幕間.「徒花の蹉跌③ ~二人の軟禁者~」
出産直後の朦朧とする意識のなかで、ルシールは自分の耳がおかしくなったとばかり思っていた。赤ん坊は泣くものだ。それがちっとも聴こえない。産声もなければ、侍女たちの声もない。
だが、耳が正常だったことは間もなく明らかとなった。ベッドに近寄ったアルブルの声は、確かにルシールの鼓膜を震わしたのである。
「誰が死体を産めと言った!!」
奥の間に響き渡った怒声は、アルブルがどれだけ継承者を渇望していたか如実に表している。穢らわしいものでも見るような目付きで放たれた言葉は、凶器によく似ていた。
ルシールは霞がかった意識のなかで、死体、という単語を頭のなかで繰り返す。どこの誰が死体なのか、死体になったのか、思考は一向にまとまらない。初産が悲惨な結果に終わったとは、露とも思わなかった。
彼女の耳はしっかりと機能している。それゆえ、ほかの声も届いた。震え混じりの、怯えを隠しきれない声。
「そ、それは、あんまりじゃないでしょうか。ルシールさんに……ルシールさんが……その、可哀想です。し、死んでしまった赤ちゃんも、可哀想です」
その声がロゼッタのものであることはルシールにも分かったが、彼女がなにを言っているのか、どうしてそんなことを口走っているのか、不明瞭である。ただ、死産だったと悟り、頭が真っ白になっていく感覚があった。
アルブルはルシールからロゼッタへと矛先を変えた。「貴様、誰にものを言っているのか理解しているのか? たかが侍女風情が」
これまでアルブルに意見した侍女はひとりもいない。誰もが侯爵の自尊心を弁えていたからだ。そのあたりの心情を推し量れない者は侍女として雇用されなかったという背景がある。ロゼッタとて、アルブルのプライドの高さは分かっていたはずだ。それでも口を慎まなかったのは、彼女なりの正義感からだったろう。言葉と態度が一致していればそれなりの説得力を勝ち得たかもしれない。居並ぶ侍女たちの共感を呼んだかもしれない。しかし、ロゼッタにそのような強い態度などまったくなかった。
「す、すみません、でも、でも、ひどいじゃないですか。か、可哀想だと、思わないんですか」
「なにが哀れなのだ! なにがひどいのだ! 死体を産んだルシールに情けが必要か!? 死を孕んだ女に優しくしてやる謂れなどない!!」
「や」ロゼッタが後ずさる。呼吸はすっかり乱れて、怯えきって、涙すら浮かべているのに、言葉だけは前へと踏み出していた。あまりに危険な地帯へと。「辞めます。じ、侍女なんて、もう辞めます。こんな、こんなひどい、アルブル様が、こんなひどいひとだったなんて、もう、わたし、耐えられません。きょ、きょ、今日で辞めます」
「貴様は辞められる立場にない! ここにいる全員が分かっているはずだ。暇など出そうものなら、貴様は簡単に口を割るだろうが! この邸でなにがおこなわれていたか! 侍女と俺の関係もすべて!」
「ひ、秘密は、守ります。だ、だから、どうか、辞めさせて、ください」
「貴様の口約束など信用に値せん!」
「おおお、お願いします。辞めたい。辞めたいの!」
それから起こったことは、ルシールは目にしていない。もとより気絶寸前の状態だったのだから無理もないだろう。
アルブルは暇を懇願するロゼッタを殴り、蹴り、床に引き倒して強姦したのだ。その間もロゼッタは泣きじゃくりながら、ずっと辞めたい旨を口にしていた。ほかの侍女一同はというと、アルブルの命じるままに待機し、その一場を冷徹に見下ろしていたのである。ロゼッタは、犯される自分を眺める数々の瞳に侮蔑の色を見ただろう。もっとも、侍女はルシールに対しても同じような感情を抱いていたわけだが。なにせ、アルブルの妻となるチャンスがまためぐってきたのだから。
