幕間.「ヘルメス先生の魔術講義 ~二限目~」
クロエが王城を発った朝、アリスは森をうろついていた。血族の男数人と一緒に。
「お」と男のひとりが声を上げる。どうやら目的の品を見つけたらしい。見ると、灌木に実った小さなオレンジ色の果実が目に入った。
アリスは無言でそれらを収穫し、背負った籠に放り込んでいく。男たちと競うように。
今朝、アリスは早速ヘルメスの講義を受けるべく、気怠い身体に鞭を打って彼が寝床にしているドーム状の木を訪れた。そこでうっかり呼び捨てにしてしまった結果、へそを曲げられてしまったのである。曰く『先生と呼ばないなら、キミはもう生徒じゃない。ボクの講義を受ける機会を失ったことを悔いて農業に勤しむといい』。なんとか宥めすかしたものの、午前の講義はフイになってしまった。罰として地上の血族――ガーミールの配下とともに山菜採りをすることになったのである。抗議したものの、そもそも囚われ人でも仲間でもない者の逗留を許し、ましてやタダで魔術を教えてやっているのだから働けとの主張にはアリスも反論出来なかった。血族たちも備蓄の食料は持っているものの、戦争がどれだけ長引くか分からない以上、食料は原則として現地調達することになっているらしい。
かくして、現在に至る。ガーミールの配下たちはアリスの存在を交信魔術で伝え聞いているのだろう、さして困惑もなしに迎え入れられた。内心なんて分かりはしないが、表面上、人間への敵意じみたものは感じられない。むしろ、呆れとも同情ともつかない反応を受けたものである。『ヘルメスさんから魔術を教わってるんだって? よく一日も耐えられたな』なんて。確かに、特別な事情でもなければ誰だって彼の講義にはうんざりしてしまうだろう。逃げ出す気持ちは分かる。
山菜やらキノコやら木の実を採取しながら、頭に浮かぶのはイフェイオンのことである。昨晩ヘルメスがその地の制圧を報せたときには居ても立ってもいられなかったのだが、彼が言うにはイフェイオンの人間も家屋も無事だろうという話だった。ユラン公爵は殺生はもちろん、無闇な破壊も己に禁じているらしい。珍しいくらい正義感が強く、人道を重んじているとのこと。信じがたい話ではあったが、ヘルメスは嘘をつくような男ではない。性格は最低だが。
とはいえ、心配が拭い去れないのも事実である。どれだけ安心材料があろうとも、実際に目で確かめるまでは確実ではない。特別イフェイオンの人々に思い入れがあるわけではないが、師事した女性の住んでいた土地だ。彼女の邸もまだ残っていると聞く。なにより、亡骸もその地に眠っているのだから、無事であってほしいと願うのは自然なことだろう。似合わない感傷であるとは自覚しつつも、師の面影を浮かべてしまう自分がいる。
午前の数時間を費やして、籠は収穫物でいっぱいになった。手柄を手渡した際に、血族から「ありがとう。講義、頑張れよ」なんて声をかけられて、上手い返事を出来なかった自分を情けないとも、当然だとも思ったものだ。本来は敵である相手に背中を押されるのは奇妙な感覚だから。
「おかえり、出来の悪い生徒よ」
「ただいま、ヘルメス先生」
半馬人の隠れ家に戻って開口一番、ヘルメスからの嫌味である。もう慣れた。
「そうそう、いい報せがある。イフェイオンを占拠したユラン公爵は王城に向かったのち、撤退したそうだ」
「そりゃあいい。でも、なんでそんなことを知ってるんだい? ハック坊やの『共益紙』を見たのかい?」
「いいや、見ていない。交信魔術を受信しただけだ」
あっさりとヘルメスは言ってのける。人間側の拠点間で交信魔術による情報共有が為される点はアリスも耳にしていた。しっかりと傍受対策をしていると聞いているが。
「受信って……傍受対策されてなかったのかい?」
「対策? あれが対策? 交信魔術に保護膜を張るのが? あんなもの対策でもなんでもない。グレキランス地方には魔術師未満のゴミカスしかいないのか? 保護膜を剥がせば傍受し放題だ」
「保護膜を剥がす?」
アリスが怪訝な顔を見せると、案の定ヘルメスは呆れを隠すことなく捲し立てた。
「ロジックが分かればあらゆる魔術は解除可能だ。キミは身を持って理解していたと思ったが、もう忘れたのか? 脳の記憶域に致命的な欠陥があるようだな。即刻、手術を勧める。お大事に」
「忘れっぽくて悪かったね、先生。交信魔術が傍受可能なら、血族は別の方法で情報共有してるのかい?」
