128.「刃の雨」
滴る血液。狂喜の表情。肌に刺さるナイフ。
カランカランと音がして、一本一本ナイフが抜き去られる。わたしはアリスをただ凝視することしか出来なかった。
深く息を吐いて、また吸い込む彼女の姿は自分自身の傷や血液、あるいは痛みで興奮する獣のようだった。こんなに闇雲な人間だったろうか、と思って気が付く。ナイフが刺さっていた箇所はどれも急所ではない。
つまり、こういうことだろう。
おぞましい数のナイフを連射する『黒兎』に、彼女は逃げるのではなく向かっていった。そして致命的な部分に放たれた攻撃のみ掴むか弾くかして防ぎ、奴の懐まで接近を果たしたところで『黒兎』から身を引いた。全ての追尾を解除してまで彼は回避に神経を使ったということだ。
ただ、発砲音はなかった。魔弾を回避出来ない距離までは接近したはずなのに。
アリスの考えが読めない。
彼女は無言で闇の先を眺めていた。――見下すように。
稲光が部屋を照らした。広間が一瞬白く染まる。距離を置いてしゃがみ込み、アリスを見つめる『黒兎』の顔がちらと見えた。
一瞬だったのでよく分からないが、全く子供らしくない目付きだった。目の前の獰猛な敵をどう処理すべきか思考を巡らしている狩人の瞳は、きっとこんなものだろう。
「坊やは接近戦は苦手なのかしらぁ? それとも怖くなっちゃったぁ?」
『黒兎』の返事はなかった。
傷はともかくとして、この場はアリスが呑んでいることは間違いない。あとはどれだけこちらのペースで戦えるかだ。
「ねえ、オネーサン」
暗がりから届いた声は、それまでの小生意気さを残しながらもいくらか落ち着いた口調だった。
「なぁに? 坊や」
「少しだけギアを上げるから、しっかりついてきてね。すぐ死んじゃ駄目だから――」
直後、『黒兎』の手にしたナイフの魔力が靄のようにぼやけた。なにか仕掛ける気だ。
「――分裂しろ、魔力写刀。複製同期!」
『黒兎』の右手の靄が、急激に凝固していく。
四本のナイフ。それらがそれぞれの指に握られていた。どのナイフも等質の魔力量を帯びている。どれが魔具の本体なのだろうか。その四本にはいずれも比較出来るような特徴は感じられない。
ということは……。
『黒兎』がナイフを振りかぶる。そして、四本のナイフが同時に射出された。そして一秒に満たない遅れで次の四本が放たれる。四本ずつ、わたしとアリスに向かってくる。
身を翻し、回避行動を取りつつ一本一本掴んでいった。案の定、回避した分は追尾してくる。ちらと横を見ると、アリスも同じ方法でひとつずつ無力化していた。
一瞥では計りかねたが、彼女の動きには特段鈍さはなかった。興奮状態にあるのだろう。しかし、長くは続くまい。
次々と追加で四本ずつ追尾弾が増える。これでは対応出来る数よりも追撃のほうが多い。時間が経てば経つほど不利になっていく状況である。
「ほら! もっと頑張って! 追いついてないよ!?」
『黒兎』は愉快そうに吼える。
子供に刃を向けたくはない。とはいえ、そんな甘い考えではこの窮状を突破出来ないだろう。
剣を手にしたときの集中状態をイメージする。徒手であっても、イメージに没入することは可能だ。踊るように避けつつ、わたしは内面で別の風を感じる。
自分の呼吸と自然の息吹を重ね合わせた。頭で想像する場所では青い草が揺れ、柔らかな午後の光が燦々と射している。
ステップを踏んで、群れるナイフから距離を取る。そいつらは一斉にこちらへと向かって来た。
問題ない。深呼吸ひとつ分の余裕はある。
深く吸って、深く吐く。神経が指先に集まっていく。
指先に刃の冷たい感触が広がり、力を緩め、また刃を摘む。もう回避行動を取る必要すらない。迫り来るナイフを摘んで勢いを殺し、手放す。それを高速で繰り返すだけだ。単純作業。花を摘むような柔らかい心を維持していればなんら問題はない。
過集中状態になるとどうしても目前のことしか見えなくなってしまう。従って、ナイフの量が極端に減り、やがて一本も飛んでこなくなったことを知っても暗闇で奮闘するアリスが一体どういう状況にあるか把握するまでに時間がかかった。
集中を意図的に解き、アリスのほうへ目を凝らして愕然とした。
無数のナイフの渦の中、鮮血が絶えず散っていた。
まずい。
『黒兎』はわたしに配分していた分のナイフが全て捌かれている事実を知り、即座にこちらへの攻撃は取り止めたのだろう。代わりに、その分をアリスに集中させた。それまでだって徐々に苛烈になっていく状況だったはずが、余計に数が増し、もはや彼女には掴んで無力化なんて出来る状況ではなくなっている。
刃の渦の中、踊るように掴んではいたが、一本捕らえる間に五、六本が肌を裂く。そして加速度的に数は増加していた。
足に力を込める。刃の嵐とでもいえるこの攻撃を停止させるためには『黒兎』本人を叩くほかない。
一直線に奴へと駆けた。サーベルを抜き放ち、攻撃に備えながら。
数メートル進んだところで、わたしの真横に獣じみた影が並んだ。それがアリスであることに気付いたときには、彼女の瞳に吸い寄せられていた。どろり、と溶けるような色。それがわたしを一瞥し、それから『黒兎』へと向けられた。
隣には幾本もの刃を身体に受けながら進む戦闘狂。彼女の圧力はありありと感じられた。言葉として表現はされなかったが、間違いなくわたしの存在を疎ましく思っている。
あの兎はあたしの獲物だよ。そんな意思がびりびりと肌に伝わった。
『黒兎』は接近するアリスとわたしの両者にナイフを放つ。
サイドステップを踏んでアリスと距離を取り、わたしへと接近するナイフは逸らすように弾いた。一方でアリスは最前と同様に急所への攻撃のみ掴み取り、それ以外は刺さるがまま裂くがままにしている。
アリスのあとに追うように無数のナイフが後方から追尾していることは容易に想像がつく。『黒兎』としては、あれだけ射出したナイフでアリスを仕留めきれないことは問題だろう。
わたしたちの接近が止まらないことを察すると、彼は魔力写刀で追加のナイフを放ちつつ逃げた。
攻撃しつつ駆ける以上、わたしたちの速度には及ばない。それに、彼自身の脚力もさして速くはなかった。
それを察知したのか『黒兎』は一旦攻撃を止め、こちらに背を向けて駆けた。もはや単なる追いかけっこ――と思ったが違った。
「複製同期……!」
捻り出すような『黒兎』の声が響く。
彼は再度こちらを振り返り、今度は八本ずつアリスへと放った。つまり、魔力写刀は片手に四本ずつ。両手だと合計八本まで増えていた。どこまで増加させることが出来るのだ。
さすがに八本はまずい、と思ってアリスを向くと、丁度それぞれのナイフがざくざくと彼女の身体を抉っていくのが見えた。鮮血が散り、景色がスローになる。
彼女は足を踏み出すことが出来ず、勢いのままに床へと倒れ込んだ。アリスの背後には無数、としか表現のしようがない量のナイフが迫っていた。そして『黒兎』のほうからも追加でナイフが放たれる。
死。それは明確な輪郭を持って彼女の喉元に喰らいついていた。
サーベルを納め、瞬時に集中力を高める。ナイフを掴む動作に入りながら、更に神経を尖らせていく。
全部無力化するのは不可能だ。ただ、少しでも彼女の生存率を上げることが出来るのならそれでいい。ナイフは前方と後方からそれぞれ接近している。量も尋常でない。
風花。草原。そよ風。断片的なイメージには焦りからノイズが混じる。それでも両手で無力化を続けた。歯を食い縛り、肌を裂く刃の雨を受けながら、それでも致命的な刃をひとつひとつ摘み取っていった。
アリスの後方から迫っていたナイフは全て推進力を失った。肌に突き刺さり、あるいは掴み取られて。
足元でアリスの呻きが聴こえた。生きてはいる。
『黒兎』からの追加の連射はやんでいた。その代わりに、哄笑が破裂する。
「アハハハハハ! なんだよなんだよ! 情けないじゃん!! なんで寝てるのさ、ねえ!? それにサーベルのオネーサンも、庇って余計な傷を負うなんて馬鹿じゃないの!?」
こんな傷、なんてことない。奴の不愉快さに比べれば。
「あなたには分からないわね、きっと」
そう、きっと彼にはなにを言っても正しく理解してはもらえないだろう。残念ながら、歪んでしまっている。そういう手合いには決して容赦しない。
風花のイメージは追い出した。今は目前の敵を打ち据えることに全てを注ぐ。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『魔銃』→魔力を籠めた弾丸を発射出来る魔具。通常、魔術師は魔具を使用出来ないが、魔銃(大別すると魔砲)は例外的使用出来る。アリスが所有。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』にて
・『風花のイメージ』→クロエが集中した際、頭に浮かべるイメージ。『53.「せめて後悔しないように」、92.「水中の風花」』参照




