Side Etelwerth.「永遠じゃないからこそ」
※エーテルワース視点の三人称です。
半馬人の隠れ家での一件が収束した頃、キツネ族の獣人エーテルワースは必死で駆けていた。光量の乏しい廊下に、自分の荒い息遣いが鳴り響く。しかし、そんな物音は気にしていられない。追跡者はすぐそこまで迫っているのだから。
真後ろに気配を感じ、全身の毛が無意識に逆立つ。そして――。
「よっしゃ捕まえた~! これでナーゴの勝ちっ!」
「くっ……この吾輩が屈辱を舐めるとは!」
ローレンスの館内で繰り広げられた追いかけっこは、ナーゴの勝利に終わった。
エントランス際の廊下に膝を突いたエーテルワースが顔を上げると、そこに集った各人の顔触れがあった。大理石の豪奢なエントランスには四人の姿がある。不機嫌そうに腕組みをして絨毯敷きの階段に腰かけたルイーザ。その隣で優雅に扇を広げて佇んでいるのは、彼女の母親であるエリザベートだ。そしてエントランスの中心でニヤニヤとこちらを見下ろすのは、この館の主人であるローレンス。彼の使用人であるマーチは、ローレンス手製の魔道具である車輪付きの椅子――『偉大且つ華麗なる有翼輪』に座して、ようやく終わったかとでも言いたげな呆れ顔をしている。
エーテルワースが樹海からローレンス家へと帰還してから、戦争とは無縁の牧歌的な日々が続いていた。当初彼は獣人としてオブライエンの討伐に参戦する意志を表明したのだが、ローレンス家の面々と相談した結果、館に留まることに決めたのである。
館に住まう人々が王都に避難するという道もあったが、ローレンスの強い要望により、その案は棄却された。館の主人だから、というわけではない。魔物に蹂躙され尽くした町――ペルシカムにおいて、かつてのルイーザがローレンスのために復旧させた館だからだ。血族の軍勢が迫れば、館は敵の拠点として好き放題されてしまう。それこそ破壊される懸念もあった。ローレンスはそれを良しとしなかったのである。
魔力と記憶を失ったルイーザは無力であり、支配魔術に特化したエリザベートも敵を迎え討てないだろう。ナーゴの取り柄は足の速さくらいだ。使用人兼戦士であるマーチの実力はエーテルワースも身を持って知っているが、彼女ひとりに任せられる相手ではない。ローレンスが魔術師として優秀なのも分かるが、血族にどこまで通用するか怪しい。それゆえ少しでも館の戦力になるべく、エーテルワースも留まる決意をしたのである。
エーテルワースにとって館の面々は、もはや家族同然だった。獣人である自分を受け入れてくれたマーチをはじめ、誰ひとり欠けてはならない大切なひとたち。自分がいたとしても血族に包囲されれば勝ち目なんてないと思ってはいるが、もしそれが最期になるならば、せめて自分を愛し、自分が愛する人々と運命をともにしたい。
かくして館の人々は迫りくる脅威を自覚しながらも、限られた平穏な日々を謳歌していたのである。この追いかけっこもそのひとつだ。マーチとエリザベートは参加を拒否したものの、ローレンスたっての希望で全員が遊ぶことになったのである。
「次はぁ……イヒッ……なにして遊ぼうかぁ……?」
ローレンスが心底楽しそうに話す。はじめこそ薄気味の悪い喋りかただと感じたものだが、今ではそんなふうに思わない。これが彼の自然体だと知ったから。
「次はない。私には仕事が山積みなのだからな。もう昼時だというのに、ほとんど食事の準備も出来ていない。それもこれもローリー! 貴方が追いかけっこを提案したからだ!」
「だってぇ……みんなで遊んだほうが、楽しいよぉ? マーちゃんだってぇ……本気になってたしぃ」
「そ、それは、何事も全力でやらねばと思ったからだ! そして私はマーちゃんではない、マーチだ!」
ローレンスとマーチのやり取りを聞いたからか、ルイーザとエリザベートが顔を見合わせて小さく笑みを交わしている。またやってる、と思っているのだろう。自由人なローレンスと、それを叱るマーチ。主人と使用人の立場がまるで逆だ。
「本気がイチバンだよね~、マーちゃんっ」
「ナーゴ! 貴女の言い分はもっともだが、私の名はマーチだ!」
「にゃはは! 怒った? ワクワク?」
「怒っていないし、ワクワクもしていない! 私をなんだと思ってるんだ貴女は!」
ローレンスとマーチにナーゴが加わって、場は一層賑やかになる。これもいつものことだ。エーテルワースが巻き込まれることもあれば、ルイーザが気まぐれに口を挟んだりもする。そしてエリザベートは高所から見下ろすような傍観の態度に徹することもあれば、ときどき率先して場を掻き乱すこともあった。
戦場で戦う者を思って胸が痛くなる瞬間は多々あるものの、この愉快な平穏に憂鬱は持ち込み禁止だ。きっと全員が理解しているから。この瞬間は永遠にはならないのだと。それも、あと数日で終わってしまうかもしれないのだと。
不意に、ローレンスが振り返った。エントランスの階段の方向へと。「ワースくん、マーちゃん」
ローレンスは誰にでもあだ名を付けたがる。エーテルワースはいつの間にやら『ワースくん』と呼ばれるようになっていた。エリザベートでさえ、いつしか『ルゥのママ』ではなく『エリさん』なんて呼ばれている。
