987.「半身の帰還と土産話」
ヨハンの半身とアリスが半馬人の隠れ家に向かって一日と半分。血族の部隊がグレキランスに到達してから五日目の昼を迎えようとする頃である。
「はぁ~」
相変わらず塔の縁に立って北方を見つめるわたしの隣で、ヨハンが盛大な息を吐いた。わたしが前線基地から帰ってからほとんど、彼は無言を貫いていたのである。
「とりあえず」座り込んだヨハンはわたしを見上げて言う。「危機は脱しました」
危機とは、半馬人の隠れ家のことだろうか。無事奪還したという意味なら、ヨハンの懸念が晴れて良かったと思う。個人的には危機状態のままであっても特になにも感じない。
「半馬人の隠れ家を取り戻せるかどうかというより、捕まった半馬人がオークションにかけられるかどうかは今後次第です」
「なら、全然危機を脱してないじゃない」
「隠れ家を占拠していた血族と交渉したんですよ。それでなんとか丸く収まりました」
彼の言う『丸く』が具体的になんなのか不明だったが、安堵しているならそれはそれで良い。
相変わらず『煙宿』は平和だ。そろそろ敵方が動いて来そうな気がするものの、そうなればいの一番に反応するのは湿原の各地に配された白銀猟兵だろう。オブライエンの製造物は派手な戦闘を繰り広げて、敵の位置を知らせてくれるはずだ。
変化というほど大きなものではないが、昨晩、オブライエンの支給した武器の廃棄が行われたらしい。わざわざナルシスが教えてくれた。シフォンとの戦闘以来、なぜかわたしによく話しかけるようになったのだ。といっても、あまり返事を期待していないような、報告なのか自慢なのか感想なのかよく分からない繰り言なので反応することもあまりなかったが。
人の意識――特に血族と魔物への憎悪を高める刃が、有利か不利か。繊細な作戦行動においては確実に後者だ。特に『煙宿』のように深い霧に隠された場所であればなおのこと。一方、王都では重宝するだろう。すぐそこまで迫ってきている敵に、一心不乱に切り込めるのは強みだと思う。そうした洗脳を良しとするかどうかは別問題だ。
「二重歩行者も解除出来ましたし、一安心です。そうそう、お土産があります」
そう言って、ヨハンは一枚の紙切れをわたしに見せた。グレキランス一帯の地図で、隠れ家の位置する森のあたりに旗のマークが描かれている。ガーミール、という名前まで記されていた。ヨハンが言うには、制圧した貴族とその名が刻まれるようになっているらしい。地図は正確で、『煙宿』の位置まで記載されている。なかば秘匿された宿場町であることを理由に要衝として定められたらしいのだが、これでは敵の撹乱は見込めないだろう。
「まあ、とりあえずは私が持っておきます。地図が更新されたらお伝えしますので、ご安心を」
情報は暗躍の得意なタイプがやればいい。今のわたしは不適格だ。ヨハンが所持して、アレコレと作戦を練るのがいいだろう。
「もうひとつ報告ですが、『共益紙』にはこのままフェイクの情報を垂れ流す方針でいきます」
「なんで?」
隠れ家をどうにかしたのなら、情報が血族に流出することはないのでは。そう思ったが、ヨハンとしては違うらしい。
「ルーカスですよ。あの男、『共益紙』を夜会卿に渡しました」
ああ、なるほど。そういえば『共益紙』自体、ルーカスからハックへの提供物だったと聞いている。あの男がスペアを持っていてもなんら不自然ではない。ヨハンが一連の情報を握っているのも、ルーカスの視界を半分共有しているからだろう。
なんにせよ、これで頼りになる情報源は交信魔術だけになったわけだ。『煙宿』におけるナルシスおよび、ほかの交信魔術師の重要度も――『共益紙』を持つわたしとヨハンにとっては上昇する。
「ちなみに、アリスさんはしばし『煙宿』に戻れません。隠れ家で魔術師の弟子になったので、数日は修行の日々でしょうなあ。血族ですが、私の知る限りトップクラスの魔術師です」
それから彼は土産話とばかりにヘルメスや四代目ガーミールのことを話したが、戦場に出てこないのなら関心は抱けない。
「そうそう、無事オブライエンを倒したら、ヘルメスさんにはアルテゴのワクチン研究に取りかかってもらう手はずです」
「そのワクチンをどうするの?」
「まずお嬢さんに射ちましょうかね」
それは困る。血族じゃなくなるということは、便利な治癒能力を失い、食事や睡眠といった無駄な時間も必要になるだろう。そしてきっと、それで感情が戻ったりはしない。というか、戻らなくていい。シフォンのときのように、弱い自分が表に出てきたら厄介極まりないのだから。
「もし射とうとしたら、あなたを斬ると思う」
「ご冗談を」
「今のわたしは冗談を言えない。わたしが弱くなるような真似は、あなたであっても許せないから」
今より弱くなったら、きっとニコルにも魔王にも勝てない。つまりはわたしの唯一の存在意義といってもいい目的を達成出来なくなる公算が高くなる。それはさすがに看過出来ない。
