Side Laurent.「騎士だから」
※ローラン視点の三人称です。
現実へと回帰しても、ローランの状況はなにひとつ変わらなかった。迫りくる腹心の騎士たちの凶刃を避け、マグオートの戦士たちが振るう雑多な武器を盾で捌く。住民の凶器はいずれも大した得物ではなかったが、いちいち相手にしては骨が折れる。
いずこから飛来した鍋が側頭を打ち、ローランは呻きを上げた。それでも手足を休ませない。意識が飛んだのは一瞬だけで、彼の防衛戦が崩壊することはなかった。
一度に全部を相手することなく、しかし覚醒した者が対血族への戦線に加われるよう、距離を置くわけにはない。ローランの足運びは自然とマグオート壁外で一定範囲の円運動を描いた。騎士のなかには弓兵もいたが、矢が飛ぶことはなかったのは、まともに狙いをつけられなかったからだろう。あるいは、洗脳された同胞を傷付けまいという配慮からか。投擲物を扱ったのはもっぱらマグオートの住民だった。そこに不実さを見ることも出来るだろうが、詮ないことである。
「貴方たちは今、洗脳されているだけなのです! どうか己を取り戻し、敵が何者かを見定めてください!」
全身に負った傷にも勝って、喉の痛みが酷かった。夜間戦闘で周囲の騎士へ指示を送る日々のなかで鍛えられた喉だったが、数え切れないほどの味方すべてに届かせるような声帯ではない。この場に集った人間の総数は、イアゼルの率いる血族の勢力を遥かに上回っていた。
言葉は響かない。刃は止まらない。体力が削がれ、時々刻々と傷が増す。足はすでに棒きれのようだった。実際問題、ローランはほどなく限界を迎えたことだろう。いかに目を背け続けても肉体は有限だ。流れた血は戻らない。消費した体力は休息を要請する。
この窮状を変えたのは、皮肉なことにイアゼルだった。
「みんな、その異常者への攻撃をやめるんだ」
凛とした声ののち、皆が一斉に動きを止める。今しもローランへと振り下ろされようとしていた騎士の剣も、中空で制止し、ゆるゆると蛇行した軌跡で地を叩いた。
ローランは汗みずくの顔で声の――イアゼルの方向を睨んだ。そちらから会話が聞こえてくる。
「イアゼル様。なぜ制止したのですか?」
「味方に嬲られて死ぬのを見るのも一興だけどね、ルシール、思い出したんだ。ローランは確かに至福充溢にかかってた。そうだろう?」
「ええ。ですが、解除されました」
「なら、もう一度施せばいいじゃないか。今のローランはボロボロだ。きっと抵抗出来ない」
「……お好きになさってください」
「うん、好きにするよ」
人波が割れ、二人の血族が姿を現した。この地に疫病のような洗脳をもたらしたイアゼル。そして、彼の忠臣であろうルシール。前者は優雅な出で立ちに比して、瞳の奥に邪な色を浮かべている。一方で後者は、呆れと諦めがないまぜになった表情だった。二人の遥か後方の門前で、マグオートの戦士であるキャロルがもじもじとしている。イアゼルの背を名残惜しそうに見つめる瞳は信者のそれだった。
ローランは肩で息をしながら、仇敵の登場に奮い立つ。悠々と歩を進めるイアゼルを待ち、一気に斬りかかる算段である。しかし、十メートルほどのところで彼らは足を止めた。
「ルシール。あれを」
「はい。転移門」
魔力が視える者ならば、イアゼルの正面に数センチ程度の平たい円形の魔術が展開されたことが分かっただろう。同じものがローランの額のすぐそばに展開されたことも。
ローランには魔力を察知する能力がなかった。授からなかった多くのものが、彼を陥れている。そのような人生だった。
空中に出現した魔術にイアゼルが小指を差し入れたとき、ローランの目には指先が消えたように映った。己の額にその指先が触れたのを知ったのは、もはや手遅れになってからである。
「至福充溢」
イアゼルの呟きとともに、ローランの脳内が幸福に満たされる。イアゼルは転移門から左の小指を引き抜き、ルシールに笑みを投げた。ほらね、とでも言いたげに。
ローランのなかで幸せが充満し、はち切れそうになっていた。多くの傷を負い、立っているのもやっとという状況なのに、幸福で幸福で仕方ない。この世のすべてが自分を祝福しているような感覚だった。これまでの苦難の道がそれで報われる――わけがない。
鋭い眼光を取り戻したローランは、イアゼルへと一歩踏み出した。優雅な金髪の血族は、少しばかり首を傾げる。今度は彼の中指が消える。
「追想自鳴琴」
