
長い廊下を歩きつつ、そんなことを囁き声で話してくれた。この施設には『帽子屋』とセシルが常駐しているのみで、ビクター本人は『アカデミー』にいる時間は少ないらしい。どこでなにをしているのか知らないが、どうも忙しい様子とのことである。
「今夜は特別、警備が緩いんです。本当に不思議なくらい……。『帽子屋』がビクターと一緒にひと晩施設を空けているんです。だから――」
あなたたちは運が良い。そう彼女は続けた。
確かに、良いニュースである。ハルキゲニアで最も脅威とされる男がいないのはありがたい。
「しかし、不用心ですな……。つい先日時計塔が襲撃されたばかりだというのに」とヨハンは首を捻った。
「城の警備のほうが重要だからじゃないんですか? それに『アカデミー』には昨晩から『帽子屋』以外の騎士が常駐するようになりましたから……」とセシルは控えめに返す。
『帽子屋』以外? すると……。
「それって、グレイベルや『白兎』のことかしら?」
恐る恐る訊ねると、セシルは首を振って否定した。
「いえ、騎士団の主要なかたではないようです。子供によく懐かれている人で、悪いかたには見えませんでしたが……」
騎士も一様に悪党ではないのだろう。しかし、敵であることに違いはない。どれだけ子供に懐かれていようとも、積極的に『アカデミー』に力を貸しているのならそれは倒すべき相手だ。
セシルは怯えを隠さず「ビクターが帰ってくる前に全部終わらせてください……」と呟いた。
ここまで恐れる理由がどこにあるのだろうか。
「それは状況次第ですね」とヨハンが答えると、セシルはいかにも絶望的に喘いだ。それを見てヨハンは困ったように頭を掻く。「まあ、全力は尽くしますし、早急に動くつもりですよ」
「もし……。もし許されるなら、あなたたちと一緒に『アカデミー』を抜け出して……。匿ってくれませんか?」
はじめからそのつもりである。協力者を放り捨てるような真似なんてしない。
「勿論よ」
そう返すと、セシルはようやく微笑んだ。安堵した様子に隠れて、どこか諦念の影が落ちているように感じたが、今すぐに不安を拭い尽くすことは出来ない。彼女が本心から笑うのは、ビクターや『アカデミー』、ひいてはハルキゲニアの政府機関から完全に解放されたときだろう。つまり、レジスタンスと同様の立場である。
一旦の目的地は広間だった。そこにノックスとシェリーがいないとも限らない。セシルだって全員の顔を記憶しているわけではないだろう。
弱々しい永久魔力灯が照らす回廊は左右を堅牢な壁に囲われていた。暫く歩けばエントランスに出るとのことである。そこから一階に移り、奥へと進めば広間に出るらしい。
「ひとつ、聞いておきたいことがあります」とヨハンが切り出した。
セシルは歩みを止めずに不安気な目を向けた。「……なんでしょう」
「『アカデミー』内にビクターの部屋はありますか? あるいは、資料室のようなものは?」
ヨハンはあくまでも『アカデミー』の内情を暴くことを主として動いているようだった。レジスタンスとしては当然の目的意識だろうが、少し落胆してしまう。二人の子供と内部情報を天秤にかけているように思えてならない。そもそもドライな人間だとは思っていたが……。
セシルは考え込むように俯いて歩いた。心当たりを探っているのだろう。それはつまり、彼女が頻繁に目にする場所にそういった部屋はないというわけだ。
やがて曲がり角に差し掛かった――が、セシルはそのまま直進して壁に頭をぶつけた。
瞬間「あうっ」と声を上げてしゃがみ込む彼女がなんとなく愛らしく思えた。
天然っ子め。
セシルの頭を撫でつつ、回廊の先に目を向けた。まだ暫く道が続いている。壁に埋め込まれた鉄扉は、どうも不穏な印象しか覚えない。
しゃがみ込んだままのセシルを見かねたのか、レオネルが彼女の頭に手をかざす。治癒魔術がかけられ、セシルはきょとんと老魔術師を見上げた。
「あ、ありがとうございます……」
「お気にせず」とレオネルは微笑む。もはや緊張感なんてあったもんじゃない。
歩き出しても、セシルは首を傾げて考えている様子だった。
それからいかにも自身なさげに「あの……」と切り出す。
「お心当たりが見つかりましたか」とヨハンが返した。
「ええ、多分……。施設の反対側もこちらと同じ造りになっているんですが、ビクターはよくそちら側をうろついているようでした……」
あまりに曖昧な返答。しかし、これが思い当たる限界のところなのだろう。セシルの申し訳なさそうな口調で充分伝わった。
「しょうがないですね……。エントランスに着いたら二手に分かれましょう。私とセシルさん、お嬢さんとレオネルさんのペアです。よろしいですか?」
「異論ないわ」「いいでしょう」
わたしとレオネルの言葉が重なった。
ヨハンたちは資料の捜索。わたしたちは子供たちの解放及びノックスとシェリーの捜索。ヨハンとセシルを二人きりにするのは心配だったがやむを得ない。セシルがヨハンの追及や小言に耐え切れずに泣き出さないことを祈った。
やがて回廊を抜けると、永久魔力灯の光が強くなった。エントランスに出たのである。それまでの石壁と同じ素材の床が広がっている。絨毯もなければ、柱にも装飾は施されていない。質素を通り越して監獄じみていた。黒ずんだ灰色の床と、同じ色の壁。手すりは剥き出しの鉄で、エントランスへ降りる階段もデザイン性のない野暮な造りだった。外へと通じる大扉だけは縁取りと取っ手が金色に輝いていたが、それ以外の扉はいかにも頑丈そうな鉄扉だった。
静まり返ったエントランスに降りると、ヨハンとセシルはそのまま反対側の階段を登って回廊へと消えていった。
事前にセシルは、今施設にいる騎士については心配いらないと残していった。曰く、奥まった場所で待機しているらしい。警備にしては悠長な構えである。
わたしはレオネルと目配せをし、広間へと続く鉄扉に寄った。鍵はかかっていないようだったが、さすがに真夜中に鉄扉を開けるのは神経を使う。少しずつ、少しずつ、と意識しながらも最初のひと押しで随分と大きな音がして、思わず手を離した。
耳を澄ますと、静寂のままだ。
ほっと胸を撫で下ろして鉄扉に手をかける。
直後、扉が開く巨大な音がエントランスに響き渡った。鉄扉は閉まったままである。その音はわたしの後ろ――つまり『アカデミー』の表口からした。
咄嗟にサーベルを抜き去り、扉を睨む。大扉がけたたましい音を立てて、少しずつ開いていく。そしてひとりの男が現れた。
見るからに上等な燕尾服。その下の白いシャツは、胸に深紅のハンカチが垂れ下がっている。漆黒のシャープなブーツに、光沢のある白い手袋。腰にはレイピア。背はヨハンと同じくらいだろうか……随分と大きい。金縁の片眼鏡をかけた顔は、端麗と言って差し支えなかった。どこかニコルと似た、余裕のある雰囲気を感じる。
眉の辺りまでの髪は深い茶色である。ここまででも充分特異だったが、ふたつ特徴があった。ひとつは、青と碧のオッドアイ。もうひとつは、赤いリボンで締められたシルクハット。
「これはこれは……。随分と大きな鼠が入ったな……」
涼しげな声だった。
隣のレオネルに目を向けると、彼は張り詰めた表情をしていた。
間違いないだろう。
ハルキゲニア一番の脅威。騎士団長『帽子屋』。そいつが目の前にいる。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『アカデミー』→魔術師養成機関とされる場所。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』『121.「もしも運命があるのなら」』にて
・『ノックス』→クロエとともに旅をした少年。『アカデミー』に引き取られた。
・『シェリー』→ハイペリカムで保護された少女。クロエによって『アカデミー』に引き渡された。詳しくは『94.「灰色の片翼」』『98.「グッド・バイ」』にて
・『帽子屋』→ハルキゲニアの騎士団長。魔力察知能力に長けている。
・『グレイベル』→元々レオネル同様、ハルキゲニアの防衛を担っていた魔術師。女王の軍門に下った。詳しくは『111.「要注意人物」』にて
・『白兎』→ハルキゲニアの騎士。魔術師。詳しくは『112.「ツイン・ラビット」』にて
・『レオネル』→かつてハルキゲニアを魔物から守っていた魔術師。レジスタンスのメンバー。詳しくは『104.「ハルキゲニア今昔物語」』にて