「弱いとか強いとかではなく、お嬢さんにはお嬢さんの持っていた感情を取り戻してほしいと本気で思ってるんですよ。まあ、ワクチンを射つのは冗談です。冗談ですが、感情については本気で言ってますからね」
そうなんだろうな、きっと。
ヨハンだけじゃなくて、シンクレールも、たぶんアリスも、ハルキゲニアの人たちもそう思ってるんだろう。がむしゃらで、猪突猛進で、無闇な正義感で余計に険しい道を歩んだり、無駄に傷ついたり、悩んだり、泣いたり、笑ったり。そういうわたしのことを知って、あえて一緒にいてくれたような人にとっては当然なのかもしれない。わたし自身は、そんな過去の自分に愛着なんて持てないし、愛着という感覚すらない。
感情を失ってから会っていない人のことを頭に浮かべる。ローレンスの館の人々や、ノックスのことなんかを。
会わなければいいだけだ。もし下手に会ってしまって、昔のわたしが引きずり出されてしまうような事態になったら、それを喜ばしいなんて思えない。
「敵側に、シフォンより強い相手はどれだけいる?」
気にはなっていたので、聞いてみた。厄介者の相手をしなければならないのは重々承知している。だから、時間のあるうちに把握しておきたい。本当はもっと早く聞くべきだったろうけど、わたしにとってはシフォンとの戦闘が決定的だった。なにせ、本来死んでいたんだから。
「まずはヘルメスさんですね。お嬢さんでなくとも、誰が相手でも勝てません」
「次は?」
「夜会卿です。不死ですから、物理的に勝つことは不可能ですな。あと厳しいのは、私の兄でしょうか。シフォンさんよりは強くないでしょうが、狡猾です。まあ、そもそも戦場にいるかも不明ですが」
「ほかには?」
「思い当たるのは……スーパー・ドラゴン卿でしょうか」
なんだそれ。
「冗談は聞いてない」
「いやいや」とヨハンは苦笑を浮かべる。「本当にそんなふうに自称してるんですよ。今頃ハイパー・ドラゴン卿に改名しているかもしれません。正式には赤竜卿。名はユラン公爵です。ドラゴンを使役するという噂ですが、嘘か誠か分かりませんね。ただ」
ヨハンの目付きが急に鋭くなった。
「単体では夜会卿よりも強いですよ。私の見立てだと。……お嬢さんは相手にしないほうがいいです。性格は単純で、公正公平を重んじる正義漢です。手話も使えますね、確か。耳の不自由な相手とも隔てなく会話したいと思うような手合いだと思ってください。まあ、籠絡しやすい相手なので、私が舌先で転がします」
手話なるものは知らない。ラガニアの文化かなにかだろう。それはいいとして、単純な正義漢か。確かに、そんな相手ならヨハンのお手の物だろう。ただ、戦場がどう推移するかは分からない。
霧の先を見据えて、深く息を吸った。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。実は防御魔術のエキスパート。王都の歓楽街取締役のルカーニアと永続的な雇用関係を結んだ。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』『Side Alice.「ならず者と負け戦」』にて
・『半馬人』→上半身が人、下半身が馬の種族。山々を転々として暮らしている。ほかの種族同様、人間を忌避しているが『命知らずのトム』だけは例外で、『半馬人の友』とまで呼ばれている。察知能力に長け、人間に出会う前に逃げることがほとんど。生まれ変わりを信仰しており、気高き死は清い肉体へ転生するとされている。逆に生への執着は魂を穢す行いとして忌避される。詳しくは『436.「邸の半馬人」』『620.「半馬人の友」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『前線基地』→王都北東の山脈にほど近い場所の山岳地帯に作った、戦争における要衝。血族の侵入経路と王都を直線上に結ぶ位置にあるため、全滅は必至であり、足止めの役割がある。総隊長としてシンクレールが配備されている。簒奪卿シャンティおよびシフォンの襲撃によりほぼ壊滅した。詳しくは『第四章 第二話「幻の森」』『第四章 第三話「永遠の夜ー①前線基地ー」』にて
・『煙宿』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。ゆえに人探しはご法度。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」「煙宿~②不夜城~」』にて
