134.「潜入~充満する気配~」
ヨハンもレオネルも口を利かなかった。まだ庭内とはいえ既に敵の拠点である。なにが起きようとも不思議ではない。危機を事前に察知してベストな対処をする必要がある。ゆえに、わたしも含めて全員が意識を研ぎ澄ましているのだ。
一歩踏み出すと急激に肌が粟立ち、悪寒が全身を覆った。思わず足を止めると、先を行く二人がこちらを不思議そうに振り返る。
勘弁して。どうなってるのよ。
意を決して歩みを再開したものの、肌を刺すような嫌な感覚は消えない。
魔物の気配。それも、敷地内を一歩進んだ瞬間からだ。微弱なものではなく、はっきりと魔物のそれと分かるほど強烈な気配。通常、これほど明確なものならば遠くから徐々に感付いていくものなのだが、そういった予兆は一切なかった。加えて、魔物の数も位置もなぜか特定出来ない。気配が充満している、としか表現のしようがないものだった。
未知の魔物が存在するのか、あるいは、なにか別の理由があるのか。いずれにせよレオネルの言った通り敵は『帽子屋』だけではなさそうだ。
湿った芝生を進みながら、この圧倒的な違和感について思いを巡らせた。ハルキゲニアは壁によって魔物の襲撃から街全体を守っている。防壁が打ち破られたという話も聞いていない。だとしたら、『アカデミー』の敷地内に溢れるこの邪悪な気配はなんだというのか。
ヨハンもレオネルも、この異常には気付いていないように見える。
「……ちょっといいかしら」
足を止めて小声で囁くと、二人とも怪訝な顔をして立ち止まった。
「なんです?」とヨハン。
「魔物の気配がする。それも『アカデミー』に入った瞬間から」
ヨハンは真剣な表情で口元に手を当て、レオネルは心持ち目を見開いた。
ヨハンは声を抑えて「……ここは壁の中ですよ?」と返す。
「そう。だからおかしいの。本来ハルキゲニアの中で魔物の気配がしてはならないはずでしょう? 壁が破られたんじゃなければ」
「壁を突破されたことは今まで一度もありません。……なんにせよ、用心するに越したことはないでしょう」とレオネルは静かに答えた。
緊迫が霧と共に濃くなるように思えた。
それにしても、と思う。吶喊湿原といい、ハルキゲニアは局所的に霧が出るような土地なのだろうか。自然科学の分野には詳しくないので分からないが……。
ひと足ごとに湿気が身体を重たくさせる。胸の傷はまだ痛んだが、行動に支障の出るレベルではない。
気を引き締め直して、霧の先に佇む『アカデミー』を睨んだ。高さこそ二階建て程度だが、幅も奥行きも随分とある平たい建造物である。そして、あちこちに魔力が感じられた。外観や魔力から鑑みれば、魔術師の養成施設と言われても特に疑問は抱かない。しかし、それはあくまでも外面であり、内側がどうなっているのかはヨハンから知らされた通りである。
本当に魔術師を養成しているのではないか、と思ったこともあったが、魔物の気配を全身に浴びたことでそれも消え果てた。魔術師養成施設に魔物の気配があること自体が異様でしかない。
実際の討伐を想定して魔物を敷地内に囲っている? いや、そんな馬鹿げたことはまずありえない。
ただでさえ人間の魔力に誘引される存在を魔術師の卵ばかりの場所に置いておくなんて、どんなリスクがあるか分からないからだ。いかにハルキゲニアが常識から外れていようとも、魔物を敷地に入れていることはまずないだろう。無論、魔術師養成施設なら、だ。他の目的があるのなら、それはもはや想像することすら難しい。
やがて建物の目の前まで辿り着いた。今のところ、魔物の姿は目にしていない。
『アカデミー』の大扉はぴったりと閉ざされている。正面から侵入することはさすがに困難だろう。
ヨハンはレオネルを見つめて、無言で足を空中に踏み出した。天の階段を使うということか。老魔術師は軽く頷き、足を踏み出す。わたしは息を揃えるように、彼に倣った。
一歩一歩、空を踏む。
ほどなくして平たい屋根の上に辿り着いた。ヨハンはきょろきょろと辺りを見回し、なにか見つけたのか、奥へと歩き出す。
やがて足を止めた彼の前には跳ね扉があった。
「『アカデミー』に到着した際に、屋上に人影がありました。二重歩行者を通して、確認したんです」
