Side Johann.「声なき対話」
※ヨハン視点の三人称です。
赤竜卿ユラン。彼が王城に向かったのは意想外な事態ではあった。イフェイオンに留まっていてくれれば、もっとスムーズに事が運んだろう。しかし、状況は常に変化するものだ。どこでなにが起ころうと不思議ではない。あらゆる物事にはそれなりに経緯があるものだが、ひとは全知ではないのだ。予想外の事態とは、当人の認知圏外から訪れる物事を指している。それに狼狽して思考停止に陥るのは、機知と備えの足りない者。ヨハンはそうではない。いつなにが起ころうと最善の手を打てるよう、可能な限り備え、また、冷静でいられるよう常に心構えをしている。
グレキランス侵攻五日目にして王城に乗り込む羽目になったのは決して喜ばしい流れではない。こんなにも早い段階で、オブライエンの根城とも言える王都に接近する予定はなかったのだから。怪物の口にあえて突っ込んでいくようなものである。そんな状況でも打てる手はあるし、なんなら歯の一本でも土産に持って帰ってやろう。
空中から王都を見下ろした時点で、おぼろげながらオブライエンの算段が見えた。こちらが援護に向かっている旨の交信を事前に送っていようとも、王城への援軍ひとつ見当たらないのは異常だ。喧騒すらないのも。
オブライエンはあえて王城を落とさせようとしている。王城に配属された交信魔術の使い手――ハルキゲニア出身のケインの優秀さはヨハンも知っているが、相手が悪い。王都内の交信はすべてオブライエンの制御下にあるのだろう。交信の傍受はもちろん、交信内容の偽装や交信相手の制限は造作なく出来ると言っていい。援軍の姿がない事実はそれを裏付けている。
だからこそ、玉座に到着し、ノックスや大臣が無事であることに安堵した。ユランによる殺戮を恐れていたわけではない。公爵の、正義に満ちた博愛主義の精神は有名だ。さすがに単身で戦争に参加しているとは思わなかったが。
玉座から漏れ聞こえたユランの頑なな主張は、いささか猪突猛進が過ぎるきらいがあったものの悪い材料ではない。とはいえ、ユランの説得にはオブライエンの目と耳が邪魔だ。
芸は身を助く。ヨハンが手話を習得したのは気まぐれみたいなもので、それが活きる場面などほとんどなかったのだが、何事も無駄なわけではないのだ。今のクロエには馬耳東風だが、この世に無駄なものなどなにひとつないと伝えたい。
かくしてヨハンは、ユランと高速の手話をはじめたのである。途中からクロエも呼んで。
『ここからは手話で話しましょう。誰にも聞かれることなく対話する必要があります。グレキランスに手話の文化はありませんので、傍受の心配は不要です』
『驚いたな。ヨハン、お前も手話が使えるんだな。しかし、手話だろうと俺の主張は変わらねえ』
『分かってます。ユランさんは純粋な方だ。なにがあろうと覆さないでしょうな。それに、この地がラガニア領であることは、少なくとも半分は事実です』
『半分? なにが言いたい? グレキランスはすべてラガニアの領地だ』
『ときにユランさん。貴方はおよそ千年前の出来事をどこまで知っていますか? 具体的には、この世界に魔物と血族と他種族が生まれ、ラガニアに悲劇がもたらされたときのことです』
『お前の知ってる範囲のことなら把握してる。公爵家の者ならば、ラガニア城の奥地に入るのが許されてるからな。記憶の水盆を知ってるか? そこで俺は、ラガニアの悲劇の発端を体験した。悲劇をもたらした奴を含めて、さすがに名前まで覚えちゃいないが』
『ラガニア建国からの歴史を追体験出来る代物ですね。私も部分的に体験させていただきましたから、知っていますよ。体験させられた、と言ったほうが正確でしょうか。私の兄はニコルさんとともに旅をした血族、ジーザスです。彼が私と感覚を共有したのですよ。押し付けるみたいに』
『そうだったのか! どこで縁が繋がってるか分からねえもんだな。ニコルは俺の友達だ。つまりお前は、友達の仲間の弟になるわけだ!』
『る、み、る、み』
『そう怪訝な顔をしないでください。クロエお嬢さんも会話に加わりたい、というのは冗談です。事前に頼んでおいたのですよ。私の真似事をするように。ですからユランさんも、一応は彼女も含めた三人で手話をしている体でお願いします』
『みみみ!』
『お、おう。でもなんでそんな真似を?』
『手話での対話をおこなう理由と同じですよ。どうしても会話を聞かれたくない相手がいるんです。この場に姿こそありませんが、奴は王都の主要な場所には常に目を光らせていることでしょう。もしかすると手話も解読されるかもしれません。ですから、クロエお嬢さんをフェイクとして使ってるわけです』
『そんな厄介な相手がいるんだな。しかし、人間なんだろう? ならお前の味方じゃねえか』
『いいえ、敵です。しかし、味方のふりをしなければならない』
『誰なんだ、そいつは』
『ねこ!』
『クロエお嬢さんのおっしゃる猫じゃありませんので、誤解なきように』
『だろうな。ちょっと笑いそうになった』
『笑いは厳禁でお願いします。なるべく表情も動かさないでいただきたい。顔色ひとつで情報の多寡が知れてしまいますから』
『ねこかぶり』
『失敬だな、クロエ。俺は一度だって猫を被ったことなんてない。ああ、そうか、相手にしなくていいんだっけか』
『ええ。クロエお嬢さんは出鱈目に手話を使ってるだけなので、おかまいなく。私が危険視している人物の名ですが、城にいる間は決して口に出さないでくださいね』
『承知した』
『オブライエン。それが奴の名です』
『最近耳にした名だ。イフェイオンの守護者を殺した奴だと。血族を憎んでるって聞いたな』
『でしょうね。憎んでいるというのも、彼の過去を鑑みれば自然です。邪魔だと思っている、と表現したほうが正確ですが』
『そのオブライエンって奴は一旦いいとして、グレキランスの話に戻ろう。お前が正しい歴史を知ってるなら、グレキランスが国じゃねえって分かるだろ? グレキランスから来た男が、ラガニア城の認可なしに勝手に独立宣言したんだ。そんなもん国とは呼べねえ』
『ところが、そうもいきません。諸悪の根源とでも言うべきその男は、グレキランスの人々の歴史認識を改竄したのです。魔物は有史以来存在した天敵だと。血族は魔物側の存在として語られ、イブ女王は魔王と呼ばれています。なんでも、ラガニアは隣国であり、魔物に滅ぼされた結果、血族の統べる地になったと』
『だから、間違いだってお前も分かってるだろ!? なんで認めない!?』
『にゃ、ん』
『千年。それだけの時間が経ってしまった。過去の過ちを認めることは出来るでしょうが、国であること自体を取り下げるには、いささか遅すぎる。それこそ無法地帯になってしまうでしょうな』
『でも、不正は不正だろ』
『ええ。報いがあって然るべきでしょう。しかし、グレキランスの人々にはなんの罪もない。血族も魔物も、他種族も無論、罪などありません』
『ああ。民衆に罪はねえよ』
『私はね、こう思うんですよ。然るべき罪を清算したのち、そして誤った歴史を正したうえで、ラガニアが正式にグレキランスを国家として承認すべきだと。長い道のりでしょうね。何年、何十年かかるか分かったものじゃない』
『認められるはずがねえだろ。第一、罪の清算なんて出来るほど軽いもんじゃねえ』
『そう。途轍もなく重い罪です。ラガニアがグレキランスを承認する未来も現実的ではない。その点は認めます。となると』
『あいしてる』
『なんで急に告白してきたんだ、クロエは』
『相手にしなくていいです。続けますよ。ユランさんの主張は正しい。しかし、国家を解体するのは無罪の人々を徒に裁くようなもので、グレキランスとしては承服出来ないわけです。正しい歴史が人々に浸透したとしても、この地が国であることは変えるべきではない』
『なら平行線だな。答えは出ない。俺は自分の主張を譲るつもりなんてねえ』
『そこで、ひとつ提案です。罪の清算とも直結する話です。独立宣言をおこなった張本人、初代グレキランス王の双子の弟に直接話をつけるというのはいかがでしょう?』
『なに言ってんだ。もうとっくに死んでるだろ』
『いいえ。彼は不死者です。今もグレキランスの地下深くで、王都一帯を裏で牛耳っていますよ。ラガニアに悲劇を撒き散らし、この世に魔物を生み出した元凶は今でも生きています。付け加えると、我々はこの戦争に乗じて彼を討ち取るつもりです。人間にとっても、彼は決して歓迎出来ない存在ですから』
『要するに、俺にそいつの討伐部隊に加われと?』
『ええ。話が早くて助かります』
『俺は即断即決だからな。でも、嘘じゃねえよな?』
『誓います。嘘ではありません』
『なら、いい。確かに千年後の王と、独立宣言をしやがった野郎とでは、話す価値が全然違ってくるからな。で、そいつの名前は?』
『オブライエン』
『……良い縁も悪い縁も、どっかで繋がってんだな。分かった。で、俺は具体的にどうすりゃいい?』
『まずは討伐部隊に合流してもらいます。そこまでは我々が案内しますので、ご心配なく。それとは別に、ひとつ大事なことをお願いしたい』
