Side Demian.「仮初の王」
※デミアン視点の三人称です。
一ヶ月前、『煙宿』をお忍びで訪れたデミアンと現王は、クロエの語った歴史――ラルフの記憶に関し、或る決め事をしていた。先々代の王を射抜き、王都に混乱をもたらした張本人であるヨハンから持ち出された事柄である。
ラルフの記憶の一切を秘匿すること。口に出すことはもちろん、素振りさえ見せてはいけない。その理由が明白だったからこそ、デミアンはなんの異論も唱えなかった。現王も同様だ。
ラルフの記憶が真実だとすれば、途方もない過去――グレキランスが建国された時点で、王都はオブライエンの支配下にある。そして諸悪の根源とも言える彼の耳目は、王都中に張りめぐらされていると考えるのが妥当だ。常識で推し量れるような男ではない。
これまでの日々で、デミアンは完璧に以前の自分を演じきっていた。現王もそうだろう。内心の格闘はあれど、これまで身体に染み付いた常識通りに振る舞えば良いだけなのだから。幸いなことに『煙宿』からの帰還後、オブライエンとも、彼の秘書であるジュリアとも、対面する機会はなかった。
つまるところ、秘密を守らねばならない意味において、危機的な状況は訪れなかったのである。
今日、この瞬間まで。
ユランが二人に突きつけたのは真実の歴史である。それが真実だと知りながら、否定しなければならない。
口火を切ったのはデミアンである。
「なにを馬鹿なことを言っている。グレキランスは王の統べる国家だ。ラガニアの領地だった過去こそ、どこにもない」
少なからず正直者で誠実に映るユランを相手に、堂々と反論することが出来たのは、ひとえに過去の自分の狭量さにあるとデミアンは自覚していた。ラルフの記憶を聞かされ、いかに自分の視野が狭かったかを思い知ったものだが、慣れ親しんだ態度を再現するのはそう困難なことではない。ただ、胸の痛みはあった。それ以上に、秘密を守り抜きながらもこの場を収めねばならない義務感が強い。
ユランは憐れむような顔を浮かべてデミアンを見下ろした。真実を一切知らず、偽りの歴史を盲目的に信奉しているとでも思っているのだろう。
やがてユランは首を横に振った。
「お前と議論するつもりはねえよ。王を名乗る奴はどこにいるんだ? 俺はそいつと話をつける。それとも、お前が王なのか?」
話をつける。それの意味するところに、残酷な未来を視てしまうのは無理もないことだろう。いかに言葉を弄そうとも平行線であることは変わらないのだから、どこかで血が流れるに違いない。そしてそれは、ユランの身の内に流れるものではない。
デミアンが口を開く前に、彼の隣を小さな影がよぎった。
「僕が王様だ」
現王の声にはなんの揺らぎもない。ユランを見上げるその眼差しにも、真摯な光が灯っている。
「お前が王? その格好で?」
「今は平服を着てる。もし敵が来たときに、王様だとバレないように」
現王の言葉に偽りはない。デミアンもまた、質素な装いをしていた。わざわざ出自を示すような衣類や装飾品は、敵に相対した際のデメリットとなる。壁内の兵士の士気高揚や市井の人々への演説の際にのみ、王と大臣に相応しい格好をする日々を送っていたのだ。
「お前は子供じゃないか。仮に今の王がお前だとしても、先代の王だとか、もっと大人の王族はいるだろ。そいつらをここに集めてくれ」
「先王は亡くなった。王族は僕以外に誰もいない」
王族というのが血を意味するなら、現王の言葉に嘘はない。先王――すなわち先々代の王の息子がこの世にいないのも事実だ。
ユランは困ったように頭を掻き、天井を仰ぎ、それから現王を見下ろした。表情は真剣そのものに変わっており、瞳は熱を帯びている。
「分かった。お前が王か。それじゃ、早く認めてくれ。この地がラガニア領だと。それで全部丸く収まる。グレキランス地方に入ってるほかの貴族は、俺が説得して帰らせる。それでいいだろ?」
正しい歴史を認めるだけで戦争が終わる。ユランはそう思っているらしい。
これは、そんな単純な問題ではないのだ。デミアンはそれについてよく承知している。現王もそうだろう。
真の歴史を布告することで王都ならびにグレキランス一帯は混乱の渦に陥る。しかしそれは小事だ。オブライエン討伐と天秤にかけるなら。
少なくとも、デミアンはそのように考えていた。ゆえに、ユランの提案を容れるなど出来ない相談である。
ただ、と現王の横顔を見やる。
この若き王にとって、真実を嘘ではねつけるのがどれだけ困難なことだろう。勇敢で、正直で、賢く、そして優しい。優しさは、繊細さと言い換えられる。