また額に違和感を覚えたが、今度の洗脳はまったくの無意味だった。対象を幸福な想い出に閉じ込める洗脳魔術――追想自鳴琴。ローランには留まりたいと思えるような幸福な過去などないのだから。
彼はまた一歩、イアゼルへと足を踏み出す。
次に消えたのは人差し指だった。
「虚空領域」
瞬間、ローランはその場に膝を突いた。身を覆う幸福が、全神経に脱力を強いている。この場で寝そべって、そのまま死を迎えてもかまわないような、強烈な誘惑があった。
「あはっ! いいね。虚空領域はちゃんと効いてる。どうだい、もうなにもしたくないだろう? いいんだよ、それで。そのままなにもせず、幸せを感じているといいさ」
イアゼルの嘲弄を耳障りだとさえ感じない自分がいる。身体になんの力も入らず、それでいて幸福なのだから、反論のしようもない。そもそも、反論する気にもなれない。
身体がままならなくとも、頭はそこまで蝕まれてはいない。だからだろう。意識の外側から、ローラン自身の記憶の声が、彼を揺さぶった。
『力や技術ばかりが騎士の本分ではない。王都を守るためにもっとも大切なものがなにか。心だ。決して折れることのない意志だ。騎士は心で戦うと思っていい。潔白で強靭な心が、我々に剣を振るう力を授けてくれる』
若き日のローランが、かつてのゼールにかけられた言葉。それが一言一句違わず耳に再生された。過去から呼びかけられたと錯覚したのも無理はない。そしてそれは、悪い意味などひとつも持っていなかった。
鮮烈な痛みが駆けめぐり、全身に力が戻る。ローランはゆっくりと立ち上がり、イアゼルを睨んだ。口から血を流して。
比較的脱力の少なかった口を利用して、口内の肉を食い千切ったのだ。明確な刺激が覚醒へのシグナルとなったのである。
「……理解出来ないね。なんでそこまで幸福を拒否するのか。きみはマドレーヌと違って、ちゃんと幸せになったのに。なんでそれを手放す? 意味不明だ。望んでも手に入らないくらいの幸せをあげたのに、なぜ」
苛立ちを露わにするイアゼルに対し、ローランは血反吐とともに言い放った。
「騎士だから、ですよ」
それが理由の一端だ。すべてではない。あらゆる物事を言い尽くすような言葉は持ち合わせていないが、騎士の二文字でおおむね片がつく。騎士は心で戦うのだと、あのひとは言った。そして自分は今、騎士団の六番手に座している。責務は目下、マグオートの守護。幸福と責務の天秤がどちらに傾いているかは言うまでもない。
「なら、これはどうだろう。きみにはきっと抜け出せない。正義感の強そうなきみには、決して。――空望成就」
イアゼルの薬指が消え、ローランの視界は暗転した。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『不滅のローラン』→紫の長髪の優男。騎士団ナンバー6。剣と盾で戦うスタイル。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー③赫灼の赤き竜ー」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『マグオート』→文化的、経済的に成熟した街。王都から流れてきた富豪が多く住む。トムとマーチの故郷。別名『銀嶺膝下』。ラガニアの辺境である地下都市ヘイズと、転送の魔道具によって接続されている。詳しくは『第四章 第一話「祈りの系譜」』にて
・『悦楽卿イアゼル』→黒の血族で、ラガニアの侯爵。洗脳魔術の使い手。詳しくは『幕間「落人の賭け」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『キャロル』→マグオートの戦士。気だるげな女性。運河を越えるために砂漠の廃墟の掘削事業に従事していた。詳しくは『第四章 第一話「祈りの系譜」』にて
・『洗脳魔術』→魔術の分類のひとつ。読んで字のごとく、対象を洗脳するための魔術
・『ゼール』→騎士団長。王都の騎士を統括する存在。双剣の魔具使い。実はシフォンの養父。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』『第九話「王都グレキランス」』『幕間.「王都グレキランス~騎士の役割~」』にて
・『マドレーヌ』→炎の魔術を得意とする、『救世隊』の魔術師。性別は男性だが、女性の格好をし、女性の言葉を使う。シンクレールに惚れていたが、彼に敗北。テレジアの死によって、彼女の教義を伝える旅に出た。現在はマグオートに滞在。詳しくは『317.「マドレーヌ」』にて




