幕間.「王様と私たち」
長い夜が明けて、ようやく明日が訪れた。窓から注ぐ朝陽を見て、王城内の誰もがそう感じたことだろう。殊に、矢面に立った者は。
クロエが発っても、デミアンとノックスは玉座の間に留まっていた。私室に戻って身体を休めることも出来たし、現に使用人やら近衛兵やらが訪れては労をねぎらいつつ、そのように促したのだが、どちらも頑として容れなかった。ユランにより負傷――というより気絶した近衛兵が病室へ運ばれて、玉座には王と大臣のみの姿がある。
ノックスは心ここにあらずといった様子で、玉座と廊下を繋ぐ扉を見つめていた。片や大臣は、沈痛な面持ちで自分の手のひらに目を落とす。やがてデミアンは跪くと、深々と頭を垂れた。
「陛下」
このときのデミアンには玉座の赤絨毯しか目に入っていない。ほとんど額を付けんばかりに頭を下げていたのだから。
「どうか、私に然るべき罰をお与えください。いかな状況であろうとも、グレキランスの王を騙るなど大罪です。大臣を辞するのは当然として、牢獄に入れていただいてかまいません。いえ、処刑も――」
「デミアン。顔を上げて」
デミアンの頭の近くから現王――ノックスの声がする。彼は膝を突いて、デミアンの両の肩に触れた。
「いいえ、お見せする顔などございません。私は顔向け出来ないほど――」
「いいから、目を見て話して」
デミアンがゆるゆると顔を持ち上げると、八の字に眉を下げた王の顔が視界いっぱいに広がった。その頬は痛ましく腫れている。大臣が王を殴るなど、あるまじきことだ。どんな事情があろうとも。そのような腕は切り落とすべきである。デミアンは本気でそう感じた。
ただ、目の前の人物は国家の頂点であるとともに、少年でもあるのだ。そのような残酷な提案を突きつけるのは酷だろう。それに、デミアンはノックスに対して、王様と大臣以上の、なにか親密なものを感じ取ってしまっていた。王位継承の日からともに歩むにつれて、そのなにかは段々と醸成されていったように思う。
「……痛かったでしょう」
「ううん、ちっとも痛くなかった」
そんなはずはない。顔の腫れは痛みの証明だ。ただ、ノックスの言葉に嘘はなかった。より大きな痛みを予感すれば、自分の味わった痛みなど過小に思えることは往々にしてある。それこそ、無きも同然に。
「デミアンは代わりに犠牲になろうとしてくれた」
「それは……必要だったからです」
デミアンの目には、ユランという男が意志を曲げる性格とは映らなかった。近衛兵たちをひとりも殺さず、意識を奪うのみに留めたのも、意志ゆえであろう。意固地なまでの正義感がそこにあると知っていたし、だからこそ不正を――誤った歴史を正そうとする姿勢も至極真っ当だった。
真の正しさはあちらにあると知りながら、認めるわけにはいかないジレンマ。それを引き受け、決着を与えるには頂点に君臨する者の血が流れるしかない。それでかたちだけでも場が収まってくれれば御の字。そんな想いで、デミアンは自らの首を差し出したのだ。今でもそれを間違いだとは思わない。
しかし、ノックスとしては違ったらしい。
「もう二度と自分を傷つけようとしないで」
少年の目尻に溜まった涙は、デミアンの胸に痛みを走らせた。そして、ノックスが何度も玉座で自分に呼びかけた叫びが、自然と耳に蘇る。まるで守るように、デミアンの前に立ちはだかった背中も。
小さな背中だった。しかし決して弱くはない背だった。
「もし同じ事態に陥ったなら、私は同じようにいたします。きっと」
「駄目」
ノックスの言葉は一直線にデミアンの胸を射た。
「ならば、私を即刻処罰することです」
「ううん。デミアンは悪いことをしてない。デミアンが僕のためにやってくれたことだから。でも、次は駄目」
「ではせめて、私を殴ってください。力の限り。何度でも」
この自分の願いもまた、不敬にあたるだろうとデミアンは分かっていた。しかし、このままなんのお咎めもなしでは気が済まなかったのも事実である。
ノックスは拳を握り、突き出した。
一秒、二秒と時間が経過していく。やがて痺れを切らしたのか、ノックスはもう片方の手でデミアンの手を取り、同じように拳を突き出させると、そこに自分の拳を軽く触れさせた。
ユランがやってみせたものと同じだ。それが親密さの表明であり、友情の契りに近い意味を持っていることは、説明がなくとも分かった。
ノックスは少し気恥ずかしそうに頬を染め、ぎこちなく笑む。デミアンは王の拳を両手で握ると、さめざめ泣いた。
自分は命懸けでこの子を守るだろう。王と大臣という立場はもちろんある。ただ、それ以上に心が震えて仕方ないのだ。守ることで逆に守られている。この少年にはまだ威厳は備わっていなくとも、真の光がある。それを守るのは名誉なことだ。
