幕間.「徒花の蹉跌④ ~脱走計画~」
侯爵の妻になりたくない。でも子供はほしい。そんなロゼッタを、ルシールは珍妙な虫でも発見したように思ったものだ。ロゼッタが今日まで侍女という立場を保ってきた理由までも揺らぐ発言である。名誉欲や金銭欲がなければ、この邸の侍女、すなわち夜伽の仕事を是とするはずがないのだから。
真相は定かではないが、ルシールはロゼッタをこう結論付けた。度外れに近視眼的で、想像力と正義感が悪い意味で逞しいのだと。つまりロゼッタは死産の場面に居合わせ、アルブルの態度の反転を目にするまでは、侯爵に倫理観が備わっていると思っていたのだろう。だから夜伽を――侯爵の妻となる未来を良しとしていたのだ、これまでは。自らの愚鈍さゆえの叱責は受け入れられても、死産を経験した女性への罵倒は決して許すことが出来なかった。それが例の暇乞いとなり、生来の気弱さも手伝ってアルブルを逆上させた結果、強姦へと繋がったわけだ。
ルシールはじっとロゼッタを見据えた。軟禁されて二ヶ月、こうまじまじと見つめるのははじめてである。当然ながら腹は膨れていない。口元や髪に付着したのは吐瀉物の一部だろう。顔色は悪い。手洗い場を行き来しただけなのに息も切れている。
ルシールはベッドから降り、「今日からこっちで寝なさい」と指し示した。自分は、ロゼッタが使っていた薄っぺらい簡易的な寝具を使えばいい。
ロゼッタがなにか言う前に、その耳に囁いてやる。労りに満ちた優しい声音で。
「貴女の脱走を手引きしましょう」
奥の間の廊下と本館を隔てる扉の横で、ルシールは腕組みし、壁に背をもたれてじっと天井を見上げていた。ロゼッタが妊娠を告げた晩――それも深夜のことである。本来なら誰もが寝静まっている時間帯だ。
やがて扉の外鍵が外れる音がして、ルシールは踵を返した。行動開始。彼女は脳裏に描いた計画をなぞりつつ、奥の間の扉を開け放った。
「ロゼッタ。今なら抜け出せるわ。一緒に来て」
純白のガウンを羽織った彼女は、不安気な表情をしていた。脱走したがっていたのは自分なのに、今更腰が引けた態度を取るのが憎らしい。が、ルシールは努めて顔には出さなかった。
廊下を先導する間、ルシールはほとんど前を見ず、ロゼッタほうばかりを見やって歩幅を調整した。体調を慮った足取りに見えたことだろう。
ゆえに、花瓶の乗った台座に腰を強かにぶつけ、ロゼッタの手を離し、割れた花瓶の上に転んでしまった。
「ルシールさん! 嗚呼、血が、どうしよう……」
「大丈夫。気にしないで。それよりも静かに。誰かに気付かれたらどうするの?」
ルシールは花瓶で切った腕から血を滴らせ、起き上がろうとした。止血のつもりなのだろう、ロゼッタが自分のガウンでルシールの血を拭き取っている。しかし、拭けども拭けども血は溢れてやまない。ルシールはハンカチで腕を縛って止血し、これで大丈夫、と言わんばかりにロゼッタへと笑みを向けた。
が、立ち上がろうとしたところで痛みに顔を歪めてしゃがみ込む。
「ごめんなさい、ロゼッタ。足を挫いてしまったわ。この先はひとりで行って。大丈夫。扉は開いてる。玄関も心配しなくていいわ。鍵は閉まってない」
「でも、ルシールさんを置いていくなんて……」
「私のことは心配しなくていいから、早く行って頂戴。見つかったらどんな目に遭うか分かるでしょ?」
ロゼッタの瞳が恐怖に震えた。もし脱走途中で見つかったら。彼女の怯えは、あの日のアルブルに直結していることだろう。同じ顛末が用意されていると想像するのは簡単だ。単に凌辱されるだけならまだしも、彼女は今や身重。宿った命に影を落とす要因は排除したいはず。
だから「ごめんなさい」と呟いてロゼッタが本館への扉を開けたのは、至極当然の成り行きだったろう。背に腹は代えられない。
ロゼッタが見えなくなると、ルシールは立ち上がり、ここから奥の間へと続く廊下のなかで、もうひとつの花瓶を手に取り、自分の頭に叩きつけた。陶器の割れる音が鳴り響く。頭から流れる血を感じ、ルシールは花瓶の口を投げ捨てた。人生もこんなふうに音を立てて割れるならまだ爽快だ、なんて内心で独白しつつ。
玄関のあたりで、すでに騒動の気配がある。
