Side Carol.「本物の洗脳」
※キャロル視点の三人称です。
マグオートの戦士キャロルは、いくつかの死を知った。桃色の髪の魔術師マドレーヌは、門前に着く頃には姿もなかったが、どうやら血族と相討ったらしい。そして同じく血族であるバイターなる男は、今しもイアゼル様の幸福の力で死に至った。バイターに授けられた幸福と自分のそれとは異なるものだと自覚はしていたが、自死の間際の恍惚は傍目からも並々ならぬものが感じられる。キャロルは決して死は望んでいないが、あの恍惚は羨ましく思えた。
そして今、異常者ローランは死につつある。血族に囲まれ、様々な魔術や武器を身に受けていた。なんとか命を繋いでいるようだったが、そう長くは持たないだろう。
哀れだと思う。それと同じくらい、当然だとも思う。だって異常者なんだから。幸福を感じられないならまだしも、それを味わってなお拒絶するなんてどうかしてる。
やがてイアゼル様がこちらに向かって悠々と歩み寄ってきた。彼の進行を邪魔しないよう左右に分かれた住民や戦士たちが自然物に思えてくる。幸福の天使の前では、山や大海すらも場所を譲り、安寧な道行きを確保するのではなかろうか。
イアゼル様が隣の壁に背をもたれると、キャロルは心底ホッとした。彼の戻ってきた場所が自分の隣というだけで、もう天にも昇る喜びなのだ。その一方で、ルシールは険しい顔をしている。
「イアゼル様。なぜバイターを殺めたのです」
「殺してないさ。赦しを与えた」
「なぜ?」
「だって、バイターは至福充溢を拒否したんだよ? ありえない。あんなに幸せに飢えていたのに。きっとマドレーヌに絆されたんだね。異常者の言葉に耳を貸すなんて、どうしようもない奴だ。でもぼくは赦した。だからこそ赦した」
詰問調のルシールと対照的に、イアゼル様は優雅だった。けれど、どこか余裕なさげでもある。おこがましいことだが、言い訳を拵えている雰囲気さえあった。
ルシールは咳払いをひとつして、イアゼル様をじっと見据える。彼女はイアゼル様だけには優しげな眼差しだったのに、それが消えてしまっていた。
「バイターは貴重な戦力でした。マドレーヌに後塵を拝したとはいえ、失うには惜しい人材です。それをたったひとつの憂いで消すなど愚かしい限り」
「ぼくは愚かなんかじゃない! 異常者にやられるような戦力なんて要らないさ!」
「その異常者こそ厄介なのです。マドレーヌは部隊の三分の一を消したのですよ。この事実をもってしても、容易に見通せましょう。バイターを失ったのは痛手です。叱責ならばラガニアに帰還してからにすれば良かったでしょうに」
「戦力ならルシールで充分だ!」
声を荒げるイアゼル様を、キャロルははらはらした気持ちで見つめていた。幸せなのに胸苦しいなんてあるんだ。
「生憎、わたくしはバイターにおよぶ攻撃手段を持ち合わせておりません。防御と転移に得手があるだけです。イアゼル様もご存知でしょう?」
「知らない! ルシールならなんとかなる!」
「まるで駄々っ子ですね、イアゼル様。ご自分の思い通りにならなければ気が済まないなんて」
「うるさいなあ! ルシールなんて嫌いだ!」
瞬間、ルシールの瞳から色が失われた。彼女は二度ほどまばたきをして、イアゼル様を見つめたまま一歩だけ後退する。
「そうですか。わたくしもイアゼル様には愛想が尽きました。ここでお暇させていただきます。どうぞ、あとの始末はご自分でなさってください。さようなら」
踵を返してゆっくりと歩むルシールをイアゼル様が睨んでいたのは、ほんの数秒のことだった。彼の表情はみるみるうちに崩れていき、不安一色になって、やがてルシールに追いすがると手を取った。その手が払われても、もう一度手を掴む。
「ごめん、ごめんよルシール。つい感情が昂ってしまったんだ。全部謝る。謝るから許して。駄目なぼくを許して。ごめんなさい。ごめんなさいルシール。ルシールのことは全然嫌いじゃないのに、なんでぼくはあんなことを言ってしまったんだろう。これからはちゃんとルシールの言うことを聞くから、お願いだから、許して」
ルシールは足を止めたが、振り向かなかった。手を取るばかりか膝を突いて腰に抱きついているイアゼル様を振り払う素振りもない。ただ、深い溜め息が漏れ聞こえた。
「こんなふうに許しを乞うのは何度目ですか、イアゼル様」
「分かんない、けど、今度はちゃんと反省してる」
「なにに対して反省しているのですか?」
「ルシールに嫌いって言ったこと」
「バイターを殺めた失策は?」
「あ、バイターのことも、ちゃんとルシールの意見を聞くべきだった。反省する」
振り返ったルシールは、声に違わず険のある表情をしていた。
「わたくしの言うことをちゃんと聞けますか?」
「うん、聞く。だから許して。……怒ってる?」
溜め息ひとつ。そののち、ルシールは腰をかがめてイアゼル様を抱きしめた。
「怒ってますよ。しかし、水に流しましょう。許します。ただし、これで最後ですから、肝に銘じてください。次、愚かしいことをなさったら、貴方のルシールはどこの誰でもないルシールになりますから」
「分かった。ちゃんとする。ごめんねルシール」
しばしの抱擁ののち、二人は身体を離した。イアゼル様の目には少しばかり泣いた痕がある。ルシールは彼を抱きしめている間、ずっと妙な顔をしていた。口元に薄笑いを浮かべて、けれども目はちっとも笑っていない、そんな顔。
二人の関係が一朝一夕のものではなく、長い時間をかけて醸成されたものであることはキャロルにも察しがついた。使用人に依存する領主が珍しいものなのかどうかは不明だが。
洗脳魔術を得意とするイアゼル。一方で本物の洗脳――人心掌握を得手としていたのはルシールだった。血族をマドレーヌへとけしかけた一場でもそれが表れている。イアゼルの授ける幸福を餌に、幸せに飢えた血族を駆り立てたのだから。
そのような背景は、至福の渦中にいるキャロルには想像の範囲外である。彼女はただひとつを願っている。応接間で取り乱したイアゼル様を宥めるべく抱きしめた報酬がほしかった。どうしても。
だから、再び壁にもたれたイアゼル様を、彼女は跪いて見上げる。
「イアゼル様。お願いがございます」
「ん? なんだいキャロル。言ってご覧」
そう促しつつ、ルシールを一瞥したのはイアゼルが彼女を気にしているからだろう。
「不躾なのは承知しておりますが……その……小指を舐めさせてください。左の小指を」
返事を聞く前に、キャロルはイアゼル様の小指を――至福充溢の源泉をしゃぶっていた。もう我慢が利かなかったのだ。ルシールが制止するようなことを言っていたが、キャロルの耳には入らない。
「キャロル。指を離すんだ。ルシールも駄目だって言ってるし」
「いやでしゅ」
「ああ、もう、困った。どうしようルシール」
ルシールはしばし厳然たる表情でキャロルを見下ろしていたが、やがて軽蔑の眼差しへと変わった。はじめはイアゼルの指の魔紋に傷でも付けるつもりかと危惧したのだが、そうではないと悟ったのだ。この小娘は純粋に幸福の源を味わっている。欲深い。戦う度胸はないくせに、幸せへの欲求だけはタガが外れている。救えない。
「好きにさせましょう。彼女は無害です。しゃぶらせておけばよろしい。あとで消毒なさってくださいね」
「まるでペットだね。こんな幸福なひとも珍しい」
「ええ。幸福の奴隷です」
嘲笑を交わす二人の視線は、血族たちの蟠る位置へと推移していった。
急拵えの十字架が彼らの間に立てられる。そこには瀕死のローランが磔にされていた。
その様子にイアゼルはご満悦だったが、ルシールはというと、さっさと殺せばいいものを、と考えていた。
十字架が地面に突き刺さる頃。太陽がやや西に傾いた時刻。血族たちは騒然としていた。儀式めいた処刑に興奮しているのだろうと二人とも推察したが、実情は異なる。彼らの目のおよばぬ末端で、今しも血族たちが次々に殺されていたのだ。ひとりと一匹の闖入者によって。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『キャロル』→マグオートの戦士。気だるげな女性。運河を越えるために砂漠の廃墟の掘削事業に従事していた。詳しくは『第四章 第一話「祈りの系譜」』にて
・『マグオート』→文化的、経済的に成熟した街。王都から流れてきた富豪が多く住む。トムとマーチの故郷。別名『銀嶺膝下』。ラガニアの辺境である地下都市ヘイズと、転送の魔道具によって接続されている。詳しくは『第四章 第一話「祈りの系譜」』にて
・『マドレーヌ』→炎の魔術を得意とする、『救世隊』の魔術師。性別は男性だが、女性の格好をし、女性の言葉を使う。シンクレールに惚れていたが、彼に敗北。テレジアの死によって、彼女の教義を伝える旅に出た。現在はマグオートに滞在。詳しくは『317.「マドレーヌ」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『悦楽卿イアゼル』→黒の血族で、ラガニアの侯爵。洗脳魔術の使い手。詳しくは『幕間「落人の賭け」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『不滅のローラン』→紫の長髪の優男。騎士団ナンバー6。剣と盾で戦うスタイル。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー③赫灼の赤き竜ー」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より
・『洗脳魔術』→魔術の分類のひとつ。読んで字のごとく、対象を洗脳するための魔術
・『魔紋』→魔術の応用技術のひとつ。壁や地面に紋を描き、そこを介して魔術を使用する方法。高度とされている。消費魔力は術者本人か、紋を描いた者の持つ魔力に依存する。詳しくは『186.「夜明け前の魔女」』にて




