幕間.「徒花の蹉跌⑤ ~月は悪魔のごとく笑む~」
吹き抜けになったエントランスは左右に翼のごとき階段を擁しており、それぞれが邸の東西の二階へと通じていた。そのうち侯爵の寝室は東にあたる。アルブルが姿を現し、東翼の階段をゆっくりと降りてきたのは、ルシールが到着して間もなくのことである。
「この騒ぎはなんだ。奥の間の二人がどうしてここにいる」
不快感を隠すことなくアルブルは言い放った。不快の要因は安眠を邪魔立てされただけではない。決して愉快とは言えない事件が発生しているのは、エントランスを見下ろしてすぐに察したはずだ。
彼に答えたのは侍女頭である。
「アルブル様。お休みのところ、誠に申し訳ございません。……ロゼッタが脱走を図りまして、今取り押さえたところでございます」
問題が発生したときに説明すべき者は、立場の上においても、その冷静さにおいても、侍女頭をおいてほかにいない。ここに侍女全員が集っているあたり、レベッカの計略は侍女頭にも通じている。仮に侍女頭がなにも知らず、偶然騒動の現場に居合わせたのだとしても、ルシールは一向にかまわなかった。
「脱走? 暇乞いが叶わなかったから強硬策に出たか。いかにも馬鹿者の考えそうなことだ」
アルブルの嘲笑に侍女頭が口を開きかけたが、意外なことに、先に声を上げたのはロゼッタだった。
「違います! わ、わ、わたしは、アルブル様の、奥方になんて、なりたくなくて、その……。子供と、一緒に、誰も知らない場所で、平和に……」
譫言のような声のさなか、彼女はずっと自分の腹を撫でていた。アルブルが姿を見せた時点で、侍女はロゼッタの拘束を解いている。ひとえに、彼女自身の抵抗力が弱まったためだ。ロゼッタはアルブルには逆らえない。言葉では反逆を示しても、気弱さが彼女自身を束縛しているようなものだった。
子供という言葉を耳にして、アルブルが眉を吊り上げた。「孕んだのか?」
「想像妊娠です」と発したのはルシールである。「結果が伴わなくとも、一度は妊娠したわたくしが保証します。アルブル様。ロゼッタは妊娠しておりません。そう思い込んでいるだけでしょう」
折良く、ルシールの額から垂れた血液がエントランスに滴った。ルシールはアルブルの不審げな視線を真正面から受け止め、言葉を続ける。
「ロゼッタはわたくしが何度説いても耳を貸しませんでした。妊娠しているとばかり思い込んで、それで脱走を企てたのでしょう。わたくしはご覧の通り、花瓶で殴られ、奥の間を抜け出す彼女を止めることが出来ませんでした。いかに魔術師といえども、不意を突かれては無力ですから」
「しかし、奥の間と本館は施錠してあるはずだ」
当然の疑問がアルブルから発せられ、待ってましたと言わんばかりにレベッカが声を張り上げる。
「きっと扉を壊したのです! ロゼッタは気が狂っていて、無茶苦茶な力で扉を破壊したんですよ! ねえ、ルシール! そうでしょう!?」
同意を求められ、ルシールは思わず苦笑しそうになったが、強いて押さえつけた。代わりに目を丸くして首を傾げてみせる。
「いいえ。扉は無事ですよ。おおかた、ロゼッタが侍女の誰かに手引きしてもらったのでしょう。それが何者かは分かりません。この逃走劇に何人が絡んでいるのかも、わたくしには推測すら出来ません」
侍女たちの幾人かが射殺すような眼差しを浮かべたのを確認し、ルシールはその愚かさに呆れてしまった。自分が犯人のひとりですと言っているようなものじゃないか。そのなかにレベッカの瞳も含まれているのだから救いがたい。もとより救うつもりなどないが。
「すると侍女は皆、信を置くに値しないと。そう言いたいのか? ルシールよ」
いくらか軟化したアルブルの言葉に、ルシールは首を横に振った。
「わたくしめは信頼について判断する立場におりません」