「ユラン」
現王が血族の名を呼ぶ。張りのある、堂々とした声で。演説で鍛えられたせいもあるだろうが、おそらくほかの理由もあるようにデミアンには思えた。
「グレキランスは国家だ。僕がそれを覆すことは、絶対にない」
言葉の途中で、ノックスの目から透明な涙が一筋だけ流れた。落涙には至らず、肌に染みて消えるのをデミアンは確かに見た。それなのに、現王の言葉に涙の気配は微塵もない。
強いひとだ。本当なら、ユランの手を取って労りたいくらいの気持ちだろうに。誠実さに誠実さで報いたいと思っているだろうに。悲劇を経験し、真実を訴える男を、嘘と知りながら拒絶するのがいかに苦しいことか。
涙は雄弁だ。若き王のすべてを象徴している。
現王の涙を見たからか、ユランは一瞬驚いた目をしたものの、すぐに怪訝な顔になった。
「お前が認めなければ、戦争は終わらない。多くの人々の血が流れる。そんなこと望んじゃいないだろ。想像してくれ。戦場の人々の痛みを。……もう一度問う。今ここで歴史の間違いを認めるか、それともこのまま……他人を苦しませてでも、偽物の歴史を主張し続けるか」
「僕は――」
デミアンは現王の肩に手を置き、黙らせた。いかにも疲れ切った様子で。
「もうよい、ノックス。下がれ」
言って、強引にユランの前からどかそうとしたが、案外強く抵抗されたので、デミアンは踵を返した。そして玉座に腰を据える。「ユラン。私がグレキランスの王だ。そこの子供は単なる使用人でしかない」
振り返った現王の顔は驚愕一色に染まっていた。しかし、決して愚鈍な子でないのはデミアンもよく知っていたので、言葉を続ける。
「そいつは私が拾った孤児だ。グレキランスの辺境に外遊した際に出会い、気まぐれで城に招いてやったんだが……忠義に篤い子でな。見ての通り、先ほどは私の身代わりになろうとまでしてくれた。ノックス。お前はもうお役御免だ。私を想っての行為だろうが、王に成り代わるなど侮蔑も甚だしい。下がれ」
デミアンは監獄の檻を思い浮かべて、すらすらと、しかし厳粛に言い切った。現王を教育しながら、同時に自分の教養も高めたのが功を奏した、と内心で安堵しつつ。
デミアンの意図を多少なりとも読み取ったのだろう、現王は「デミアン!」と叫んだ。自分の代わりに一切を背負うなんて、認めがたいのだろう。
一方、ユランは得心がいったらしい。短く頷き、現王をやんわりと押しのけて玉座へと歩んだ。約二メートルの距離を置いて、デミアンとユランは向かい合う。
「やっぱり、お前が王か。どうりで変だと思ったんだ。あんな年端もいかねえ子供が王だなんて――」
「王は僕だ! デミアンは大臣で――」
「ノックス。話の邪魔だ。黙っていろ。忠誠心も度が過ぎれば罪となるぞ」
デミアンの心に自嘲はなかった。今まさに現王へ言葉の刃を振り下ろしたことへの申し訳なさがある。こうしなければならないという責任感も。
「それで、子供を盾にした王に問う。歴史を正すのか、正さないのか」
「デミアン!」
「先ほど言った通りだ。グレキランスがラガニア領だった事実などどこにもない。グレキランスは由緒ある国家であり、多くの民がいる。ユラン。お前の信じている歴史こそ誤りだ」
「デミアン!!」
「なら、このまま戦争を続けんのか? それでいいと思ってんのか?」
「デミアン!!!」
「黙れノックス! ……そも、グレキランスに侵攻したのは貴様らだろうが。お前の信じる歴史、つまりラガニア領だったと認めさせることで、グレキランス全土を掌握するつもりなのだろう? 馬鹿げた提案だ」
現王はユランの斜め後ろで、随分と複雑な表情をしている。薔薇の茎を両手でぎゅっと掴んで。
そんな姿を見せられると、思い知らされてやまない。現王のように誠実さの涙を流すことなく、偽りを流暢に突きつける自分に嫌悪の情ひとつ抱けない歪みを。
陛下。貴方はどうか、純粋なままでいてください。そう願った。
「……王よ。偽りの王よ。お前は俺たちを甘くみている。グレキランス地方に入った貴族は、一帯を血の海に変えるぞ。この、壁に囲まれた街もそうなる。お前はお前自身の傲慢さから、なんの罪もない人々を道連れにしてもいいと思ってるんだな?」
ユランの形相は鬼気迫るものがあった。それでいい。そうでなければ、自分が仮初の王を演じている意味がない。
「どうしても認めさせたいなら、私の首を土産にラガニアへ帰還するといい。それを以て此度の戦争を終結としようではないか。統治者の首を刎ねれば、グレキランス国は瓦解する。正真正銘、私が王家の最後のひとりだからな。ほかの者が王位を継承し、国を存続させることはない。必ずや内部崩壊する」
