Side Carol.「神なき世界の幸福論」
※キャロル視点の三人称です。
マグオートの門を入ってすぐの道は、左右を緑豊かな植え込みに挟まれている。石畳の街路の道々に植わった木々は、秋になれば薄紅の葉で町を彩った。今は瑞々しい緑の季節である。
背後から聴こえる怒声の数々を、キャロルは耳に入れないようにしていた。自らの幸福のために戦う者たちと、戦えない自分とではどうしても隔たりがある。満たされた気持ちを邪魔する要素にあえて意識を割くのは嫌だった。
それに、隣には幸福の天使――イアゼル様がいるのだ。彼以外のなにかに思考を移ろわすなんて不敬である。
「いい町だね。人工物と自然が調和してる。文化水準も高いみたいだ。それなのにほとんど魔術的な品がない」
「ええ、そうです。マグオートは魔術を遠ざけております」
彼から声をかけてもらえるのは幸福の極みだ。マドレーヌとはあれほど対話を拒絶したというのに、自分にはこうも気軽に話してもらえる。キャロルはそれを寵愛だと感じた。たとえ彼の返事が「ふぅん」という淡泊なものであっても嬉しい。
魔術を忌避する習俗でもなければ、通常は文化的な発展と魔術的な発展は足並みを揃えるものである。灯明や水、冷暖房、果ては魔物を含めた災害への備えといった、生活を下支えする多くの事柄は魔術で賄える分野であり、それを人力でどうにかするのは魔術の素養のある者にしてみれば非効率と映るだろう。鉱山を有するがゆえ燃料に事欠かず、運河から引いた水で上下水道を整備したといえど、優れた土地であることは魔術を必要としない理由にはならない。有限な資源に依存している以上、魔術には劣る。そのあたりのことは町の多くの人々が理解していた。それでも頑なに魔術を敬遠するだけの理由まで正確に知る者は少ないにせよ。
むろん、イアゼルがすでにその理由の根本を察しているなど、キャロルには思いも寄らない。
「イアゼル様はどうしてマグオートにお越しになられたのですか? ほかの町にも福音を授けられたのですか?」
キャロルは焦りから、少しばかり早口で訊ねた。機嫌を損ねてしまわないかと危惧しながらも、どうしても知りたかったのである。彼がところかまわず幸福を振り撒いているのなら、特別感がいささか減退する気がして。
果たして、キャロルは望む通りの返答を得た。
「この町は特別だからだよ。だから、ほかの町にも村にも見向きもしないで、まっすぐここまで来たんだ」
特別。なんて幸福な響きなんだろう。キャロルは思わず「ありがとうございます」と呟いていた。歩みを止めないながらも下を向いてしまったのは、頬の紅潮を感じたからだ。
「どういたしまして。きみくらい幸せなひとは、ぼくとしても望ましい。会話する価値がある。その点、マドレーヌとローランは残念だ。幸せになれないなんて異常だよ。そんな相手に言葉が通じるとは思えない」
「ええ、本当にそう思います」
キャロルは『望ましい』と言ってもらえた瞬間、舞い上がりそうになった。ただでさえ多幸感で心がはち切れそうなのに。
家々から住民が飛び出しては、金髪長身の血族をうっとり見つめる。それも数秒のことで、各々手にした生活用品――調理器具や杖など武器になりうるものを携え、二人の脇を抜けていく。
皆が幸福を邪魔する存在を感知しているのだ。そして排除しようと躍起になっている。ローランがイアゼルを傷付けた場面を目にしていないにもかかわらず、敵の居所を察していた。それは洗脳魔術の副産物だったが、キャロルの目には本能的な行動と映った。
誰もが己の幸せのために戦う意志を持っている。自分とは違って。
「ぼくはね」
ちょっとした自己嫌悪を抱きつつあったキャロルは、隣から聴こえた歌うような声で我に返った。
「誰もが幸せじゃないとおかしいと思うんだ。人々のあらゆる行動はあらかじめ赦されているんだから。産まれ落ちた瞬間からそうだよ。どんな行為も当人の思うがままに出来る。なにせ、神様なんていないんだからね」
得意気に語るイアゼルに、キャロルはただただ感心していた。彼が言うならそうなんだろう。実際、キャロルは神のことなんてろくに考えなかった。そもそもマグオートに特定の宗教が根付いているわけではないし、彼女自身、目先の問題で手一杯だったのだ。住民のなかには哲学やら神学やらに血道を上げる者もいたが、それらは大抵が富裕層である。キャロルのように戦士を任じている者には形而上の問題を考える余裕などないし、その必要さえなかった。
「神なき世界において、ひとを邪魔するのも苦しめるのも裁くのも他人なんだ。哀しいことに。そういうひとは幸せじゃない。異常者だ。そんな異常者のせいで、本来は幸福だったひとも、幸せを感じられなくなってしまう。在るがまま幸せに浸っていれば、ひとは自ずと幸せなのに」
