Side Carol.「町で誰より臆病な」
※キャロル視点の三人称です。
キャロルは最初から臆病だった。それなのに、なぜ戦士になったのかはシンプルである。強い意志がありさえすれば、己の感情をどこかへ追いやってしまうことなんてありふれている。幼い頃から戦士としての父の姿を見て、彼が亡くなってからは英雄の娘と見做された。そんな彼女が自尊心と、亡き父の意志を継がねばならないという義務感に支えられて生きたのは至極真っ当な経緯だろう。心に潜む臆病者を押さえつける程度には強い意志だった。強迫観念によく似ている。
戦士になってからは、若干臆病な心が勝ってはいたものの、それでも魔物と対峙するのを厭うことはなかった。自分と同じく、英雄としての父を持つ先輩戦士への憧れのおかげだ。性別が同じだった点も大いに手伝っていたことだろう。
『今日の戦いぶりはなんだ! キャロル! お前は軟弱だ!』
何度叱咤されたか分からない。実際、その女戦士に比べれば自分なんてちっぽけな力しか持たなかったのだ。けれども、一度として叱責が反感に繋がりはしなかった。
『はい! 次は全力で戦います!』
キャロルはその女戦士に対してだけは従順だった。ほかの人々には――アグロやセグロに対してさえ――憮然とした態度で臨んでいたというのに。
自分を全身全霊で叱ってくれるひと。それも、町で誰より勇敢な女戦士。叱られるのがむしろ嬉しく感じたものだ。
ずっとこのひとのそばで戦っていたい。能うなら背を預け合って果敢に夜を凌ぎたい。相棒と呼ばれるだけの存在になりたい。
願望ばかりだ。それも、叶いそうにない願望。前線で戦う女戦士が、ほかの戦士連中から嫉視を送られ、陰口を囁かれているのはキャロルも知っていた。女戦士が傍から見て孤立しているのも分かっていた。それでも彼女が女戦士に己の願望ばかりを投影していたのは、臆病さの表れだったのかもしれない。自分の心の始末だけで精一杯だった向きもある。憧れることでようやく戦えるくらい脆弱な精神だったという事実は、一年前に徐々に明らかになっていった。
そう、一年前だ。
町に現れた大型魔物。水晶竜と名付けられたドラゴン。その姿を目にしたとき、キャロルは怖気づいた。それこそ一歩も動けないほどに。
死をはっきりと意識した。
暗転しそうになる彼女の心に光を浴びせたのは、ほかならぬ女戦士である。逃げ惑う仲間たちを鼓舞し、勇猛果敢に戦う姿はまさしく英雄のそれだった。キャロルがようやく足を踏み出したのは水晶竜が弱ってからだったが、それでも己の臆病さに対する小さな勝利ではあったろう。
キャロルも少しばかりの加勢はしたものの、水晶竜はほとんど女戦士ひとりによって討伐された。全身を鉱物に覆われた敵の身体が崩れ落ちる。
しかし、キャロルが快哉を叫ぶことはなかった。女戦士の悲鳴が空気を震わしたのである。彼女の両足は水晶竜の鉱物によって粉砕され、真っ赤な血溜まりを作っていた。このときはっきりと、キャロルの心は暗闇に覆われた。
気が付くと女戦士の姿はなくて、這いずった血の跡が残っているばかり。それは町長の邸へと続いているようだった。
それから数日後、女戦士の訃報が町に伝えられた。英雄の娘もまた、英雄として死んだ。その結末に、キャロルは安っぽさなんて感じない。名誉だと思う。誇りを守ったと思う。彼女の意志を尊重すべきだとも思った。
女戦士のいない、夜の戦場。キャロルは己を鼓舞して戦ったが、何度も何度も潰れた足が脳裏に映え、女戦士の絶叫を幻聴した。アグロとセグロと一緒になって、なんとか剣を握れる始末。憧れの背が消えてしまった夜は、心身ともにキャロルの弱さを曝け出した。
訃報から数日後、町長であるラクローからお達しがあり、キャロルは空き家を与えられた。今は亡き女戦士の暮らしていた家である。それまで住んでいた手狭な家を売り払い、引っ越しを終えたのは夕方頃だ。ひと通り荷物を片付けると、キャロルは猛烈な虚しさを感じた。窓から射す西陽が床板に染み込んでいる。飾り気のない清潔な家。けれども、台所や書斎、寝室には生活の跡が色濃く残っている。底の擦り減ったフライパン。日に焼けた書き物机。よくよく見れば染みのある寝具。生きた名残りがあちこちにあった。女戦士と、その両親の痕跡が。
キャロルは凄まじい寂寥感に襲われ、気が付くと逃げるように夜間防衛に繰り出していた。当時、宿屋暮らしをしていたアグロとセグロを招いて同居することにしたのは、翌日のことである。従兄弟だからという理由もあるが、それ以上に、キャロルが精神的に頼りに出来る相手がその二人だけだったからだ。
『姉さんと暮らせるなんて夢みたいだ』とアグロ。
『良い家だ』とセグロ。
そんな二人を鼻で笑い飛ばし、『いい気なもんだ』と普段の調子で返すことが出来たのは、キャロルが幾ばくかの安心を得たからである。この家にひとりきりで住むのは、とてもじゃないが無理だった。死した英雄たちの残り香に潰されてしまう。かといって町長の意向を無下にするわけにもいかない。亡き英雄の家を与えるのは、キャロルへの期待にほかならないのだから。彼女の実力を正確に知る者なら、あまりにも過大な期待に、却って憐れみを覚えたことだろう。アグロとセグロがそうだったように。