「ボクは交信魔術すべてが傍受可能とは言っていない。稚拙な保護膜を傍受対策としていることに魔術的知性の底を感じただけだ。ボクらも交信魔術で戦況を共有している。もっとも、保護膜とかいう戦術と呼べない代物ではなく、キチンとした傍受対策を施してある」
それからヘルメスの語った内容は、アリスの理解の範疇を超えていた。分かったふりをして大人しく頷いたものだが。
曰く、『ヘルメス式暗号化交信』。もっとも、夜会卿のもとを離れたことで単に『暗号化交信』と呼ばれているらしい。交信魔術は声を魔力の波に変換して対象へと送り、受信側の魔術師が魔力波を声に戻して交信内容を把握するというロジックである。『ヘルメス式暗号化交信』も原理は変わらない。ただ、声を魔力波に変換する前段階で、交信内容をバラバラに砕いてから、あらかじめ決められた順序で繋ぎ直すらしい。受信側は内容を並べ替えて復元する。交信を傍受したとしても、復元方法が分からなければノイズの塊でしかないという理屈。ほかにもヘルメスは公開魔術鍵だの秘匿魔術鍵だの鍵交換魔術だのと言っていたが、アリスにはさっぱり理解出来なかった。
「……ともかく、血族の交信魔術は受信しても内容が把握出来ないってことだね」
「雑な理解だ。しかし、アリスくんの知能の限界だろう。それでいい。ひとにはひとの得手がある。キミは交信魔術にも隠蔽魔術にも苦手意識があるだろう? 魔弾だとか防御魔術だとか、機構の単純な分かりやすい魔術がお得意だ」
「まあ、否定出来ないねえ」
「要するにキミは、魔力の質量と密度の制御は出来るというわけだ。程度は低いが。それらを成長させるのもいい。しかしおすすめはしない。ただでさえ少ない手札の質を高めたとしても、ロジックは変わらないからだ。ロジックが同じであれば――」
「解除されるってことだろう?」
言葉を遮られたのが気に入らないのか、ヘルメスは口を尖らせて腕組みした。不届きな生徒、とでも思っているのだろう。またへそを曲げて講義をしないと宣言するかと危惧したが、そこまで狭量ではなかったようだ。
「そう、解除される。だから手札を増やすといい。使用可能な魔術の種類が増えれば、多少はマシな戦い方が出来るだろう。キミがまず会得すべきなのは、魔力の操作だ。初日にやらせた魔力察知の延長とでも思えばいい。ああ、口を挟むな。言いたいことは分かる。魔術の操作なら出来ると叫びたいんだろう? 愚問だ。展開済みの魔術の操作が出来るのは当たり前。ボクが言っているのは展開前、魔力の段階での操作だ。隠蔽魔術もこれに類する。メフィストの得意分野だな」
「で、具体的になにが出来るようになるんだい?」
ぐだぐだと意味の分からない説明ばかりで、いい加減アリスも苛立っていた。ヘルメスの言葉を理解出来ない自分の浅さにも腹が立つ。
「キミは結論を急ぎすぎる。というより、目に見える物事しか理解出来ない。魔術師未満の典型だな。キミのゴミカスぶりには呆れて物も言えないが、仮にも生徒だ。不出来だろうと講師として請け負った以上、真摯に対応してやろう」
「そりゃどうも、尊敬するヘルメス先生。で、アタシはなにが出来るようになる?」
ヘルメスが舌で唇を舐めた。目付きが細くなる。笑っているのか小馬鹿にしているのか定かではなかった。
不意に、ヘルメスの背後に漆黒の触手がいくつも立ち上がる。それらは時々刻々と姿を変えた。
「影の魔術。魔力操作のイロハを体得したあかつきには、これを使えるようにする。キミがすでに会得している質量と密度のコントロールとのハイブリッドだ」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。実は防御魔術のエキスパート。王都の歓楽街取締役のルカーニアと永続的な雇用関係を結んだ。ラガニア随一の魔術師ヘルメスに弟子入り。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』『Side Alice.「ならず者と負け戦」』にて