ただ、と付け加える。
「完全に潔白な者がいるとすれば、それはわたくし以外にいないのは明白です」
もはや侍女の全員が――ロゼッタのような間抜けは例外として――気付いたはずだ。自分たちが騙されていたことに。たったひとり信頼を得るために、ロゼッタに脱走を教唆し、侍女全員を犠牲にしたのだと。脱走を願い出たのはロゼッタ当人だが、ルシールには渡りに船だった。この程度の計画であれば半日もあれば遺漏なく立案し、実行に移せる。侍女になるまでの七十五年間は伊達ではない。
駄目押しにと、ルシールはアルブルを真剣な顔で見つめた。この男は媚を好かない。だから願いを口にするならば、真面目一辺倒で対するのが一番だ。
「アルブル様。先の死産の件は、深くお詫び申し上げます。ですが、これでわたくしは証明しました。わたくしには器としての才覚がございます。次は決して失敗いたしません。アルブル様のお望み通り、壮健な子を産んでみせます」
少しばかり挑みかかるような言葉選びをしたのも計算のうちだ。領地経営者との綱引きを、さながらゲームのごとく愉快に思っているのを知っていたから。これも一種のゲームだと思って乗ってくれれば幸い。というより、この男の性格上、きっと乗るだろうと確信していた。一連の言葉が迂遠な挑発であることは見抜いているはず。挑発と知って無視出来るほど鷹揚ならば、ロゼッタを犯すこともなかったろう。
アルブルはしばし黙したのち、一同を見やり、最後にロゼッタを見据えた。
「ロゼッタ。貴様の願いを叶えてやる。我が伴侶にはしない。そして、子を産ませよう。孕んでいるのだろう? 無事産むといい」
そして侍女らを睨みつけ、語調を変えることなく続けた。
「これが想像妊娠ならば、貴様ら侍女は不問とする。些事だ。しかし、万が一ということもあろう。ロゼッタの介助をせよ。彼女に尽くせ。そして無事産んだなら、誰よりもロゼッタに奉仕した者を我が妻とし、名目上、その子の母とする。もし死産になろうものなら、侍女全員の首を切るものと思え。なに、代わりなどいくらでもいるからな」
ルシールは我知らず、青褪めていた。
舵取りは間違っていなかったはず。なのにどうして、こんなことになる?
ロゼッタの声が飛んだが、ルシールには心底どうでもよかった。
「母親はわたしです! わたしの子です!」
「分かっている。あくまで名目だ。産まれた子の実質的な母はお前だ、ロゼッタ。いずれ侯爵位を継いでもらうゆえ、いくらか教育をせねばならんが、お前も同席すればよかろう。お前ら母子は俺の庇護のもと、安穏に暮せば良い」
「あ、え……」
「それで良かろう?」
「……はい」
ロゼッタの消え入りそうな返事を最後に、侍女たちは慌ただしく彼女を奥の間へ連れていった。なにせ侍女たちは窮地から一転し、正妻の立場を得るまたとない機会に恵まれたのだ。ルシール憎しの感情はあれど、優先すべきはロゼッタへの奉仕である。
完全に出遅れたかたちになったが、ルシールも侍女のあとを追おうと踵を返しかけた。そのとき腕を掴まれたのである。アルブルに。
冬枯れの風に似た、老いた吐息が耳にかかる。
「お前が画を描いたのだろう? ルシール」
「……なんのことでしょう」
「侍女一同を騙し、ロゼッタを騙し、ただひとり俺の信頼を得ようとした。一興ではあったが、残念だったな。俺はお前のような手合いを妻に迎えるつもりは一切ない。ロゼッタには近寄らせん。大人しく邸の掃除をしていろ」
それを最後に、アルブルは去っていった。奥の間のほうへと。おおかた、ルシールへの警告を流布するためであろう。
ルシールは固く閉じた玄関扉を眺めた。上部が細いガラス張りになっており、月光がエントランスに曲線となって落ちている。まるで夜に跋扈する悪魔の笑みのような具合だった。