昼夜逆転の生活を続けながら、キャロルは日々頑張った。かつて女戦士が寝起きしていたであろうベッドで横になるときは、決まって丸くなって眠る。枕の一辺をきつく握りしめて、泣きながら眠る。自分に檄を飛ばす女戦士の凛々しい面立ちが瞼の裏に浮かぶ。それは真っ赤な血に染まった両足へと繋がり、豪壮な墓へと遷移した。毎日決まってそれが頭に描かれる。ようやく眠りについても悪夢にうなされた。グールに八つ裂きにされる自分。子鬼に貪らされる自分。ハルピュイアに臓物を引きずり出される自分。キマイラに押し潰される自分。
それからの日々は、夜間防衛に参加したりしなかったりが続いた。厳密には、参加出来なかったのだ。
アグロとセグロには『具合が悪い』と不機嫌に言い捨て、トイレに籠もる。そうして夕食を全部嘔吐して、涙と洟水で顔がぐしゃぐしゃになってしまい、嗚咽が止まらなくなる。従兄弟のうちどちらかは面目を保つために魔物の討伐に参加し、残ったひとりは朝まで玄関に居てくれることも、キャロルは知っていた。否、知ってしまうくらい何度も同じ夜を繰り返した。トイレに籠もった自分が嗚咽混じりに『助けて』と言ってしまっており、それがアグロかセグロの耳に届いているであろうことも、分かっている。
半年ほど前だろうか。『戦士、辞めるか』とセグロが食卓でこぼした。何気ないことのように。アグロは珍しく無言でキャロルを見つめた。
『辞めない』
キャロルの口から溢れたそれは、意思に反した言葉である。現に、口にしてしまったのを後悔したものだ。内心では自分への嘲弄が飛び交っている。
どうせ弱いのに。
英雄になんてなれないのに。
仮病で戦えない日もあるくせに。
本当は逃げ出したくてたまらないのに。
その日の夕食は喉を通らなかった。ろくに食事をしていないのに、しっかり嘔吐したのだから笑えない。
血族が戦争を仕掛けると知ってキャロルは戦慄したが、その日のうちにベアトリスによる保護が持ち出されたことに、心の底から安堵したものだ。そんな自分を恥じ入る気は少しもなかった。みっともないのに、みっともないと思えなかった。
だからこそ、クロエによって安全確保が反故にされて憎悪したものだ。それでも隔日で夜間防衛に参加して、王都から援軍が来てからは毎日夜に繰り出せるようにはなった。といっても、壁際で震えているだけだが。
死は確実に迫っていたし、それを肌で感じてもいた。なのに訪れたのは幸福の使者で。
「良かった」
空中に座した血族――イアゼル様を見つめて、無意識に言葉が流れ出す。
「もう戦わなくていいんだ」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『キャロル』→マグオートの戦士。気だるげな女性。運河を越えるために砂漠の廃墟の掘削事業に従事していた。詳しくは『第四章 第一話「祈りの系譜」』にて
・『水晶竜』→水晶に覆われた身体と退化した翼を有する大型魔物。滅多に出現しない。詳しくは『幕間.「西方の女戦士」』にて
・『ドラゴン』→巨大な有鱗の魔物。滅多に出現しない。詳しくは『幕間「或る少女の足跡」』にて
・『ラクロー』→マグオートの現町長。邸の地下にヘイズと接続した転送魔道具がある。詳しくは『第四章 第一話「祈りの系譜」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『ハルピュイア』→半人半鳥の魔物。狡猾。詳しくは『43.「無感情の面影」』にて
・『キマイラ』→顔は獅子、胴は山羊、尻尾は蛇に似た大型魔物。獰猛で俊敏。詳しくは『100.「吶喊湿原の魔物」』『114.「湿原の主は血を好む」』にて
・『子鬼』→集団で行動する小型魔物。狂暴。詳しくは『29.「夜をゆく鬼」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ベアトリス』→ラガニアの地下都市ヘイズの長であり、バーンズの子孫。黒の血族で、ラガニアの男爵。誠実な男。祖先の恨みを晴らすべく、夜会卿への宣戦布告を目論んでいる。鎧をかたどった貴品『虚喰』により、無形の靄を自在に操ることが可能。ただし、力を使えば使うほど鎧の内部は空洞化する。戦争にて竜人と組んで人間側につくことを誓った。詳しくは『第四章 第一話「祈りの系譜」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『悦楽卿イアゼル』→黒の血族で、ラガニアの侯爵。洗脳魔術の使い手。詳しくは『幕間「落人の賭け」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて




