幕間.「ヘルメス先生の魔術講義 ~一限目~」
穏やかな陽射しの注ぐ森の一隅――そんな空間で、アリスは胡座をかいて瞑目していた。背筋を伸ばし、手指を腹部で緩く触れさせて。寝ているわけではない。
半馬人の隠れ家では様々な音が鳴っている。半馬人たちの話し声や、やわい苔を踏む音、病葉の落ちる音。それら一切を意識から排除し、瞼の裏の闇さえ意識しない。
五感を閉ざし、代わりに全身すべてで魔力を感じ取れ。それがヘルメスの課した指示である。
『貴族を相手にしたいなら、魔力の察知は必須だ。キミは魔力を五感のいずれかで感じているだろう? 目か? はいはい、視覚ね。それじゃ、死角からの一撃で終わり。気付いたら致命傷。視覚で魔力を捉えるなんて幼児の発想だ。キミの目が全方位を補足出来るとでも? 視覚による魔力の察知はもっとも低級だと理解したか? 次に程度が低いのは嗅覚、次は聴覚、次は触覚ね。味覚で魔力を感じるなんて論外。そもそも、五感に依存している時点で魔力察知としては下の下だから。じゃあどうすればいいのか? はぁ? キミは自分でものを考える能力が欠けているのか? いかにも、ボクはキミの講師を請け負った。で? 聞けばなんでも答えるのが講師だとでも? あのねえ、ボクはキミのママじゃないんだ』
とまあ、散々な罵倒の末、ヘルメスはようやく五感以外での魔力察知方法を教えてくれたのである。
魔力による魔力の感知。薄く広く魔力を拡散させて、魔力の反響によって察知する。大気中に漂う微量な魔力程度に、身から出る魔力を制御出来ればベスト。
アリスがイメージしたのは霧だ。一定範囲にのみ蟠る霧。そこに足を踏み入れた魔力はすべて補足する。魔術はもちろん、まだ魔術として結実していないものも。生体固有の魔力さえも。
霧を通過して訪れる魔力の塊――魔球を感知した。額にぶつかる軌道だったので首を傾げるように回避したのだが、魔球は鋭角に曲がってアリスの額に直撃した。
「っ!」
思わず目を開けると、五メートル先のヘルメスがちょうど欠伸をするのが見えた。相変わらず顔だけはいい。それ以外は全部最低だ。
「今ので」欠伸の終わり際、ヘルメスは退屈そうに言った。「キミは死んだ」
「途中で魔球の軌道を変えるのはルール違反じゃないかい? ヘルメス先生」
するとヘルメスは心底呆れた様子で「はぁ?」と煽ってきた。
「魔術の制御くらい誰でもする。もっとも程度の低い魔術師でさえ。相手が回避動作に入った時点で軌道を変えるのは当然。それも含めて察知出来なければ意味がない。はい、落第ね。もう帰っていいよ。さよならアリスくん。キミは魔術師には向いてない。畑仕事でもするといい」
罵倒は聞き流し、「もう一度」と呟いてアリスは目を閉じた。いちいちヘルメスの言葉を気にしていたら集中なんて出来やしない。
五感の情報を意識的に消していき、魔力を拡散させる。今の自分は半径三メートル程度が限界だ。話にならない。そんなことは自覚している。少しずつ範囲を広げていけばいいだけだ。それに、戦場においては五感を十全に使いながら、魔力の拡散にも意識を割かねばならない。難易度は跳ね上がる。
ヘルメスの魔球を、直撃寸前で避けた。
「動きが大きい」
彼の指摘は的確だ。確かに、無駄がある。
「まだ動作に無駄がある。ちゃんと魔力を読め」
前方から次々と訪れる魔球を、最低限の動きで回避していく。いずれも額を狙ったものばかりだ。
だから、真後ろで五発の魔球が様々な軌道で迫るのを感じたとき、思わず舌打ちしてしまった。まったく、いい性格をしている。でも、こうでなきゃ修行の意味がない。
目を閉じたまま立ち上がり、五発すべて、直撃寸前で回避してみせた。身体を動かすと魔力の察知範囲が縮小するのが分かる。己の無力さが忌々しい。
パチン、と手を打つ音がした。
「はい、目を開けたまえ」
瞼を開けるや否や、アリスは歯噛みした。眼前に矢を模した魔術が、さながら射抜く寸前で制止していたのである。よく見ると、身体のあちこちに矢がある。いずれも肌から数センチの距離に。
「これはもっともレベルの低い隠蔽をかけた魔術だ。魔力の察知はなんのためにある? 視界を補うため? 違う。五感では得られない魔力を感じ取るためだ。最初に言わなかったか? 隠蔽ごとき見破れなければ、講義の意味はない。これまで通りきょろきょろ周囲を見渡して雑に戦うといい。アリスくんにはそれがお似合いだ。退学おめでとう! 大人しく自宅で縮こまっているといい」
