133.「天の階段」
トラスが去ったのち、わたしはランプを消してベッドに倒れ込んだ。
作戦では『アカデミー』潜入は翌々日の夜との話だった。すぐにでも出発したいところだったが、わたしの負った傷が一番の問題らしい。アリスほど深刻なダメージは受けていなかったが、それでも戦闘に支障が出る要素は排除しておきたいとのことだ。よほど『帽子屋』を警戒しているのだろう。間に一日挟んだからといって傷の状態が大きく変わるとも思えなかったが、ヨハンは頑として譲らなかった。
室内の暗闇を眺めながら、ノックスとシェリーについて考えた。
こうしている間にも、二人の状況はどんどん悪化しているかもしれない。もしかしたら、わたしにさえ手を出せないほどに。
焦りが痛みと重なって、精神と肉体を苛む。胸の痛みがじくじくと、絶えずわたしを襲っていた。
今すぐにでも動きたかったが、無謀に突っ込んでいっても成果を上げられるはずはない。今は焦りを押し殺し、休息しなければ。
目を瞑り、呼吸を整える。頭から余計な思考を追い出して、脱力する。
やがて瞼の裏の闇が、曖昧に溶けていった。
翌日レオネルの治癒魔術を、時間を置いて何度か受けた。たとえ軽微な治癒であっても回数を重ねれば随分と楽になる。現に胸の傷も塞がりつつあった。
「アリスのほうは暫くかかりますな。随分と無茶な戦い方をしたものですね」とレオネルは苦笑した。
ごもっともである。彼女の闇雲な戦闘方法は賞賛すべきものではない。しかしながら、『黒兎』戦での勝利はアリスの尽力によるところが大きいのも事実だった。
レオネルの治癒のあと、地下広間でパンとスープだけの簡単な食事を摂った。レジスタンスたちや盗賊たちと共に、だ。トラスも同席していたのだが、食卓で「器用」という単語が発せられるたびにこちらを一瞥するのはやめてほしい。忘れろと言ったろうに。
食後、『アカデミー』潜入の具体的な方法についてヨハンを問い詰めた。
「そう簡単に『アカデミー』に入れるとは思えないんだけれど、なにか作戦でもあるの?」
訊くと、ヨハンは「ないこともないです」と簡単に答えた。
「具体的には?」
わたしの追及に彼は肩を竦めただけだった。そして「まあ、なんとかしますよ」と甚だ曖昧な返事を残して去っていった。作戦に関してはいつも秘密を持ったまま、という彼の態度にはなかなか納得出来ないものがある。しかしながら、今までそれで成功してきた節もあるので強引に聞き出すのは控えた。
翌る晩。いよいよ出発という段になってヨハンが部屋に訊ねてきた。
「瞑想中のところ失礼しますよ」と軽口を叩くヨハンの腕には黒い布がかかっていた。
「瞑想なんてしてないわよ。……ところで、それはなに?」
ヨハンはニヤニヤ笑いを浮べて黒い布を広げて見せた。ただのコートである。
「今晩の衣装です。なるべく目につかないものが良いかと思いましてね」
受け取ると、さっさと袖を通した。野暮ったいコートだったが、あれこれ文句を言って出発を後らすわけにはいかない。
身に着けると、なんだか怪しげな感じがして落ち着かなかった。
「似合っていますよ」
「はいはい」
そしてヨハンと共に玄関口まで行くと、そこには同じコートを羽織ったレオネルが待機していた。ステッキを持ちハットまで被った彼は、それなりに様になっていた。
「では行きましょうか」
ヨハンの言葉を合図にわたしたちは戸外に出た。
外は薄ら寒く、そして夜の静けさに覆われていた。空にはぽつぽつと星がまたたいている。
路地裏を一列になって忍び足で駆ける。先頭のヨハンは建物の影を縫うように進み、角を曲がる直前には立ち止まって通りをきょろきょろと見回した。
目的地である『アカデミー』は富裕街区の外れに建てられているとの話だった。一層警戒しながら進まねばならない。
コートの中で窮屈に突っ張ったサーベルに手を触れた。時計塔よりも過酷な戦闘が待っているかもしれない。無論、武器を抜く機会がなければそれが一番だが、望み薄だろう。
『アカデミー』に常駐する『帽子屋』を想像すると気が張り詰めた。
富裕街区に入ると、街並みが一変した。門付きの広い敷地に、豪壮な邸宅。それらが等間隔に並んでいる。永久魔力灯の灯りに明々と照らされた道は、均等に切り出された敷石が続いていた。
どの邸も豪奢ではあったが、厳重に警備されているような雰囲気ではない。都市のヒエラルキーと騎士団による抑止力が充分に機能しているからだろう。警備の必要がないほど統治されていることは悪くないが、それが階級制度の表れというのはなんとも品のない話だ。
レジスタンスが女王を打ち破って革命を成し遂げた後には、ハルキゲニアはどう変わっていくのだろう。この豪壮なエリアが市民街区級の街並みに変容する様は想像は出来なかった。
ヨハンは上手く暗がりを選んで、永久魔力灯の灯りにさらされないように進んでいった。
やがて家並みが途切れた。左右を街路樹に挟まれた通りが続いている。
「この通りの突き当りに『アカデミー』があります」とヨハンが囁く。
いよいよだ。ノックスとシェリーがこの先にいる。もう少しだけ待ってて。
『アカデミー』は厳重な造りだった。敷地の入り口は鉄扉に阻まれ、その周囲を覆うように高さ三メートルほどの壁が続いている。そして、壁の上にはワイヤーが張られており、そこには魔力が感じられた。
「麻痺魔術が施されていますな」とレオネルは少し観察しただけで断じた。彼はわたしとは異なる魔力の見え方をしているのだろう。つくづく、優秀な魔術師だと思わずにはいられない。「さて、どう侵入しますかな?」
ヨハンはレオネルを見つめて笑みを浮かべた。「天の階段を使えますか?」
天の階段と聞いて、ふわふわしたドレスの裾が頭にちらついた。『白兎』の使用した魔術である。自身の足裏に魔力を凝固させ、あたかも目に見えない階段を登るように空中を闊歩する魔術。
「無論」とレオネルは返す。
「それを私たちに施すことも可能ですか?」
レオネルは一拍置いて頷いた。「可能です。だが、足並みを揃えてもらわんと壁の向こう側で転落します」
あくまでも対象の足裏に魔力を凝固させるわけだから、足運びが目で確認出来ないと正確に行使出来ない、ということだろう。
「儂の歩幅に合わせて足を踏み出してください」とレオネルは言う。
頷いて彼の足元を見つめると、不意に一歩、見えない階段に足をかけるように踏み出された。わたしとヨハンもそれに倣う。直後、足裏に硬い感触が広がった。魔術の使えないわたしにとって、それは随分と新鮮な体験だった。
一歩、また一歩と、レオネルに合わせて宙に足を踏み出す。
丁度門の真上に来た頃、隣でレオネルが荒く息をするのが聴こえた。三人分の魔術を同時に使用することに加え、天の階段は高度が上がるほど魔力の消費量が増えることは知っている。呼吸が乱れる程度で済んでいるのが凄いくらいだ。
そこからは下りだったが、余計にバランスを取るのが難しかった。重心は段上で支えつつ、片足を下げる。バランスを崩せば転落するし、レオネルが少しでも凝固面をずらせば同じく悲劇を辿ることになる。たかだか三メートルの落下だろうが、この状況で足を挫いたりするのは避けたいところだ。
地面まで残り一メートルのところで、わたしとヨハンは天の階段から飛び降りた。これでレオネルの負担はだいぶ減るだろう。
老魔術師が降り立つのを確認すると、わたしたちは前方――本来は門から真っ直ぐ進んだ先――へと視線を移した。
急に立ち込めた濃霧の先、横に大きく広がった建築物が見えた。
『アカデミー』。魔術師育成施設とされているが、実態不明の施設。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『アカデミー』→魔術師養成機関とされる場所。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』『121.「もしも運命があるのなら」』にて
・『帽子屋』→ハルキゲニアの騎士団長。魔力察知能力に長けている。
・『ノックス』→クロエとともに旅をした少年。『アカデミー』に引き取られた。
・『シェリー』→ハイペリカムで保護された少女。クロエによって『アカデミー』に引き渡された。詳しくは『94.「灰色の片翼」』『98.「グッド・バイ」』にて
・『レオネル』→かつてハルキゲニアを魔物から守っていた魔術師。レジスタンスのメンバー。詳しくは『104.「ハルキゲニア今昔物語」』にて
・『黒兎』→ナイフを複製する魔具『魔力写刀』の使い手。残忍な性格。詳しくは『127.「魔力写刀」』にて
・『永久魔力灯』→魔力を施した灯り。光度や色温度は籠められた魔力に依存する。魔道具。詳しくは『38.「隠し部屋と親爺」』参照
・『白兎』→ハルキゲニアの騎士。魔術師。詳しくは『112.「ツイン・ラビット」』にて




