幕間.「徒花の蹉跌⑨ ~魔力の真円~」
翌日、ルシールは離れでささやかな魔術学校を開校した。魔力とはなにか、それが魔術として結実するまでの過程を、文字通り子供にも分かるよう噛み砕き、自身の魔術を教材として縷々語ったのである。翌日も、その翌日も。イアゼルは飽くことなく真剣に取り組んだと言えよう。幼児らしく、休憩を兼ねたお昼寝の時間をしっかり取りながら。イアゼルの背をゆっくりと優しく叩きながら、ときどきはルシールも本当に寝入ってしまうことがあった。
アルブルの書斎はもとより、本邸へは出入りしていない。レベッカの出産が告げられた段階で、向こう半年は離れから足を踏み出さぬよう、暗黙の了解があった。祝賀の人々の物見高い視線に疑義を差し挟むのはルシールも望んでいない。
七ヶ月におよぶ書斎への日参で領地経営ならびに領主に必要な教養に関してはおおむね把握していた。出産が告げられた日には、領地関連の書類の写しも一式アルブルから譲ってもらっている。必要な知識を得た以上、あとは独学で充分というわけだ。それも、イアゼルが寝静まった頃に書類を紐解いて算段を練る程度で済む話。領地との腹の探り合いがはじまるのはおよそ一年後――第二子としてイアゼルが公表され、正式に領地の分与が為されてからだ。イアゼルを伴って領地の視察を開始するのは、さらに三年後とルシールはみていた。一年後にはさらに成長しているであろうイアゼルを、産まれたばかりと嘯くには無理がある。五歳と三歳であっても同様の懸念はあるが、成長が早いのだと誤魔化せる範疇だろう。すなわち、向こう四年は雌伏の時だ。それまではイアゼルに学びたいものを学ばせる。それが魔術であるのは幸いだった。なにしろ自分の得意分野なのだから。下手に領地経営に嘴を挟んでくるくらいなら、魔術にうつつを抜かしていていてくれたほうがよほど良い。
春先になってようやく来賓の人々が落ち着き、ルシールはヨームの監視付きで外に出ることを許された。ただし、離れの付近に留まっているのが条件である。本邸の裏にあたる離れは、背後に鬱蒼とした林を背負っており、人目の気遣いは要らない。イアゼルがどんな大声を出そうとも、外界へ漏れる音を遮断する魔術――音吸い絹を使えばなんの問題もなかった。
かくしてルシールはイアゼルの手を引いて離れの庭へと足を踏み出したのである。
「おひさまー!」
イアゼルは久しぶりの日光浴に顔を綻ばしている。無邪気なのは喜ばしいことだ。もちろんルシールの邪魔にならない限りにおいて、だが。
ルシールもイアゼルの真似をして、両手を広げて日光を浴びた。心持ち顔を仰向けて目を瞑る。「まねっこー!」とはしゃぐイアゼルの声がして、彼女は自然にくすりと笑ってしまった。
イアゼルの前ではほとんど完璧に乳母を演じている。そこに私情はない。けれどときどき、今みたいに自然な反応が出てしまうことがあった。凍てついた心がほんの一瞬融点を超えるように。その隙を縫って自問が浮かぶときもある。『私はなんでここにいるんだっけ』。それらは答える以前に問いごと消滅してしまうのが常だった。演じる己に回帰するまでの時間がそれだけ早いのだ。
ルシールは軽く手を打ち合わせ、イアゼルに笑いかけた。
「イアゼル様。魔術の仕組みのとっておきを教えて差し上げましょう」
イアゼルは目を輝かせて頷く。半年もの軟禁期間、彼は一度だって魔術に飽きることがなかった。魔術の基礎理論という、幼子には退屈極まりない事柄を教えながらもイアゼルを眠気に誘わなかったのは、都度ルシールが魔術を実演して見せたのも影響しているだろう。それ以上に、イアゼルの関心が高かった点が大きい。
ひとの身には魔力が宿っており、それを通じて魔術を展開するという大枠はすでにイアゼルも理解しているようだった。ただし、まだ理屈をなんとなく把握している段階である。実際に魔術を行使するには至っていない。魔球ひとつモノに出来ていなかった。とはいえ、この年齢だ。それも致し方ない。しかしながら、コツさえ掴めば一気に開花する確信がルシールにはあった。魔術に限らず、技術と呼ばれる物事は得てしてそのような側面が強い。一度やり方を身につければ、あとは基礎となる土台がいかに強固で広範かによって、その後の成長に大きく影響する。
イアゼルはすでに基礎を理解している。次は、基礎の部分を建て増ししてやろうという目算だった。
「魔力は身体から流れ出すものです。水みたいに。さて、ここで問題。水で絵を描くことは出来るでしょうか?」
イアゼルは首を横に振った。水は透明だから、それで絵を描くなど不可能と思っているのだろう。こういう幼い頃の思い込みは禁物だ。
「では、やってみましょう。あら! 描けましたね!」
ルシールは片手で魔術製の水を出して指先を濡らし、それで離れの壁に稚拙な花を描いて見せたまでのことである。イアゼルはぽかんと壁を見つめている。壁面は徐々に日光に温められ、水が蒸発し、絵は消えていく。
「水でも絵は描けるのですよ、イアゼル様。さて、もうひとつ問題です。魔力で絵は描けるでしょうか?」
「かける!」
「正解です。イアゼル様には魔力が視えますものね」
イアゼルははにかんで頷いた。この子には魔力が視える。それも視覚に依存していない。嗅覚でも触覚でもない。五感以外のなにかで、ほぼ正確に魔力を感知しているのだ。室内にいながら、離れの外に魔力で簡単な図形を描いてみせたところ、イアゼルは正確にそれらのかたちを的中させたのである。これは生まれ持った才能にほかならない。
「前に、魔力と魔術は繋がっているという話をしたのを覚えていますか?」
「うん」
「実は、繋がっていなくても魔術にすることが出来るのです」
「ええ!」
露骨に驚くイアゼルがなんとも微笑ましい。学んだばかりの常識が崩れるとは思っていなかったのだろう。こういうのは早いうちから何度も経験すべきだ。常識は真理ではない。真理でない以上、必ず例外はある。そして魔術において、その例外は膨大だ。ルシールも、いまだ理解のおよばぬ例外が数多くあると悟っている。その全容は識れずとも、例外が確固として在るものだと分かっていれば、自然、身構え心構えも違ってくるものだ。これは魔術に限った話ではない。
「実際にご覧に入れましょう」
言って、ルシールは魔力で地面に真円を描いた。続いて、円を正確に区切るように十字を描き入れる。
魔力製の絵が完成すると、ルシールは数歩後退した。
「さて。今描いた魔力の絵と、わたくしとに、魔力の繋がりはありますか?」
「ない」
「であれば、イアゼル様にお教えした通り、その魔力は魔力のままで、魔術になることはないはずですよね?」
「うん」
「それではイアゼル様。手をゆっくり前に出してみてください。そのまま。そう、ゆっくり。手を開いて。絵の真上まで」
真円のちょうど真上に指先が至ったとき、イアゼルが頓狂な声を上げた。一瞬身体を硬直させたのち、ぺたぺたと透明な壁を触っている。地面に描かれた魔力から垂直に立ち上る、円筒形の防御魔術を。
イアゼルは魔術とルシールとを交互に見やって首を傾げた。彼には一切が視えているはずだ。ルシールが魔力を描いただけで、その後なにもしていないことを。現在も、防御魔術とルシールの間には魔力の繋がりがないことを。
「地面や空中に描いた魔力を、魔術に変えることが出来るのです。条件……ええと……決まりを最初に作っておいて、魔力にそれを籠めることで、決まり通りに魔術が作られるという仕組みですね。ちょっと難しいですか? たとえば……そう、秋口に植えた百合の花があるでしょう? もうじき咲きますね。お日様とお水があれば勝手に咲いてくれる。それと同じです」
得心がいったのか、イアゼルは何度か頷いて、防御魔術をぺたぺたやっている。
「魔力を魔術にするには、まず完璧な丸を描きます。そうじゃないと魔術が壊れたりしますから。次に、丸の内側に、魔力が魔術になる決まりと、どんな魔術になるかという種類を描きます。それでおしまい」
「かんたん!」
イアゼルにとっては簡単に聞こえたのだろう。まだ抽象的な説明しかしていないのだが、それで大枠を理解出来たなら上出来だ。
イアゼルは地面に落ちていた棒を手に取り、地面を掻いた。まだ魔力を十全に扱えないから、絵だけでもルシールの真似をしようというのだろう。途中まで微笑ましく見ていた彼女だったが、やがて笑みが硬直した。
イアゼルは二つ、三つと、同じ模様を描いていく。
いずれもルシールの描いたものと、大きさも含めてまったく同じだった。
模様はさして複雑ではない。いくらでも模倣は出来る。しかし、真円は簡単に描けるものではない。ましてや二歳児にも満たない幼子に出来る芸当ではないのだ。
夢中で真円を描くイアゼルに、ルシールはうっとりと呼びかけた。
「魔力の模様で魔術を作る。それを、魔紋と呼びます」
後年、イアゼルの左の五指に極小の魔紋が刻まれるとは、このときのルシールは夢にも思っていなかった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『悦楽卿イアゼル』→黒の血族で、ラガニアの侯爵。洗脳魔術の使い手。詳しくは『幕間「落人の賭け」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『音吸い絹』→音を遮断する布状の魔術。密談に適している。詳しくは『216.「音吸い絹」』にて
・『魔球』→魔力球、魔力弾、魔力塊とも呼ぶ。初歩的な攻撃魔術。
・『魔紋』→魔術の応用技術のひとつ。壁や地面に紋を描き、そこを介して魔術を使用する方法。高度とされている。消費魔力は術者本人か、紋を描いた者の持つ魔力に依存する。詳しくは『186.「夜明け前の魔女」』にて