「退学したのはアンタじゃないか。講師をクビに――」
言い終わらないうちに、ヘルメスがよろよろと後退した。矢の魔術は消えている。
彼はその場にしゃがみ込むと、アリスに背を向け、落ちていた木の枝で苔をほじくりはじめた。どんよりした空気が彼の周囲で淀んでいる。
どうやら地雷を踏んでしまったらしい。ここでへそを曲げられたら困る。
アリスは仕方なしにヘルメスの隣にしゃがみ込み、一層憂鬱を湛えた顔を覗き込んだ。
「悪かったよ、ヘルメス先生。過去のことを持ち出したりなんかして」
「どうせクビですよー。あーあ、無職万歳」
「なあ、ヘルメス先生。千年も前のことじゃないか。もう気にしなくていいって」
「もうアリスはボクの生徒じゃないですー。なぜならボクは先生じゃないから! ハハッ! はぁ……」
「だから、悪かったって。機嫌を直しておくれよ。頼むから」
「ボクはご機嫌さぁ。ご機嫌な無職だ」
それから小一時間、ヘルメスはうじうじしたままだった。ひとのことは散々煽るくせに、過去の汚点は拭い去れないらしい。千年もの時間をかけて醸成されたトラウマはもはやアイデンティティと不可分なのだろう。
手を変え品を変えご機嫌取りをして、ようやくヘルメスは講義を再開してくれた。まさか自分が他人の慰め役を努めるなんて、という自嘲を抱きつつ、集中して取り組む。
かくして夜が訪れる頃まで、修行に費やした。ヘルメスが今日の講義終了を告げると、数日間の不眠不休のせいもあって、アリスはばったりと大の字に倒れた。
「はいはい、お疲れ様。成長度合いは極めて遅いし、率直に言ってキミが魔術師を名乗れる日は来ないだろうが、とりあえずはお疲れ様」
魔力による魔力の察知はなんとか体得しつつあったものの、結局、隠蔽された魔術を見破るほど繊細な感知は出来なかった。このまま夜通し修行を続けたいところだったが、さすがに体力の限界である。それに、ヘルメスもこれ以上やる気はなさそうだった。少なくとも今日は。
二人のもとへ、ニコニコと笑みを浮かべた子供が寄ってくる。『灰銀の太陽』の元リーダー、ハックだ。彼は器用に盆をふたつ、アリスとヘルメスに寄越す。
「お疲れ様です。水と、根菜のスープです。どうぞです」
「ありがとう、ハックくん。いただこう」
ヘルメスが柔和な笑みを見せるのを、アリスは確かに捉えた。常にこんな感じなら講師をクビになる憂き目にも遭わなかったろう。
アリスも礼を述べ、水を喉に流し込んだ。冷たさが染み渡り、疲労のせいか、頭の天辺が痺れるような感覚があった。
「ウィンストンは男色家なのか?」
ヘルメスが唐突にそんなことを言うものだから、アリスはせっかくの水をいくらか吹き出してしまった。今、ヘルメスはアリスの視界を経由してウィンストンの視界を共有している。なにか見たのだろう。アリスの知る限り、ウィンストンにそのような性癖があるとは思えなかった。
「……そんなこと知らないさ。なにを見たんだい?」
「なに、やけに中性的な優男と一緒に生活しているようだったから、そのような趣味があるのかと思っただけだ」
「知らないねえ。どんな男だい?」
それからヘルメスの語った容姿やら特徴やらは、アリスの知る誰とも一致しなかった。それも当然だろう。彼女は会っていないのだから。『鏡の森』の王様――幻術のグレガーに。
グレガーがウィンストンとともに行動している目的は二人の知るところではない。ヨハンさえ関知していなかった。
とはいえ、些事である。少なくともアリスが次に耳にした情報よりは。
「そうそう」とヘルメスはグレキランス一帯の地図を広げる。「貴族に動きがあった」
アリスの目は地図上の一点に釘付けになった。少なからず思い入れのある地に、旗のマークが立っていたのだ。
イフェイオン。
『毒食の魔女』の愛した土地に、真っ赤な旗が踊っている。旗の下には、ユラン、と記載されていた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。実は防御魔術のエキスパート。王都の歓楽街取締役のルカーニアと永続的な雇用関係を結んだ。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』『Side Alice.「ならず者と負け戦」』にて
