幕間.「徒花の蹉跌⑥ ~イアゼル~」
それからの日々、ルシールは牢獄じみた侍女部屋で寝起きし、淡々と仕事をこなした。毒を盛る懸念から料理は禁じられていたものの、それ以外の実に多くの雑務を一手に引き受けた状況である。侍女のほぼすべてがロゼッタに侍っていたため、必然的にルシールに皺寄せがきたかたちだ。急激に増えた仕事に辟易しつつも、彼女が諦念に身を浸すことは一瞬たりともなかった。完璧に職務をこなしながら、常に脳を回転させていたのである。いかにして窮状を打破するか。地位を得る機会を確保するか。考えるたびに、あの晩のアルブルの声が耳に蘇り、先行きに暗い影が落ちる。万全だと思った作戦は彼によって一挙に反転してしまったのだ。アルブルが事前にこちらの策を知っていたはずはない。エントランスに現れたときから一切を観察し、裏で糸を引いている者を特定したのだろう。そして犯人たるルシールだけが割りを食う状況に持っていった。
アルブルを侮っていたわけではない。ろくな産業のないフラティリアを、ほかの領地からの上納だけで維持するだけの手腕を持っているのだ。耄碌しているわけがない。
たぶん、とルシールは考える。こうなったのは過信ゆえだ。妊娠した過去を持ち出せばアルブルとの利害が一致すると確信していたのが間違いのすべて。ロゼッタの妊娠を、彼が単なる想像の産物と片付けなかった点も影響しているだろう。
漏れ聞いた話では、どうやらロゼッタはまたぞろ不平を叫んでいるらしい。あの晩は、この邸で出産して育児をおこなうことに合意したものの、やっぱり邸を出て子供と二人で自由に暮らしたいと切望しているとのことだ。アルブルの妻にならずに済んでも、彼の庇護のもと邸で暮らすのは苦痛だと。別の侍女が奥方として召し抱えられるのはまだしも、名目上の母親とされてしまうのは耐えがたいのだと。
そんな噂を耳にしてルシールはほとほと呆れたし、憎らしくも思った。そんなことはあの晩に分かっていただろうに。ろくに理解もしないままアルブルの言葉に流されたロゼッタは、やはりどうしようもない馬鹿女だ。
ロゼッタの不満はアルブルにも届いているらしく、彼の機嫌はどうにも芳しくない。邸の掃除中に目にする姿には、憤懣が滞留している気配が隠しようもなく漂っていた。これこそ付け入る隙に見えたが、しかし算段が立たない。あの晩、自分は明らかにアルブルの不興を買ったことだろう。それゆえ夜伽からもロゼッタの世話からも隔離され、一介の侍女でしかない状態に追いやられている。このうえ下手な行動に出ようものなら、物騒な始末が待っている可能性が高い。
そのようにルシールは読んでいたが、実のところ、彼女はアルブルから一定の評価を受けていた。彼女自身はもちろん、ほかの侍女も知り得ぬことだったが。
脱走未遂から半年後、ロゼッタは無事出産した。男児だったらしい。早産だったものの母子ともに問題なし。もっとも、ルシールは子供を目にすることすら許されなかったが。
もうひとつ大きな変化があった。ロゼッタの出産を前にして、レベッカの妊娠が明らかになったのである。ルシールの死産を経たからなのか、あるいはロゼッタに激したのがきっかけなのかは定かではないが、アルブルはあまりに遅い盛りを迎えたわけだ。
八方塞がりの状況のなか、ルシールは真っ昼間にアルブルからの呼び出しを受けた。書斎に来い、と。単なる仕事上の叱責ではないだろう。間違いなく進退についてだ。明るい方途はどうにも見出せない。それでもルシールはしずしずと書斎に出向いた。
「失礼いたします」
やや捨て鉢な気持ちで広い書斎に入ると、アルブルは書類の積まれた執務机から大義そうに腰を上げ、ソファに移動した。そして無言のうちに対のソファを手で示す。ルシールはお辞儀をして彼の対面に浅く腰かけた。ソファの間のテーブルにはガラス製のチェス盤が乗っており、整列した駒が陽射しを反射している。
「暇になった。一局手合わせしてもらおう」
言って、アルブルは自陣の白駒を動かす。こちらの反応などおかまいなしに。そもそも侍女にチェスの相手が務まると期待しているわけでもないだろう。ルシールは「おおせの通りに」と短く返し、黒駒を動かした。
それからは互いに無言で駒を縦横に展開していた。口火を切ったのは当然アルブルである。
「レベッカを正妻にする」
駒を動かしつつ、ルシールは顔色ひとつ変えなかった。この男の前でなにかしら演技をするのは無意味。それは脱走の晩に思い知らされている。
「左様でございますか」
一手と言葉が同期するように繰り出された。
「このことはまだお前以外の侍女には伝えていない」
「そうですか。しかし、侍女頭にはお伝えしても良い事柄かと思われますが」
「あれも正妻の座を狙っている女だ。軽々に伝えれば火種になりうる」
「……火種とおっしゃいますと?」
白駒がガラス盤を打つ音が鳴り響いた。
「産まれたばかりの我が子も、レベッカのまだ見ぬ子も、危険に晒される」