振り返ったローレンスの声は、ひどく静かで、落ち着いていた。
「血族が……こっちに来てる」
エーテルワースがマーチを見やると、ちょうど彼女もこちらに視線を向けたところだった。
「でもぉ……変だ」ローレンスは首を傾げてから、天井を仰ぐ。「気配はひとつだけ……」
単身で館に向かって来ている。その理由は定かではないが、エーテルワースがすべきことはひとつだ。
「ローリー殿。館の守護は任せた。吾輩は」言って、エーテルワースはマーチに頷きかけた。「マーチとともに血族の相手をする」
館の裏手。それがローレンスの示した気配の方角である。裏手に作られた使用人小屋――マーチ自作の彼女の部屋――から外に出ると、湿った風がエーテルワースの頬ヒゲを揺らした。
マーチと並び、エーテルワースは剣を抜く。ほとんど同時に、彼女も剣を手に取った。
霧の先で人影が揺れている。上背はあるようだが、若干猫背気味である。霧の先の人物は悠然とした歩調で、まっすぐにこちらへと歩いていた。ときどき泥に足を取られてよろめきつつ。
やがて現れたその姿は、とても戦士には見えなかった。少なくともエーテルワースの目には。
仕立てのいい茶色のコートを前開きにして、中にはグレーのスーツとベストを着込んでいる。靴も、きっと上等な品なのだろう。今は泥まみれだが。そして、肌は紫。ローレンスの察知した通り血族だ。
目深に被った中折れ帽の下で、黒髪が緩やかなウェーブを描いている。人間でいえば四十代なかばといったところだろう。装いこそ上等だが、無精髭も含め、くたびれた中年といった具合である。ただ、目の奥にはやけに鋭い光が見えた。
「止まれ! 貴様は何者だ!」
マーチが声を張り上げて切っ先を向けると、血族の男は両手を上げて眉尻を下げた。しかし、立ち止まりはしない。
「見ての通り、おじちゃんは血族だよ、お嬢さん」
渋い声が霧のなかで溶ける。
「止まれと言っただろう! 貴様は、なぜひとりでここにいるのだ! 仲間はどうした!」威勢よく放たれた言葉の間で、マーチはハッと顔色を変え、剣を下ろした。「まさか……仲間に捨てられたのか? それで亡命を……? ならば、快く迎え入れよう! ローレンス家は誰も排斥しない! それがポリシーだからな!」
血族の男は目を丸くして足を止めると、愉快そうに笑った。それも、随分長いこと。
「な、なにがおかしいのだ! 私は笑われるようなことは言ってないぞ! エーテルワース、貴方もそう思うだろう!?」
急に水を向けられたものだから反射的に頷いたものの、相手が笑うのも当然だとエーテルワースは感じた。マーチの思考が明後日の方角に先走ることはしばしばある。今回もそれだろう。
血族の男は指の背で目尻を拭うと、首を横に振った。
「あー、面白いねえ。おじちゃん、こんなに笑ったの久しぶりだよ。ありがとうお嬢さん。でもねえ、申し訳ないけどおじちゃんは見捨てられた亡命者なんかじゃないんだ。残念ながら」
「なら、敵か?」
「どうかねえ。敵かどうかはお嬢さんが判断することじゃないかな。おじちゃんは、きみたちのことを敵だとは思ってない。……ところで、きみたちは夜会卿――ヴラドって知ってるかな?」
「「知らん」」
エーテルワースとマーチの声が重なる。ただ、互いに苦笑するようなことはなかった。亡命者でないなら、無論、敵側と見るべきだ。エーテルワースは剣をかまえ、男の一挙手一投足に意識を向ける。
「ヴラドはこの戦争で一番の勢力を持ってる、って言えば伝わるかな? 大軍勢だ。そのなかで部隊が四つに分かれててねえ……ヴラドが直接指揮する本隊と、第一から第三までの部隊。ヴラドがこの地に連れてきた血族はどれも精鋭揃い。なかでも、各部隊長はとびっきりの猛者だなんて言われてる」
そこまで言って、男は足を止めた。エーテルワースたちとの距離は十メートル程度だろう。
「おじちゃん、喋りすぎちゃったかな。悪い癖だ。その代わり、ってわけじゃないけどねえ、きみたちの名前を教えてくれないかい?」
名乗る気など毛頭なかったが、隣で威勢よく「ローレンス家の掃除人兼、料理人兼、庭師兼、買出し係兼、戦士のマーチだ!!」なんて聞こえたものだから、エーテルワースも名乗らざるを得なかった。「エーテルワース。見ての通り獣人だ」
「マーチちゃんだね、それと――」
「気安いぞ貴様! ちゃん付けは好かん! 戦士らしからぬ!」
「ごめんねえ、おじちゃん、そのへんの機微が疎くて……。マーチさん、でいいかな?」
「うむ」
「そりゃよかった。で、きみが」と、男がエーテルワースを手で示す。「エーテルワース、くん、でいいかな?」
浅く頷く。敬称など問題ではない。意識を研ぎ澄ますことだけが、この場で今一番重要だ。
「おじちゃんはレンブラント。夜会卿の第三部隊長をやらされてる。で、ここに来た理由なんだけどねえ」
男がエーテルワースへと一気に距離を詰めた。ゆえに、反射的に剣を突き立てたのだが――。