・『ヘルメス』→かつてのラガニアでトップクラスに優秀だった魔術師。ねちっこい性格で、人付き合いの苦手な男。もともと魔術学校で講師をしていたがクビになり、一時期ガーミール公爵に雇用されていたが、彼が零落したことでドラクル公爵に鞍替えした。オブライエンの犯罪的魔術を看破し、彼の右腕と左足を木端微塵にした過去を持つ。血族化して以降は夜会卿に仕えていたが、ニコルによる襲撃以降、四代目となるガーミールに鞍替えした。死を契機に、事前に契約を交わした相手に成り変わることで不老不死を実現する異能を持つ。対象者はヘルメスの記憶と肉体と魔力をコピーした、ヘルメスそのものとなる。その際、相手の持つ魔力も上乗せされる。夜会卿の支配地であるアスターに訪れたルイーザの精神を叩き折って泣かせた過去を持つ。ヨハンの提案により、オブライエン討伐ならびに戦争での人間側の勝利後には、四代目ガーミールの部下とともにグレキランスに残り、アルテゴのワクチン研究をすることに合意。オブライエン討伐を見届けるべく、アリスの片目を介してウィンストンと視覚共有をしている。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『四代目ガーミール』→黒の血族で、ラガニアの公爵。二つ名は『穿孔卿』。代々家督を継ぐ者に、ガーミールの名が襲名される。鎧状の貴品『真摯な門番』を所有。自信家で、侮辱に敏感。そして口が軽い。しかし誠実。戦争には金を稼ぐために参加した。金銭を必要とする理由は、友人であるヘルメスの研究に注ぎ込むため。半馬人の隠れ家を襲撃したが、ヨハンの提示したプランの乗るべく、オブライエン討伐の可能性に賭けて犠牲になった。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『イフェイオン』→窪地の底に広がる豊かな町。王都に近く、特産品の『和音ブドウ』を交易の材としている。『毒食の魔女』によって魔物の被害から逃れているものの、住民一同、彼女を快く思っていない。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』にて
・『赤竜卿ユラン』→黒の血族で、ラガニアの公爵。自称、ウルトラ・ドラゴン卿。情熱的な青年だが、センスは壊滅的。代々、ドラゴンを使役するとされているが実際に目にしたものはおらず、虚言卿や嘘つき公爵と囁かれているが本人は意に介していない。詳しくは『幕間「ウルトラ・ドラゴン卿」』にて
・『半馬人』→上半身が人、下半身が馬の種族。山々を転々として暮らしている。ほかの種族同様、人間を忌避しているが『命知らずのトム』だけは例外で、『半馬人の友』とまで呼ばれている。察知能力に長け、人間に出会う前に逃げることがほとんど。生まれ変わりを信仰しており、気高き死は清い肉体へ転生するとされている。逆に生への執着は魂を穢す行いとして忌避される。詳しくは『436.「邸の半馬人」』『620.「半馬人の友」』にて
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。現在は『灰銀の太陽』のリーダーの役目を終え、半馬人の集落で暮らしている。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『共益紙』→書かれた内容を共有する紙片。水に浸すと文字が消える。詳しくは『625.「灰銀の黎明」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。また、グレキランス一帯の地方を指して用いられる。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『夜会卿ヴラド』→黒の血族の公爵。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『毒色原野』を越えた先に彼の拠点が存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。不死の力を持つ。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』『927.「死に嫌われている」』にて
・『隠蔽魔術』→魔力を包み込むようにして隠す術。術者の能力次第で、隠蔽度合いに変化が出る。相手の察知能力次第で見破られることもある。
・『魔弾』→魔銃によって放たれる弾丸を指す。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』にて
・『メフィスト』→ニコルと魔王に協力していた存在。ヨハンの本名。現在はクロエと契約し、魔王討伐に協力している。初出は『幕間.「魔王の城~尖塔~」』