・『半馬人』→上半身が人、下半身が馬の種族。山々を転々として暮らしている。ほかの種族同様、人間を忌避しているが『命知らずのトム』だけは例外で、『半馬人の友』とまで呼ばれている。察知能力に長け、人間に出会う前に逃げることがほとんど。生まれ変わりを信仰しており、気高き死は清い肉体へ転生するとされている。逆に生への執着は魂を穢す行いとして忌避される。詳しくは『436.「邸の半馬人」』『620.「半馬人の友」』にて
・『ヘルメス』→かつてのラガニアでトップクラスに優秀だった魔術師。ねちっこい性格で、人付き合いの苦手な男。もともと魔術学校で講師をしていたがクビになり、一時期ガーミール公爵に雇用されていたが、彼が零落したことでドラクル公爵に鞍替えした。オブライエンの犯罪的魔術を看破し、彼の右腕と左足を木端微塵にした過去を持つ。血族化して以降は夜会卿に仕えていたが、ニコルによる襲撃以降、四代目となるガーミールに鞍替えした。死を契機に、事前に契約を交わした相手に成り変わることで不老不死を実現する異能を持つ。対象者はヘルメスの記憶と肉体と魔力をコピーした、ヘルメスそのものとなる。その際、相手の持つ魔力も上乗せされる。夜会卿の支配地であるアスターに訪れたルイーザの精神を叩き折って泣かせた過去を持つ。ヨハンの提案により、オブライエン討伐ならびに戦争での人間側の勝利後には、四代目ガーミールの部下とともにグレキランスに残り、アルテゴのワクチン研究をすることに合意。オブライエン討伐を見届けるべく、アリスの片目を介してウィンストンと視覚共有をしている。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『魔球』→魔力球、魔力弾、魔力塊とも呼ぶ。初歩的な攻撃魔術。
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗すべく結成された。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。現在は『灰銀の太陽』のリーダーの役目を終え、半馬人の集落で暮らしている。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『ウィンストン』→『毒食の魔女』の邸の執事をしている魔術師。丁寧な口調の壮年男性。ジェニーとは犬猿の仲。昔から魔女の命を狙って暗殺を繰り返している。魔女を殺害したオブライエンへ、並々ならぬ復讐心を持っている。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『279.「物好きな主人」』参照
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だったとされる男。不死魔術の研究により、王都から追放された。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。勇者一行であるゾラとの面識あり。ゾラの記憶する限り、グレガーはかつて騎士団の頂点に座していた。詳しくは『205.「目覚めと不死」』『868.「若年獣人の長き旅⑥ ~奪取~」』にて
・『イフェイオン』→窪地の底に広がる豊かな町。王都に近く、特産品の『和音ブドウ』を交易の材としている。『毒食の魔女』によって魔物の被害から逃れているものの、住民一同、彼女を快く思っていない。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』にて
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。本名はカトレア。オブライエンの策謀により逝去。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『Side Winston.「ハナニラの白」』にて
・『赤竜卿ユラン』→黒の血族で、ラガニアの公爵。自称、ウルトラ・ドラゴン卿。情熱的な青年だが、センスは壊滅的。代々、ドラゴンを使役するとされているが実際に目にしたものはおらず、虚言卿や嘘つき公爵と囁かれているが本人は意に介していない。詳しくは『幕間「ウルトラ・ドラゴン卿」』にて