「神様がいないと、どうなるんでしょう? 死んだあとは?」
「死んだらそれで終わりさ。死後、楽園に行けるなんて考えは、苦痛を誤魔化すための麻酔だよ。そんな思想が必要になるくらい人々は病んでる。なぜ病むかは、分かるね?」
「異常者のせい、でしょうか」
マドレーヌやローランのような人間のせいで、本来享受するはずの幸福が邪魔立てされている。そのせいで天国だとか地獄だとか、そんな考えが生み出される。そう思うと、今も壁外にいるであろう二人の異常者の存在が疎ましくなった。かといって、踵を返す気にはなれない。キャロルの幸福は戦闘と隔たった場所にあるのだから。
これが素直に生きるということなんだろう。これが本来の幸福なのだろう。自分が戦士に拘り続けたのが馬鹿らしく思えてくる。あえて不幸になるようなものじゃないか。英雄視されていた父の誇りと、自分自身の在るべき生き方は違う。そんなことも分からずに歩んでいたなんて、どうしようもない愚か者だ。後ろ指さされようとも、戦士なんかじゃなくて、もっと別の安穏とした生き方を見つけるべきだった。いつだったか、セグロが食卓で戦士を辞めるかと提案したときに、いや、それよりもずっと前に、別の道に進むべきだったのだ。
不幸なまま生き続けて、なんの意味があるのだろう。
「マドレーヌが言っていたのは、やっぱり偽物の教義だったんですね」
「教義? なんのことだい?」
「あの異常者はキュラスから来た宗教家なんです。神の存在を説いていました。慎ましく人生を送れば天国に行けるって」
「ああ、そう。異常者にありがちな思想だ」
ふふ、と隣で愉快そうな笑いが流れてきて、キャロルは調子に乗って続けた。
「魔物は罪の結晶だとも言ってました。あいつ、魔物と戦うときに説得するんですよ。まるで人間を相手にするみたいに。当然聞く耳を持たないので、最後には戦う羽目になります」
これも鼻で笑い飛ばすことだろう。そう思ったのだが、天使の笑いはいつまで経っても届かなかった。恐る恐る隣を見上げると、興が削がれたような表情に行き当たる。
キャロルには知り得ないことだったが、イアゼルは魔物がもともと人間だったことを知っている。彼にとってマドレーヌが異常者であることに違いはないが、今しもキャロルの口から発せられた内容は、少なからず心に影を落としたのだ。イアゼルの洗脳が魔物に対しては無力であることも多いに影響している。彼の唱える幸福論において、魔物を異常者と見做すのは忍びなく、したがって人間の括りに入れることも出来ずにいた。幸福の届かない哀れな犠牲者。せいぜい、そのような位置に置くのがやっとだった。それも、しっくりは来ていない。
「さて」とイアゼルは足を止める。やや遅れてキャロルも立ち止まった。「ここが町の中心。そうだろう?」
町長の邸を前にして、キャロルは頷いた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『キャロル』→マグオートの戦士。気だるげな女性。運河を越えるために砂漠の廃墟の掘削事業に従事していた。詳しくは『第四章 第一話「祈りの系譜」』にて
・『マグオート』→文化的、経済的に成熟した街。王都から流れてきた富豪が多く住む。トムとマーチの故郷。別名『銀嶺膝下』。ラガニアの辺境である地下都市ヘイズと、転送の魔道具によって接続されている。詳しくは『第四章 第一話「祈りの系譜」』にて
・『悦楽卿イアゼル』→黒の血族で、ラガニアの侯爵。洗脳魔術の使い手。詳しくは『幕間「落人の賭け」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『マドレーヌ』→炎の魔術を得意とする、『救世隊』の魔術師。性別は男性だが、女性の格好をし、女性の言葉を使う。シンクレールに惚れていたが、彼に敗北。テレジアの死によって、彼女の教義を伝える旅に出た。現在はマグオートに滞在。詳しくは『317.「マドレーヌ」』にて
・『不滅のローラン』→紫の長髪の優男。騎士団ナンバー6。剣と盾で戦うスタイル。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー③赫灼の赤き竜ー」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『洗脳魔術』→魔術の分類のひとつ。読んで字のごとく、対象を洗脳するための魔術
・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷。一度魔物に滅ぼされている。詳しくは『第二章 第三話「フロントライン」』にて