『なんだ?』
『ユラン公爵。貴方にこんなお願いをするのは実に心苦しいのですが、グレキランスを国家として承認し、戦争で人間の味方をすると、嘘をついていただきたいのです。先ほどお伝えした通り、この城にはオブライエンの目と耳があります。私が手話で説得した結果、納得して味方になったと思わせなければ、間違いなくこの場で殺されます。ユランさんも、我々も』
『悪いが嘘はつけねえ。俺は嘘をついたことがねえんだ』
『貴方のポリシーは理解します。ご立派だと思いますよ。心から。それでもオブライエンと対面したいのなら、この場を乗り切る必要があるんです。相手がどれほど狡猾で残酷かは、ユランさんも追体験したでしょう? この戦争だけが、奴を討ち取る唯一のチャンスなんです。ご自身のポリシーを曲げることが、正義の遂行に必要な第一条件だとご理解ください』
『それでも――』
『今玉座にいるのは偽物の王で、一介の大臣です。本物の王はあの少年ですよ。大臣は危機を乗り切るために、命を賭して嘘をついたわけです。貴方は大臣の提案について、不誠実だと感じましたか? 正義のために必要な嘘が存在することを、彼が証明したのではないでしょうか』
『わたし、は、みんな、あいしてる』
『……クロエ。俺もみんなを愛してる。そうだ。愛してるんだ。自分なんかより、ずっと』
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『赤竜卿ユラン』→黒の血族で、ラガニアの公爵。自称、ウルトラ・ドラゴン卿。情熱的な青年だが、センスは壊滅的。代々、ドラゴンを使役するとされているが実際に目にしたものはおらず、虚言卿や嘘つき公爵と囁かれているが本人は意に介していない。詳しくは『幕間「ウルトラ・ドラゴン卿」』にて
・『イフェイオン』→窪地の底に広がる豊かな町。王都に近く、特産品の『和音ブドウ』を交易の材としている。『毒食の魔女』によって魔物の被害から逃れているものの、住民一同、彼女を快く思っていない。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。また、グレキランス一帯の地方を指して用いられる。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。外界で活動しているのは彼の分身『二重歩行者』であり、本体は一切の魔術的干渉を受けない檻に閉じ込められている。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『ケロくん』→ハルキゲニアで魔術の講師をしているカエル頭の魔術師。正式名称はケラケルケイン・ケロケイン。本名はアーヴィン。詳細は『第三話「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」』『幕間.「ハルキゲニア~時計塔最上階~」』参照
・『ノックス』→クロエとともに『最果て』を旅した少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。『毒食の魔女』いわく、先天的に魔術を吸収してしまう体質であり、溜め込んだ魔術を抜かなければいずれ命を落とす。王都襲撃ののち、王位を継いだ
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『記憶の水盆』→過去を追体験出来る魔道具。魔王の城の奥にある。初出は『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『王城』~」』
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者だが、実は魔王と手を組んでいる。黒の血族だけの世界を作り上げることが目的。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐。詳しくは『875.「勇者の描く世界」』にて
・『ジーザス』→勇者一行のひとりであり、ヨハンの兄。『夜会卿』に仕えている。『黒の血族』と人間のハーフ。
・『イブ』→魔王の名。ラガニア王の三女だった。ラガニア王直系の生き残りは彼女のみ。肉体は成熟した女性だが、精神は幼い状態のまま固定されてしまっている。魔物を統率する力を有する。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて




