幕間.「徒花の蹉跌⑦ ~片道切符の旅路~」
薄曇りの空の下、潮風を浴び、侍女の制服である黒の丈長なワンピースの裾がはためいた。眼下に広がる階段状の港町は雲の切れ間から薄明光線が注いでいる。
二年以上邸に籠もりきりだった身には、外気そのものが自由を象徴しているように思えた。腕のなかの赤ん坊を見下ろし、自然と笑みがこぼれる。
「こちらへ」
前方から声がして、ルシールは顔を上げた。見ると、背の低い小男が無表情で手招いている。庭師だ。先ほど玄関を開けたのも、そしてルシールが外へ出るや否や施錠したのも彼である。名は知らない。
小男はルシールを先導し、邸の裏手へと回った。庭師の番小屋が隅にあり、真正面に邸の背を見上げるかたちで石造りの小さな家――離れが建っている。この街の多くの家屋と同様に、石灰岩で誂えた白い家。煙突があるあたり、暖炉も備わっているのだろう。
「こちらがあなたがたの邸宅です。なにか用向きがあれば、お呼びつけください」
小男は淡白に言って、ドアに鍵を差し込んでルシールが通れるようにすると、さっさと番小屋に去っていった。
赤ん坊――イアゼルを育てるにあたり、邸の外に家を設けたのはアルブルである。邸内にあっては侍女の嫉視の的になるだろうし、ルシールの後釜を狙って寝首を掻く蛮行に発展する憂いもある、というのが彼の言だ。加えて、ルシールだけならまだしも、イアゼルに危険がおよぶ可能性まで彼は危惧していた。
なるほど、今のルシールは乳母の立場を捨てるわけにはいかない。産まれたばかりのイアゼルに領地が分与されているのだから、彼との関係性を確かなものにしておかなければ地位は保てないわけだ。これまで侍女を頑なに邸に閉じ込めてきたのは夜伽の秘密ゆえだが、それをルシールが漏らす気遣いはない。現実的な想像か否かはさておき、アルブルの醜聞により民衆が反旗を翻した場合、イアゼルに火の粉が降りかかる危険性がある。ルシールにとっては避けたい状況のひとつだった。
掃除の行き届いた屋内を見渡し、庭師の手製であろう赤子用のベッドにイアゼルを横たえ、あやしながらも考える。
アルブルから聞かされたのはそれだけだ。しかし、言外の脅迫も彼女は心得ている。イアゼルが万一亡くなった場合、自分は始末される運命にあるのだ。それは、乳母になると合意した時点で両者の間に暗黙裡に交わされたルールのひとつと言える。そしてもうひとつ、アルブルはイアゼルを第一子とは扱わない。のちにレベッカが産む子にこそ第一子の名誉を与え、然るべき期間を置き、イアゼルを第二子として公表するはずだ。首都ラガニアへ送る手はずになっている書状に記された年月日がそれを裏付けている。
ルシールの小指を咥えたり握ったりと弄ぶ赤子を眺めつつ、彼女は少し不憫な思いを抱いてもいた。なんだかんだ、アルブルはロゼッタを憎悪している。そしてこの子のことも決して望ましくは感じていないだろう。ロゼッタの子でなければ、あるいはこれほどまでロゼッタの美貌を受け継いでいなければ、アルブルの姿勢も多少はマシになったかもしれない。
なんにせよ、ルシールにとっては小事だった。正妻の地位こそ得られなかったが、侍女よりはよほど確かな立場を獲得したのだ。この子に愛され続ければ、求められ続ければ、今のところは充分。レベッカの感情は現在ロゼッタ憎しに傾いており、イアゼルに対しても同様である。名目上の母親が翻意し、イアゼルを受け入れるようになるのが最大の危機と言えよう。なにしろ領地を所有しているのは自分ではなくこの子なのだから。イアゼルが奪われてしまえば丸裸。
ゆえに、備えねばならない。イアゼルの愛の獲得はそのひとつ。だがそれだけでは到底足りないのだ。半年かそこらでレベッカは出産し、正式に正妻の座を得る。利はあちらにあるのが明白。対して、こちらにあるのは時間だけ。
時間はいかなる資産にも変換可能な代物である。そのあたり、ルシールはよく心得ていた。
彼女の選んだ手段は、表面的にはアルブルへの胡麻すりに見えたはずだ。イアゼルの世話をしつつ、しばしば離れを抜け出してアルブルの書斎に足を運ぶ姿は、さぞ滑稽だったろう。実際、侍女が嘲笑に近い薄笑いを浮かべているのをルシールは何度か目にした。が、そんなものはどうでもいい。せいぜい笑っていればいいのだ。この邸の侍女がどの程度のものかは、脱走未遂の晩に明らかになっている。