言葉の直後、現王がユランとの間に割って入り、デミアンを庇うように両腕を大きく広げた。「そんなの、絶対に駄目だ」
デミアンは立ち上がり、自分はなんて幸せ者なのだろう、と独白した。このようなかたちで王から庇護される大臣など聞いたことがない。王の厚意を無下にする大臣というのも前代未聞だろう。自分たちは二人とも、異例づくしだ。
デミアンはノックスの肩を乱暴に引き、殴り飛ばした。少年は床を転げ、ほとんど絶望的な顔でこちらを見上げていることだろう。それに頓着する気はない。デミアンはただただ、ユランと視線を交わした。
「私の首と引き換えに、血族全員の撤退を要求する。これならば、もう無辜の血が流れることはない。ただ、心せよ。グレキランスはラガニアの支配地では決してない。王の死により、国が終わるだけだ」
ユランはどうしてか、唇を噛んでいた。我ながら悪くない提案のはずなのだが、なにを躊躇しているのだろう。まさか、王にまで不殺を貫くつもりではあるまい。
もうひと押し、言葉を加えてやろう。それでこの正義に満ちた男は提案を受け入れるはずだ。
デミアンが息を吸うのと同時に、玉座と廊下とを繋ぐ扉が開け放たれた。現れたのは三人の姿と、一体の他種族――竜人である。
そのなかのひとりは、デミアンに視線を固定し、拍手を送った。
「お見事です、王様。しかし命はもっと大事に扱うべきですなあ」
血族と人間のハーフ。ヨハンは薄笑いを浮かべた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『デミアン』→王都襲撃の日を生き残った小太りな大臣。偏狭な性格だが、献身的な面もある。現在はノックスの側近として働いている。詳しくは『590.「不思議な不思議な食事会」』にて
・『煙宿』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。ゆえに人探しはご法度。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」「煙宿~②不夜城~」』にて
・『ラルフ』→かつてオブライエンの家庭教師をした男。ラガニアで起きた悲劇の一部始終を『追体験可能な懺悔録』というかたちで遺した。『気化アルテゴ』の影響で小人となり、『岩蜘蛛の巣』にコミュニティを形成するに至った。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。また、グレキランス一帯の地方を指して用いられる。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。外界で活動しているのは彼の分身『二重歩行者』であり、本体は一切の魔術的干渉を受けない檻に閉じ込められている。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ジュリア』→魔具制御局のメンバー。オブライエンの部下。オブライエンの実験による最初の不死者。彼を心の底から愛している。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築されている。詳しくは『第二章 第八話「騒乱の都」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『赤竜卿ユラン』→黒の血族で、ラガニアの公爵。自称、ウルトラ・ドラゴン卿。情熱的な青年だが、センスは壊滅的。代々、ドラゴンを使役するとされているが実際に目にしたものはおらず、虚言卿や嘘つき公爵と囁かれているが本人は意に介していない。詳しくは『幕間「ウルトラ・ドラゴン卿」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ノックス』→クロエとともに『最果て』を旅した少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。『毒食の魔女』いわく、先天的に魔術を吸収してしまう体質であり、溜め込んだ魔術を抜かなければいずれ命を落とす。王都襲撃ののち、王位を継いだ
・『竜人』→全身を鱗に覆われた種族。蛇に似た目と、鋭い爪を持つ。王都の遥か西にある山脈に生息している。弱者には決して従わない。鱗の色で階級が二分されており、『純鱗』は気高く、『半鱗』は賤しい存在とされている。詳しくは『626.「血族と獣人」』『幕間.「青年魔術師の日記」』にて