Side Madeleine.「悦楽と誠実の相克」
※マドレーヌ視点の三人称です。
マドレーヌは腕のなかで、バイターがゆるゆると脱力していくのを感じた。展開されていた大蛇も、みるみるうちに彼の袖や裾に引っ込んでいく。彼が今どんな顔をしているのか分からない。悪いものでなければいい、と打算ではなく本心で思った。行動を伴った言葉は心の深い場所まで届きうると信じていたから。
「俺は報われるのか? 幸福になれるのか?」
首のあたりでバイターの低い声が流れた。
「幸せになれるかは分からない。ただ、他者を尊重して慎ましく清らかに生きさえすれば、必ず誰かに愛されるわ。愛された分、愛を分け与えれば、誰かを幸せに出来る。自分が幸せになれずとも、誰かの幸せに貢献するのは清々しいことよ。暴力よりもずっと気分がいいわ」
「お前、いい奴だな」
「どうも。お前じゃなくてマドレーヌよ」
「そうか。いい加減身体を離してくれ。恥ずかしい」
マドレーヌは苦笑を抑えて、バイターの身を離した。彼の顔が目に映る。さぞ晴れ晴れとしたものだろうと想像していたが――彼の表情は悪漢のそれだった。
バイターの裾全体を覆うサイズの巨大な蛇の胴が伸び、またたく間にマドレーヌの身体を締め上げる。今度も尾はなく、蛇の頭がマドレーヌの頭上で見下ろしていた。
「おめでたい頭だな、マドレーヌ。お前の言う幸福は偽物だ。イアゼル様の与える幸福だけが本物なんだよ。味わってみりゃ分かる。ああ、そうか。お前は幸福になれない異常者だったな。残念だ。まあ、おかげで俺はお前を嬲って遊べるわけだがなぁ」
締め付けはそう強くないが、もがいても抜け出せそうになかった。
騙されて悔しいとは思わない。教え諭すとは、そんな出来事の繰り返しだ。ただ、哀しくはある。イアゼルの洗脳魔術はとてもじゃないが本物の幸福だなんて呼べないから。教祖様に再会出来た喜びはあれど、いつまでも浸っていいものじゃない。
「押し付けられた幸せは、幸せとは呼べないわ。幸せは自分で得るものよ。自分で気付くものよ。自分で思い起こすものよ。その瞬間がどれほど豊かか、アンタは――」
急に全身の圧迫が訪れ、息の代わりに血を吹き出した。骨を圧し、肉を潰す締め付けがマドレーヌを襲ったのである。それは一瞬で弛緩し、先ほど同様、抵抗出来ない程度の拘束だけが残った。
「お前の安い幸福論は聞き飽きてんだよ。マドレーヌよぉ。俺がどんな想いで生きてきたか分かるか? 優しい父親と、ひとを喰わないラーミア。三人で洞窟暮らしだ。そこに近隣の町から討伐隊が来て、まず父親が殺された。魔物の手先だって言われてな。そのとき母親がどうしたと思う? 想像してみろ」
口のなかを満たす錆の味は、意識の外側にある。マドレーヌはバイターから目を逸らすことなく、彼の言葉に耳を傾けていた。
「哀訴したんだ。泣きながら。この子は――俺だけは助けてくれってな。討伐隊を皆殺しにすりゃいいのに、母親はそんなことしなかった。というか、そんな性格じゃなかった。ひとを喰いたいだろうに、本能を抑えて野ネズミや蝙蝠で食事を済ますような感じだったからな」
比較的人間に近い魔物というのは存在する。人語を介する者が好例だ。ただ、魔物の姿でありながらも、バイターの語るほどに温厚な存在にはついぞ出会えなかった。キュラスに住まうギボンでさえ、夜は野生を解放せざるを得なかったのだ。
マドレーヌはラーミアに遭遇したことはない。文献で目にしたくらいだ。狡猾な魔物とされている。ひとを騙し、喰らう、邪悪な魔物。バイターの母親はそうではなかったのだろう。だとしても、偏見を払拭するのは難しいものだ。
「母親は殺された。当然のように。抵抗はしなかったよ。ただ、俺の盾になっただけだ。それから俺は町に引きずられて、牢に入れられた。魔物と血族の子供だなんて異常だからな。領主の判断を仰ぐためだ。イアゼル様は気まぐれで、町に来るまで何ヶ月もかかったよ。その間、俺がどんな仕打ちを受けたかは説明しなくても分かるだろ?」
通常、ひとは魔物を恐れる。血族もその点は同じなのだろう。恐れはしばしば攻撃へと転化するものだ。バイターが檻のなかで酷い目に遭っただろうことは容易に想像出来る。
「俺は父親と母親との生活で、お前の言う通り清らかだった。正しく生きていた。これ以上ないくらい慎ましかった! その仕打ちがこれだ。……それからイアゼル様がやってきて、本当の幸せを与えてくれた」
バイターの顔は、一転して恍惚を帯びた。それでも言葉は続いていく。