身を貫く速度で放った刺突だったが、切っ先はレンブランドの服を裂いたものの、腹部の皮膚上で制止している。どんなに力を籠めても、そこから先へと刃が進まない。硬いのだ。あまりにも。
男は中折れ帽の位置を直し、エーテルワースとマーチそれぞれに、まるで親戚みたいな笑顔を向けた。
「襲いに来た。そう思ってくれていいよ」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『エーテルワース』→『魔女っ娘ルゥ』に閉じ込められたキツネ顔の男。口調や格好は貴族風だが、人の匂いをすぐに嗅ぐ程度には無遠慮。剣術を得意としており、強烈な居合抜きを使う。冒険家である『命知らずのトム』とともに各地をめぐった過去を持つ。詳しくは『494.「キツネの刃」』『Side. Etelwerth「記憶は火花に映えて」』にて
・『ローレンス』→ルイーザの幼馴染。水魔術や変装魔術、果ては魔道具の作製など、魔術的な才能に溢れた青年。能天気な性格。愛称はローリー。詳しくは『第二章 第六話「魔女の館~①流星の夜に~」』にて
・『マーチ』→ローレンスの館の使用人。彼に作ってもらった車椅子型の魔道具『偉大且つ華麗なる有翼輪』に乗って家事全般をこなす。度を越えて生真面目かつ不器用なので、よく空回りする。ローレンスにはマーちゃんと呼ばれているが、当のマーチは認めていない。もともとは王都の西方に位置する町、マグオートで戦士をしていたが、足を負傷したことにより追放の憂き目にあった。詳しくは『485.「マーちゃん」』にて
・『ナーゴ』→ローレンスの飼い猫。ペルシカムの領主であるアレグリアに殺されたが、ローレンスとルイーザの作り上げた仮想世界『魔女っ娘ルゥ』で、人型の生命を得た。詳しくは『492.「ナーゴさん」』『515.「幸福のために」』『幕間.「流星の翌日に」』にて
・『ルイーザ』→ニコルと共に旅をしたメンバー。最強と目される魔術師。高飛車な性格。エリザベートの娘。『針姐』の墨の魔術により全身に縮小した魔紋を刻んでいたが、クロエの持ち込んだ『墨虫』により無力化された。現在は魔力の大部分と記憶を失い、平凡なひとりの少女としてローレンスの館に住んでいる。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『魔女の湿原』~」』『第二章 第六話「魔女の館」』より
・『エリザベート』→ハルキゲニアの元女王。高慢で華美な人間。ルイーザの母。支配魔術の使い手。詳しくは『174.「ハルキゲニアの女王」』にて
・『キツネ族』→獣人の一種。読んで字のごとく、キツネに似た種
・『半馬人』→上半身が人、下半身が馬の種族。山々を転々として暮らしている。ほかの種族同様、人間を忌避しているが『命知らずのトム』だけは例外で、『半馬人の友』とまで呼ばれている。察知能力に長け、人間に出会う前に逃げることがほとんど。生まれ変わりを信仰しており、気高き死は清い肉体へ転生するとされている。逆に生への執着は魂を穢す行いとして忌避される。詳しくは『436.「邸の半馬人」』『620.「半馬人の友」』にて
・『偉大且つ華麗なる有翼輪』→ローレンスの作製した車椅子型の魔道具。所有者はマーチ。急停止、急発進はもちろん、使いこなせば跳躍も可能。車輪の表面のみが回転する機構となっている。詳しくは『487.「偉大且つ華麗」』にて
・『魔道具』→魔術を施した道具。魔術師であっても使用出来る。永久魔力灯などがそれにあたる。詳しくは『118.「恋は盲目」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。外界で活動しているのは彼の分身『二重歩行者』であり、本体は一切の魔術的干渉を受けない檻に閉じ込められている。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ペルシカム』→『魔女の湿原』の外れに存在した村。ローレンスの故郷。魔術師を忌避する価値観が根強い。ルイーザの魔術により壊滅した。詳しくは『第二章 第六話「魔女の館~①流星の夜に~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『支配魔術』→使用の禁止された魔術。他者の自由意思に介入する魔術。他者に施された『支配魔術』を、同じ魔術で上書きすることは出来ない。解除後も、一度変形された自由意思は完全に元通りにはならない。詳しくは『117.「支配魔術」』『Side Johann.「ドミネート・ロジック」』にて
・『夜会卿ヴラド』→黒の血族の公爵。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『毒色原野』を越えた先に彼の拠点が存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。不死の力を持つ。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』『927.「死に嫌われている」』にて