以降、ルシールとロゼッタは、大して広くもない奥の間で軟禁生活を送るようになった。口を開けば辞めると言って憚らない侍女を自由にするわけにはいかないのは当然である。ルシールもまた、アルブルにとっては最大級に不愉快な存在に成り果てたため、同じ境遇に落ちたわけだ。
「ルシールさん。大丈夫ですか? あの、身体の具合は……」
そんなふうに同情を寄せるロゼッタを、ルシールはひたすら無視した。ベッドに横になったままの彼女は、傍目には復調していないように映ったことだろう。しかしそうではない。ルシールはひたすら考え込んでいたのである。
――死産は事実。それは仕方ない。ただ、永遠に機会が失われたわけでもない。こうして軟禁状態にあるけれど、雌伏の時とでも考えればいい。まだ手段はあるはず。というか、妻になる道ははっきりと残されている。子供が流れたからといって、次もそうとは限らない。そもそもアルブルの種を芽吹かせる土壌があるのは証明されたも同然。あとはどれだけ不吉な印象を遠ざけ、夜伽の機会を得るか。侍女を通しての説得は難しいどころか無理だろう。彼女らはもとよりライバルだ。下手に言葉を交わしても、アルブルへは届かない。むしろ都合よく捻じ曲げられてしまうに違いない。いや、すでにそのような耳打ちが為されているとみるのが自然。どこかの馬鹿女と同じように辞めたがってるとかなんとか吹き込まれているかもしれない。信頼出来る相手がいない以上、アルブルが奥の間に直接姿を現すまで待つしかなさそうだが、彼の足をこちらに向けさせる方法はないだろうか。折入って話があると侍女を介して伝えさせるのは悪手。まだ不吉の影が払えていないし、なにより邪魔者のロゼッタがいる。こちらが言葉を弄しても、ロゼッタがアルブルの神経を逆撫でしたら説得どころの話ではない。奥の間に通じる扉の内側に手洗いもバスルームもあるのが恨めしい。そうでなければ機を見て直談判に出る手段も取れるというのに。三度の食事を運ぶ侍女は決まっていないけれど、籠絡しやすい相手を見繕えるだろうか。いや、ロゼッタ以外の侍女を籠絡するのは端から不可能。いっそ自傷行為におよんで騒ぎを起こし、アルブルまで引きずり出してしまおうか。いやいや、それも駄目。狂人を妻にするような男じゃない。比較的穏当な面会さえ叶えば、そして不吉の影が薄まる程度の時間を置けば、アルブルの説得は出来る。絶対に。次は必ずや健康な赤ん坊を産んでみせますのでどうかチャンスを、とでも乞えばいい話。継承者に飢えているあの男と利害は一致している。長の年月で孕んだのは私だけなのだから、多少なりとも不快を感じても呑むだろう。自尊心は高くとも損得には敏感だ、あいつは。領地経営者の首根っこを引きずり回すくらいの強欲さがある。利があると見れば飛びつく。必ず。
そんな具合に日夜ルシールは考え続け、じき二ヶ月が経とうとしていた。このときになってもまだ、はっきりとした算段は固まらず、相変わらずベッドで思考を回転させる日々である。
ロゼッタは朝から随分と長く手洗い場に籠もっていたが、ようやく奥の間に顔を見せると、快とも不快ともつかない微妙な表情をしていた。長い黒髪の一端を唇に引っ掛けたまま、彼女はベッド脇まで椅子を運んできて座る。一挙手一投足が鈍重だった。しかしそれは、日頃の愚鈍さによるものではなく、なにかしら体調に由来するものだとはルシールも察していた。が、ロゼッタなど彼女にとってはどうでもいい存在である。子供を授かると予言した台詞を呪わしく思い、憎んでいるのは確かだったが、殊更にそれを表面化させるつもりもなかった。
無力で無意味な存在。そう見做していた。この瞬間までは。
「ルシールさん。わたし……妊娠したみたいです」
それだけでもルシールはぎょっとしたが、続く言葉には絶句してしまった。
「わたし、あのひとの奥さんになりたくない。でも子供は大事にしたいの。だから――ここから逃がして」