「ただ、幸福は長続きしなかった。イアゼル様が術を解いたんだ。一気に気分が落ちて、死にたくなったよ。そんな俺にイアゼル様は、この町の領地経営者として役立ったなら、定期的に幸せにしてくれるって約束したんだ! 俺を虐待した町の頂点に、俺が君臨するんだ! 町の連中はイアゼル様に抗議したが、全部俺が黙らせてやった。今よりは稚拙だったが、蛇の力で屈服させたんだよ。腕を喰ってやったこともある。俺は上手くやったはずだ。上手くやってきたはずだ! ……それなのにイアゼル様は、ちっとも来てくれやしねえ。そこに、今回の戦争の話が出たのさ。イアゼル様は約束してくれたよ。生きてラガニアに帰ったあかつきには、幸せを与えてくれるって!」
絶望の渦中で与えられた幸福に縋りたくなる想いは分からないでもない。ただ、それを良しとするのはマドレーヌのなかで道理に反していた。世に、必要な苦痛があって然るべきとは思わないが、苦難のなかにあっても清くあろうとしなければ、間違った道に進んでしまう。バイターが一時的な幸福と引き換えに恐怖政治を敷いたように、悦楽はひとを簡単に堕落させる。
「バイター。アンタがどれだけ苦しんだかはアタシには分からないわ。アンタにしか分からないことよ。でもね、最期まで清く在れば、報われる瞬間は来るわ。少なくとも、天で神の寵愛を受けられる」
「死んだら天国も地獄もねえんだよ、馬鹿」
「死んだ先で、アンタはお父様とお母様に会える。そのとき、褒めてもらいたくはない? よく頑張ったって」
またぞろ締め付けが強くなり、マドレーヌは吐血した。今度はそれだけじゃ済まず、肋骨が何本か折れた痛みがある。しかも、締め付けは継続していた。
痛みのなかで、マドレーヌは思う。ああ、やっぱり自分じゃ駄目だと。教祖様のように、上手くはいかない。たったひとりの可哀想な奴を救うことすら出来ない。敵を愛し、言葉を尽くしても、どうにもならない。
「死んじまえよ異常者!」
敵を愛してもどうにもならなければ、逃げよ。教祖様の第二の教えだ。この場において逃避はありえない。自分が消えたら、ローランはどうなる。たったひとり、味方であるはずの人々から刃を受ける誠実な男を置いていくなんて論外だ。仮にローランの手を引いて逃げおおせたとして、マグオートの人々が平穏無事である保証もない。したがって、第二の教えを選ぶわけにはいかない。
最後の教えだけが残されている。
「熱っ!」
蛇の締め付けが緩み、マドレーヌの全身は解放された。身体から立ち昇る蒸気が周囲を白く濁らせている。彼女はバイターの獰猛な顔を、しっかりと見据えた。
――逃げることも出来なければ、そのときは、一生かけて贖うつもりで剣を取りなさい。
長くない一生かもしれないし、これ以上の罪は贖えるものではないと思う。だが、教えは絶対で、その正しさもマドレーヌは理解していた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『マドレーヌ』→炎の魔術を得意とする、『救世隊』の魔術師。性別は男性だが、女性の格好をし、女性の言葉を使う。シンクレールに惚れていたが、彼に敗北。テレジアの死によって、彼女の教義を伝える旅に出た。現在はマグオートに滞在。詳しくは『317.「マドレーヌ」』にて
・『悦楽卿イアゼル』→黒の血族で、ラガニアの侯爵。洗脳魔術の使い手。詳しくは『幕間「落人の賭け」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『洗脳魔術』→魔術の分類のひとつ。読んで字のごとく、対象を洗脳するための魔術
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。魔王の血を受けており、死後、『黒の血族』として第二の生命を得たが、クロエに討伐された。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』『第二章 第三話「フロントライン~①頂の街の聖女~」』にて
・『ラーミア』→半人半蛇の魔物。知能の高い種。『86.「魔力の奔流」』に登場
・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷。一度魔物に滅ぼされている。詳しくは『第二章 第三話「フロントライン」』にて
・『ギボン』→別名『魔猿』。毛むくじゃらの姿をした人型魔物。森に出現する。詳しくは『294.「魔猿の王様」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より
・『不滅のローラン』→紫の長髪の優男。騎士団ナンバー6。剣と盾で戦うスタイル。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー③赫灼の赤き竜ー」』にて