「侍女頭がタクトを振って物騒な動きに出るとお思いなのですね」
「ルシール。お前はなにを求めて侍女になった?」
唐突に問われ、ルシールはしばし黙した。なにを答えるのが適切か。そしてどう答えるのが最適か。生半可な嘘はアルブルに通用しないだろう。ならば、それなりの理由を口にする必要がある。
不意にアルブルが盤上を指し示した。
「長考は好かん。さっさと打て」
ルシール一瞬目を瞑ると、駒を持ち上げ、敵陣のもっとも危険な箇所に打ち据えた。
「地位がほしかったのです。あらゆる災禍に耐えられるほど盤石な地位が」
結局、正直に答えてしまった。そしてこの一手が間違っているとも思わない。もとより侍女たちが腹に一物抱えていることなど先方はお見通しなのだから。
アルブルはルシールが打った駒をしばらく見下ろしていたが、やがてそれを討ち取った。捧げ物を喰らうように。
「レベッカはロゼッタを憎らしく思っている。その子供も同様に。お前は知らんだろうが、先頃産まれた子は髪こそ俺と同じ金色だが、見目はロゼッタそのものだ。ゆえに、育児をするつもりはないとまで宣言している。触れるのも穢らわしいと。しかし、名目上その子はレベッカの子供とする」
「なぜそこまで嫌われてしまったのでしょうか」
「もともと馬が合わなかったのだろう。そこにきて、お前の仕組んだ計略で憎悪が閾値を超えたとみえる」
ならば憎むべきはこちらだろうに、とルシールは思ったものの、ロゼッタも無関係ではない。それどころか計画の要だっただけに、怒りの矛先になっても不思議ではなかった。あの場でアルブルが事を収めなければ、レベッカはほかの侍女ともども悲惨な運命をたどったかもしれないのだ。そもそも最初に籠絡されたのはレベッカなわけで、その意味において彼女は自身の迂闊さこそ悔いて然るべきだが、あの女は内省的なタイプではない。自分の弱さを他人にぶつけて居直る性格だ。そして怒り憎しみを吸収しやすい性質なのがロゼッタ。憎たらしいロゼッタに奉仕する日々は、レベッカにとって屈辱以外の何物でもなかったろう。それがここにきての妊娠だ。態度が反転するのは至極当然の流れ。
「脱走教唆の節は反省しております」
そう言って、ルシールは黒駒を一歩引かせた。一見弱腰な手に見えるだろうが、そうではない。自陣をより堅牢にしながら、攻め手を残す一手だった。盤上を見下ろすアルブルにもそれは察せられたことだろう。つまり、言いたいことは伝わったはずだ。
――次は決して甘い一手など打ちません。
「ルシール。お前、乳は出るか?」
「ええ」
「そうか。ならば、お前がロゼッタの子の乳母となれ。名目上はレベッカの子供だが、お前の子だと思えばいい。なに、ロゼッタのことは気にするな。消すだけのこと」
それを聞いて、ルシールの胸はいささかも痛まなかった。邸に留まりたくないと言い続けるロゼッタが出産後にどうなるか。愚鈍な当人以外は誰もが悟っていた未来だ。ただし、不要物が消え去るだけなら、乳母になったとしてもルシールの立場が盤石とは言いがたい。
「ならば、わたくしも用済みとなれば消える定めなのでしょうね」
不意にアルブルが立ち上がり、執務机から二枚の紙を取るとチェス盤の横に添えた。そしてアルブルは最前ルシールが打ったように、自軍の駒を捧げるような一手を打つ。駒が盤を打つ音色が、涼やかに、幾重にも反響して室内に谺したように感じた。
「我が領地の三分の一をロゼッタの子に分与する。そこに記されている通り、当該領地は俺や俺の正妻ならびに正式な後継者――つまりレベッカの腹の子のことだが、それらの一存で奪取することは認めない旨が明記されてある。侯爵の捺印付きだ。お前が乳母の立場を肯うなら、これを王城に通し、同じ内容の写しをお前に渡そう」
二枚の書類に目を通し、アルブルの言葉に偽りがないと知るまで、そう時間はかからなかった。
ルシールとて長考は好まない。袋小路に迷い込んだ場合には思考が停滞してしまうが、罠の仕掛けられていない場所をいつまでも警戒するような愚は性に合わなかった。
やがてルシールはアルブルの指した駒を討ち取り、彼の目を見据える。
「その子の名をお聞かせください」
間を置かず告げられた四文字の名前は、以後、ルシールを生涯に渡って縛り付ける名となった。
イアゼル。
のちに侯爵位を継ぎ、マグオートを侵略する者の名だ。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『悦楽卿イアゼル』→黒の血族で、ラガニアの侯爵。洗脳魔術の使い手。詳しくは『幕間「落人の賭け」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『マグオート』→文化的、経済的に成熟した街。王都から流れてきた富豪が多く住む。トムとマーチの故郷。別名『銀嶺膝下』。ラガニアの辺境である地下都市ヘイズと、転送の魔道具によって接続されている。詳しくは『第四章 第一話「祈りの系譜」』にて