玉座の扉が開いたのは、デミアンとノックスが立ち上がってすぐのことだった。右手と右足を包帯でぐるぐる巻きにした近衛兵隊長ジェインと、セロの姿がそこにある。彼らを取り巻く救護担当の兵士の姿も。
「セロ! ジェイン!」
ノックスが思わず名を呼ぶと、セロはにっこり笑った。幸い外傷はないようである。相変わらず無垢な麗しさを湛えていた。
一方、ジェインは松葉杖に半身を預け、深々と頭を下げた。彼が目覚めたのはつい一時間ほど前である。覚醒して最初に感じたのは、生きてしまった、という感覚である。不殺主義のユランと戦い、死に果てることはある意味勝利を意味している、そんな思いがジェインにあったのだ。卑怯な戦法を選び取り、命懸けで戦って、負けて、挙げ句ユランに命を繋ぎ止められた。名ばかりであることは自覚しながらも、王を守る最高戦力と謳われる近衛兵の長がこの有り様である。しかし自嘲はなかった。後悔に似た諦めがある。それとは逆に、克己心が胸の大部分を占めていた。この戦争が終わるまでなにがあろうと王を守る、と。そのためならどんな卑怯も辞さない。近衛兵の栄光に傷が付くとすれば、それは必要な傷だとさえ感じた。
ジェインは救護兵の反対を押し切り、玉座へと向かったのだ。道中、事の次第は聞きおよんでいる。すでに危機は去ったと。しかもそれが、かつて王を射た男の手柄であることも。その場にクロエがいたことも。
彼女ともし再会出来たなら、どんな反応を示してくれるだろう。思い切り背を叩いて、呆れ混じりの、しかし快活な笑みを向けてくれるだろうか。
ジェインはクロエが感情を喪失したことを知らない。ある意味、それで良いのだろう。甘い空想によって保たれる心の強さはある。傷付いた身を起こし、前へと向かわせる力となる。
「陛下」
現王に嬉々としてじゃれつくセロに内心で呆れつつも、ジェインは強いて声を張った。
「我々近衛兵の力不足でご負担をおかけしたこと、深く悔悟しております。力不足は重々承知しておりますが、この戦争が終わるまで、文字通り陛下の盾となることを誓います。戦後、もし命が残っていたなら――」
そこでジェインは言葉を切り、あらためて自分に問うた。
それでいいのか、と。
答えは出ている。
戦争が勝利に終われば、きっと自分は勲章を授けられることだろう。近衛兵を代表して。
そんな資格などない。自分はもう、栄光というまやかしを信じていないのだ。名誉を享受するだけの日々にもうんざりしている。この戦争を生き延びたならば、誰の記憶にも残らないひとりの守護者として生涯を閉じたい。そんな想いがあった。誇りを捨てたわけではない。むしろ、自分にとってその姿はなにより誇らしいものに思えた。
「命が残っていたなら、近衛兵隊長を――」
言葉になる前に、現王はジェインの手を拳のかたちにすると、そこに現王自身の拳を軽く触れさせた。
そしてはにかむ王に、ジェインはあろうことか破顔してしまった。目の奥が熱くなり、熱を帯びた液体が顔を流れてやまない。
現王の仕草の意味は分からなかった。ただ、どうしてかそれを最上級の労いだと感じてしまって。涙が言葉を押し流して。
涙に覆われた不確かな視界のなか、クロエの背を幻視した。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『デミアン』→王都襲撃の日を生き残った小太りな大臣。偏狭な性格だが、献身的な面もある。現在はノックスの側近として働いている。詳しくは『590.「不思議な不思議な食事会」』にて
・『ノックス』→クロエとともに『最果て』を旅した少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。『毒食の魔女』いわく、先天的に魔術を吸収してしまう体質であり、溜め込んだ魔術を抜かなければいずれ命を落とす。王都襲撃ののち、王位を継いだ
・『近衛兵』→グレキランスの王城および王を守護する兵隊
・『赤竜卿ユラン』→黒の血族で、ラガニアの公爵。自称、ウルトラ・ドラゴン卿。情熱的な青年だが、センスは壊滅的。代々、ドラゴンを使役するとされているが実際に目にしたものはおらず、虚言卿や嘘つき公爵と囁かれているが本人は意に介していない。詳しくは『幕間「ウルトラ・ドラゴン卿」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。また、グレキランス一帯の地方を指して用いられる。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ジェイン』→近衛兵副隊長だったが、スヴェルの死により隊長に昇格。尊大な性格。王都が魔物に襲撃された日、前線から逃亡しようとしたところをクロエに叱咤され、グレキランスの守護者として再起した。詳しくは『幕間.「王都グレキランス ~曇天の霹靂~」』にて




