129.「ブラックラビットかく騙りき」
暗がりの先から『黒兎』のクツクツと抑え気味に笑う声が漏れ聞こえてきた。
「あれだけデカい口を叩いてたのにさあ、簡単に倒れちゃうんだもん。くだらないよねえ……サーベルのオネーサンは魔銃のオネーサンよりは強そうだけど、甘々だよね」
「仲間を庇うことのなにが甘いのかしら」
「どうせ死ぬ奴を守って傷を作るだなんて馬鹿らしいってことだよ。何度も言わせないでよね。サーベルのオネーサンも馬鹿なんだねえ」
『黒兎』は算段を持って挑発しているわけではないのだろう。性悪が滲みついて、絶えず口から嘲笑が漏れ出ているだけのことだ。
確かに厄介な攻撃手段を持っているようだが、彼は敗北や絶望を知ったことがあるのだろうか。本当の死線を潜ったことは。あるいは、あまりに苛酷な場面でなにかを失ったことは。
「ねえ、あなたは負けたことってある?」
「はぁ? ないに決まってるじゃんか! 負けるような戦いに挑むこと自体、馬鹿のすることだよ!」
「じゃあ、今日は貴重な経験が出来るわね」
片手のサーベルは軽く、いつでも振るうことが出来る。躾の出来ていないお子様には、厳しくとも教育が必要だ。
「ふん! オネーサンは簡単に壊れたりしないでね!?」
「あなたもね」
身体を沈み込ませ、足に力を込める。『黒兎』は八の字運動を始めた。
わたしが駆けると同時に、八本のナイフが連射される。数えることは出来ないし、する必要もない。一直線に飛び込んで、全て弾く。そして弾いた分のナイフから追尾を受ける前に奴を屈服させる。
スピードを緩めず、サーベルを振るった。一本一本、しっかりと見えている。奴の攻撃は所詮直線的な軌道でしかない。数だけが問題だが、このサーベルの軽さなら全てを捌くのも大仕事ではない。
目と右腕に集中力を注ぐ。油断すれば昂った神経の動力で過剰にサーベルを振ってしまいそうになる。意識を絶えずコントロールし、必要最低限の斬撃のみで奴の攻撃を弾きつつ進む。
あと数メートルの内に、射出されるナイフの数は減少するだろう。なぜなら――。
案の定、連射数が減る。そして視界の先で、『黒兎』が逃げつつも攻撃を続けるのが見えた。あの八の字運動さえ封じてしまえば数は格段に減る。その分、こちらもスピードを上げて接近することが可能だ。
『黒兎』まで残り二メートル強、といったところだろうか。
不意に、奴が指に挟んだナイフを七本放って振り向いた。その手には魔力写刀が一本きり。八本あろうと無意味であることに気付いたのか、あるいは――。
「擾乱飛翔関係!」
直後、奴が手にしたナイフから魔力が消える。それと同時に、床全体が眩いほどの魔力を帯びた。いや、正確には違う。奴が放ち、魔力を失って床に転がっていたそれらが一斉に魔力を取り戻したのだ。
呼吸を止め、そのなにかに備える。しかし、一瞬で構えを取るにはそれらは早過ぎて、そして多過ぎた。
落ちた無数のナイフが一瞬の内に直線運動をし、わたしはかわすことも弾くことも出来なかった。
心臓が強く速く鼓動している。
生きている。全身には熱い切り傷と、刺さったナイフの痛みがあった。しかし、生きてさえいれば戦える。追尾弾も消えていた。すると、奴が仕掛けたのは死んだはずのナイフに新たな推進力を与える技なのだろう。そこに追尾能力まで付加させることは出来ないようだ。
『黒兎』の手にした魔力写刀に魔力が戻る。
もうなにもさせない。終わりにしてやる。
「ルースレ――」
わたしは一瞬で『黒兎』まで距離を詰め、その腹に膝を打ち込んだ。その衝撃で、奴の言葉は途中で掻き消えた。
その小さな身体が吹き飛び、床を転げる。
「ル――」
技名を叫ばないと攻撃出来ないのだろうか?