「さて、と」
口の端に浮かんだ笑みを消して、ルシールは喧騒の方角へと歩を進める。ややふらつく足取りを演出して。
玄関にはすでに侍女一同が集っており、ロゼッタを後ろ手に取り押さえていた。どうせならうつ伏せに押し倒して捕縛すればいいものを、とルシールは一瞬歯噛みする。
こちらを振り向いたレベッカとほんの一秒にも満たない時間、冷たい眼差しを交わし合う。
ロゼッタは脱出の手引きをした仲間の姿を見たからか、弱々しくもがき、叫びを上げた。
「ルシールさん! ルシールさん!! 玄関が開かなかったの! なんで、なんで、なんで!!」
開くわけがないだろう。こいつは何年侍女をやってきたんだ。玄関の鍵を持っているのはアルブルと、敷地内の小屋で起居する庭師のみ。前者はともかく、後者は邸に足を踏み入れるのを禁じられている。邸から一歩たりとも出ることを許されぬ侍女との接触などあろうはずがない。そんな手合いをたった半日程度で籠絡するのが不可能なことぐらい、どうして想像出来ないのか。十代の小娘ならまだしも、ロゼッタは六十年も生きているのに。
ルシールが描いた脱走計画ははじめから失敗を前提としていた。
彼女が働きかけたのは、晩の食事を届けに来た侍女――レベッカだけである。誰よりも妻の座に飢えている女だからこそ、好都合だった。レベッカにロゼッタの妊娠を告げると、案の定、相手は獰猛な表情を見せて悪態をついたのである。なんであの馬鹿女が、と。
『レベッカ。貴女に提案があるの』
『提案ってなによ』
『このまま時間が経ったらロゼッタの妊娠が明らかになるわ。その前に彼女を失墜させればいいのよ。アルブル様に手を汚させるくらいの真似をさせればいい。……ロゼッタが侍女を辞めたがっているのはご存知でしょう?』
『みんな知ってるわよ。だから監禁したんじゃない』
『あえて脱走させるのよ。ただし、玄関は突破させない。それで充分怒りを買えるわ』
『……どうせなら本当に脱走させればいいんじゃない? 侍女部屋の窓でも割って』
『ライバルが消えるのは貴女にとって都合がいいでしょうね。ところで、窓を割って、その先の鉄格子まで蹴破るつもりかしら? 土台無理な話よ。もしも脱走が叶ったとして、生かしておくわけにもいかないでしょう? 知り合いに殺し屋がいるならまだしも。それに、誰かに暗殺を頼むとしても私たちには外と連絡を取る手段なんてない』
『そりゃそうだけど……別に生かしておいてもいいんじゃなくって? 逃がすだけじゃどうして駄目なの?』
『アルブル様は血眼になって脱走者を探すでしょうね。見つかるかどうかは問題じゃない。それで私たち侍女の立場がどうなるかが問題なのよ。想像してご覧なさい。私は侍女になるまで七十五年を費やしたの。侍女になりたがる女は多かった。実態がどうあれ、ね。アルブル様としては邸の侍女全員の首を文字通り切っても、代わりは見繕えるでしょう。ロゼッタが脱走しおおせた時点で、アルブル様は侍女すべてに矛先を向けるわ。脱走を未然に防げなかった、無能で、信頼のおけない侍女をいつまでも養うお人好しじゃない。そして秘密がある以上、解雇するわけにもいかない。口を塞ぐ手段なんてひとつ』
レベッカは青褪めた顔で、計画に加担することとなった。夜半に奥の間と本館を繋ぐ扉の鍵を開けさせる。侍女全員に脱走の計画を通達し、ロゼッタが玄関でもたもたしているところを取り押さえる。これで万事解決。ロゼッタのみ首を切られるわけだ。
そのような説明でレベッカは納得したようだった。が、この小娘にも少しばかり憂いと警戒心はあったのだろう。最後にこんな問いを投げかけられた。
『でも、奥の間の扉はどうするのよ? 誰かが開けたことは明らかでしょ? そしたら侍女みんなに白羽の矢が――』
『大丈夫。開けたあとの扉は壊しておくから。私が魔術師だってことくらい知ってるでしょう?』
レベッカの憂いはそれで晴れたようだった。悪女を気取って本館へと下がる彼女を見送り、ルシールは薄笑いを浮かべたものである。どいつもこいつも、と。
玄関に来るまでの間、ルシールは奥の間と本館を繋ぐ扉には傷ひとつ付けなかった。