ルシールがアルブルのもとへ足繁く通ったのは、彼の寵愛を買うためではない。領地経営を学ぶためだった。彼は彼女の申し出を一笑しつつ了承したのである。イアゼルが正式に領地を分与されたあかつきには、彼の代理で領地経営者との折衝にあたると公言するルシールを、アルブルはさも愉快そうに受け入れた。アルブルとしては、正式に分与したとしてもイアゼルが長じるまでは自分で領地の管理をおこなう想定だったことだろう。年端もいかぬ子供に土地を任せられるはずもない。ましてや内心では快く思っていない生まれの子だ。領地に関する教育を施すのも気が乗らないはず。そこにきてルシールは、自分がアルブルの職務の一部を代行すると申し出たわけだ。
これを面白いとみるか。ルシールは十中八九、アルブルが乗ると推測し、事実その通りになったのである。彼の自尊心の高さは侍女のなかでも知られているが、厳密には事情が違うと彼女は読んでいた。アルブルは、一定程度の反抗はむしろ望んでいる節がある。ロゼッタは分を弁えず、そして気弱だったからこそ、侯爵の怒りを買ったのだ。反抗には然るべき態度と、相手にとっての利益がなければならない。領地に関するルシールの提案は、アルブルの手間を省く意味において利はあるだろう。ただ、そんなつまらないもので動く男でもない。領地経営者との折衝代行は、ある種のゲームだとアルブルには映ったろう。小生意気な乳母がけしかけてきた退屈凌ぎ。要するに、当該領地においてアルブル以上の利益をもたらせるかどうか、という競争である。これらの内実は一切口にはしなかったが、アルブルがルシールに領地関連の教育を施したのは、そのような関心があったからだろう。
ルシールとしては、より長いスパンで物事を見据えていた。アルブルに平伏し教えを乞うのは、なにも彼の競争心を煽り、かつて存在しなかった競争相手として自分の価値を定めるばかりではない。アルブルはもう長くないだろう。血族の寿命はおおむね二百年。彼が逝去するのはおそらく二十年か三十年後。第一線を退くのはもっと早いだろう。その頃には耄碌している。レベッカの産む子供が万全な教育を施されたとしても、自分がそれを上回ればいい。早々に各領地にイアゼルと自分を周知し、各町村の長と良好な関係を構築するのが先決。彼らの人心掌握さえしてしまえば、利害の一致する範囲において、必ずや盤上を操作出来る。レベッカの子が分与される土地の交易品を収奪する賊を組織するのも、紛争の手駒にしてしまうのも可能なくらいに。耄碌したアルブルと、小娘のレベッカ、そして年若い継承者は突然のトラブルに狼狽え、最後には誰を頼りにするか。イアゼルの背後ですべてを操る乳母だろう。
ともあれ、領地経営者との交渉で失態を演じればそれまで。ルシールはイアゼルに分与された領地の町村について、それらの特色をアルブルから直に教わった段階で、故郷への私信をしたためた。彼女の家を破滅に追いやった町長――その罪に負い目を感じている義理堅い孫、ダンテへ。
何度目かの領地経営に関する教育の帰路、ルシールは一台の馬車を目にした。ちょうど邸から去っていくところを目に留め、離れへと歩んでいく。やけに厳重な馬車だったな、なんて思いながら。
その晩イアゼルに乳を含ませているとき、ふと気が付いた。
今日の領地経営の折に見た、ラガニアの地図が頭に浮かぶ。『毒色原野』からぽっこりと膨らんだ腫瘍のような土地。以前は貴族が所有していたらしいが、今は首都ラガニアに返還された地である。その周囲には高い壁がめぐらされ、余所とは隔離されていた。邪魔な存在を捨てるための場所。殺すよりも角が立たない処刑場。ひと呼んで、流刑地。
懸命に乳を飲むイアゼルを見下ろし、ルシールは晴れやかな微笑みを浮かべた。
あの馬車に乗っていた侍女は、お望み通り邸を離れることになったろう。流刑者の身分を得て。
片道切符の旅路を思い描き、ルシールは小さく声に出して呟いた。
「せいぜい自由を謳歌なさいな、ロゼッタ」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『悦楽卿イアゼル』→黒の血族で、ラガニアの侯爵。洗脳魔術の使い手。詳しくは『幕間「落人の賭け」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『毒色原野』→人も血族も住まない荒廃した土地。グレキランスの人間は『中立地帯』と呼んでいる。夜会卿の統べる都市とキュラスとの中間に広がった荒野を指す。常に濃い靄に覆われており、毒霧が発生しているとの噂がある。霧は一定周期で晴れる。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』にて