立ち上がり、発声しかけた『黒兎』は、目前でサーベルを振りかぶるわたしの姿を捉えただろうか。
そして、自分がこれから嫌というほど味わう斬撃の痛みを想像しただろうか。
どちらでもいい。わたしは神経を研ぎ澄まして剣を振るうだけだ。
赤い花弁が散る。暗がりでもそれは鮮やかに映えた。
奴の全身を、というよりは肌の表面のみ傷つけるように幾度も斬撃を放った。一瞬の内に肌を刻まれる気分はどうだろうか。いや、頭を回転させる暇もないか。
血飛沫が斬撃によって散らされ、その細かな粒が風圧で後方に飛び去る。
――刃の嵐。さっきまであなたがやっていたことと同じだ。
斬撃を止めて身を翻し、血を流して呆然と立ち尽くす『黒兎』の腹に思い切り回し蹴りを叩き込んだ。なぜか違和感のある感触が広がり、しかし奴の身体はステンドグラスのところまで吹き飛んでいった。軽い身体だ。
もはや雌雄は決している。わたしはゆっくりと奴のほうへ歩みを進めた。
それにしても、先ほど蹴撃を放った際の違和感はなんだろう。腹に帷子でも仕込んでいるのだろうか。そのくらいの堅さだった。
「どうかしら。反省した?」
一歩一歩進みつつ、呼びかける。こちらが負った傷は決して浅くなく、歩くたびに爪先から全身へと痛みが伝播していく。全く、厄介な攻撃だった。
『黒兎』は俯いて消沈しているようだった。一メートルほどの距離を置いてそれを見下ろす。
さすがに良心が痛んだ。我ながら大人げない。
振り向くと、アリスは少し離れた場所で胡坐をかいて座っていた。座れるくらいには恢復したのか、あるいはそうすることが出来るくらいの傷で済んだのだろう。
不意に、しゃくりあげる声が足元でした。
泣いてる。
『黒兎』は顔を覆って泣いていた。
「痛いよお……怖いよお……」
ずきん、と心に熱い痛みが走った。悪趣味な魔具使いであることが確かであるように、彼が子供だということも事実なのだ。それも、ノックスとそれほど変わらないくらいの幼さである。
いかに敵といえども、子供を徹底的に痛めつけた事実は変わらない。
なにか声をかけなければ、と彼の傍に寄ってしゃがみ込んだ。
瞬間、彼はわたしの胸へと飛び込んできた。
優しく抱擁してやれる状況ではない。胸に焼けるような痛みが広がる。
『黒兎』はクツクツと笑った。「ハハハハ! ……馬ァ鹿! どんだけ甘いんだよ!」
彼がわたしの胸から引き抜いた魔力写刀は血に濡れていた。『黒兎』が追撃のために魔力写刀を振り上げる。
その刹那――彼の身体が垂直に浮かび上がった。
いつの間に接近したのか、アリスが奴の腹を蹴りあげたのだ。それも、容赦ない強さで。
「貸し借りなしだよ、お嬢ちゃん」
言って、アリスは両手に魔銃を構えた。そして連続で発砲音が響く。
魔弾は宙に浮いた奴の身体に次々と直撃し、十発目でその身体はステンドグラスに打ち付けられた。そして、最後の十一発目で豪奢なグラスに亀裂が入る。
アリスの魔銃は弐丁合わせて最大十二発のはず。最初に一発消費したので、これで全弾撃ち尽くしたことになる。
が、それで終わる彼女ではなかった。アリスはぐっ、としゃがみ込み、空中高く飛び上がった――『黒兎』の高さまで。
そして身を翻し、その顔面に痛烈な蹴りを放つ。ガラスの割れる鋭い音と共に、『黒兎』の身体は外へ――つまり落死の免れない空中へと投げ出された。
「あの世でたっぷり反省しな」
着地と共にアリスがそう言ったのがかろうじて聴き取れた。
雨が吹きつけて来る。アリスは肩で息をしながら、『黒兎』の落ちていった暗闇へ目を注いでいた。
「お嬢ちゃん」とアリスは呟く。「残酷だなんて言わないことだね。あたしはあんたほど優しくないし、敵だと思えばどんな奴だろうと仕留めるまで追い詰めるさ」
それを最後の言葉に、彼女はばったりと倒れ込んだ。
自分自身の甘さと、アリスの冷酷さ。どちらが正しいのかは分からないが、彼女に助けられたことは事実である。
雨はわたしたちの血を洗っていった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『魔銃』→魔力を籠めた弾丸を発射出来る魔具。通常、魔術師は魔具を使用出来ないが、魔銃(大別すると魔砲)は例外的使用出来る。アリスが所有。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』にて