それで屋上に入り口があると判断したのだろうか。外から屋上へ登ったのでは、と言おうとしてやめた。現に跳ね扉が目の前にある以上虚しい反論だ。ヨハンの論理回路についてどうこう言ったところであまり意味はない。
跳ね扉は鍵がかけられていなかった。ヨハンはそれを潜っていく。次にレオネル、最後にわたしが続いた。
跳ね扉の中は狭いダクトになっていた。魔物の気配があまりにも濃く深く、おそらく今の状態なら真後ろに迫っていたとしても気付かないだろう。振り向けないほど狭い空間を這い進みながらそんなことを考えて、寒気を覚えた。
やがて目の前のレオネルが何度か身じろぎして消えた。前方には穴が開いている。薄暗いので、レオネルがそれを降りなければ気付かずに頭から落ちていたかもしれない。
降りた先には三人の人影があった。
腰を叩いて苦し気に顔を歪めるレオネル。見知らぬ白衣の女性。そして、彼女の口元を押さえて首元にナイフを突きつけるヨハン。
辺りを見回すと、大量の書類が溢れる机に、質素なパイプベッド。本棚には、これまた書類が溢れかえっている。窓はなく、小ぢんまりとした部屋だった。
なにが起こっているかはおおかた想像出来る。
降り立ったヨハンは悲鳴を上げようとした彼女の口元を瞬時に塞ぎ、抵抗力をなくすためにナイフまで首筋にあてがった。そして、おそらく戦意を失うような台詞をいくつか囁いたのだろう。全く、彼のやり口はワンパターンで、そして卑劣だ。
それにしても。
自然と彼女の胸元に目がいった。セーター地の服に隠れた胸は、アリスほどではないが羨ましい豊かさだった。
「私たちはあなたの敵ではありません。……寧ろ、その逆です」とヨハンは囁いた。
彼女は身を捩ってヨハンを見上げる。その目は不審なものを見るような疑いが籠っていた。
「……安心してください。あなたがどういう思いでここにいるかは知っています。……ある子供がこの施設に来たとき、彼の耳元でこう囁いたでしょう? 『隙があれば逃げて』と」
その言葉を聞いて、ヨハンが語ったノックスの一幕を思い出した。確か彼は、ノックスが白衣の女性に手を引かれて別室へと連れて行かれたと語っていた。すると、その女性というのが彼女なのだろう。
銀縁の眼鏡をかけ、豊かな黒髪を後ろで結んでいる女性。爪は短く切り揃えられ、服装にも目立った特徴がない。顔立ちも平凡で、目の下にそばかすが点々と広がっているくらいのものだ。
彼女は目を伏せた。それは肯定の表現に見えた。
「私たちに協力してくれるなら、悪いようにはしません。……もし、子供たちの解放を願っているのなら今を逃したらチャンスは訪れないでしょうね」
彼女は暫し目を泳がせて迷いを露わにしたが、やがて長いまばたきを一度した。
ナイフと、口を押さえた手が離れる。彼女は何度か深呼吸をし、わたしたちを順繰りに見渡した。不吉なノッポ、腰を痛めた老人、謎の女、そんなふうに彼女は思っただろうか。
彼女は消え入りそうな声で「……今すぐ逃げてください」と囁いた。
それを聞いてひと安心した。とりあえず、彼女は敵ではない。
一歩前進し、彼女の肩に手を置いた。一瞬の震えが手のひらに伝わる。
「逃げるつもりなら、はじめから来ないわ。……わたしはクロエ。あなたが手を貸してくれるならとっても助かる」
ただでさえ右も左も分からない施設内の捜索だ。この先を進むのなら非常に頼りになる。そして『アカデミー』の内情も把握出来るだろう。
彼女の瞳が、哀れむような色合いを帯びた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『帽子屋』→ハルキゲニアの騎士団長。魔力察知能力に長けている。
・『アカデミー』→魔術師養成機関とされる場所。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』『121.「もしも運命があるのなら」』にて
・『二重歩行者』→ヨハンの魔術。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて
・『ヨハンが語ったノックスの一幕』→『121.「もしも運命があるのなら」』参照