・『白銀猟兵』→人を模した、ずんぐりとした物体。オブライエンの量産している兵器。指令を送ればその通りに行動をすることが出来る。動きは機敏で、硬度は高い。破壊時に自爆する。詳細は『幕間.「白銀空間~潜入~」』『幕間.「白銀空間~白銀猟兵と一問一答~」』『幕間.「白銀空間~魔具制御局~」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。外界で活動しているのは彼の分身『二重歩行者』であり、本体は一切の魔術的干渉を受けない檻に閉じ込められている。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ナルシス』→王都の騎士団に所属している交信魔術師。自信家で演技口調。しかし交信魔術の腕前は送受信ともに優秀。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー①前線基地ー」』にて
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。戦争において簒奪卿の部隊に配属されたが裏切り、血族も人間も殺戮した。自分の感情も思考も持たず、ニコルに従っている。前線基地にてクロエに敗北し、彼女の命ずるまま、現在はシンクレールに従っている。風の魔術の籠もった貴品『シュトロム』を使用。実は騎士団長ゼールの養子。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』『幕間「或る少女の足跡」』『幕間「前線基地の明くる日に」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『二重歩行者』→ヨハンの得意とする分身の魔術。影に入り込んで移動することが可能。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。また、グレキランス一帯の地方を指して用いられる。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『共益紙』→書かれた内容を共有する紙片。水に浸すと文字が消える。詳しくは『625.「灰銀の黎明」』にて
・『夜会卿ヴラド』→黒の血族の公爵。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『毒色原野』を越えた先に彼の拠点が存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。不死の力を持つ。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』『927.「死に嫌われている」』にて
・『ルーカス』→『魔女の湿原』の北に広がる高原に住む『黒の血族』。銀色の梟面を身に着けた小太りの男。父である『巌窟王』と一緒に暮らしている。同じ血族であるマダムに攫った人間を提供していた。血族のみ参加出来るオークションで司会をしていたが、クビになった過去を持つ。クロエをオークションに出品する優先権を持っている。ハルピュイアを使役する権能を有し、特殊な個体である赤髪のハルピュイアとは独自な契約関係にある。マゾヒスト。詳しくは『472.「ほんの少し先に」』『609.「垂涎の商品」』にて
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。現在は『灰銀の太陽』のリーダーの役目を終え、半馬人の集落で暮らしている。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『ヘルメス』→かつてのラガニアでトップクラスに優秀だった魔術師。ねちっこい性格で、人付き合いの苦手な男。もともと魔術学校で講師をしていたがクビになり、一時期ガーミール公爵に雇用されていたが、彼が零落したことでドラクル公爵に鞍替えした。オブライエンの犯罪的魔術を看破し、彼の右腕と左足を木端微塵にした。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『アルテゴ』→オブライエンの発明した兵器。『固形アルテゴ』『液化アルテゴ』『気化アルテゴ』がある。詳しくは『間章「亡国懺悔録」 幕間37.「アルテゴ」』にて
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者だが、実は魔王と手を組んでいる。黒の血族だけの世界を作り上げることが目的。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐。詳しくは『875.「勇者の描く世界」』にて
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『ローレンス』→ルイーザの幼馴染。水魔術や変装魔術、果ては魔道具の作製など、魔術的な才能に溢れた青年。能天気な性格。愛称はローリー。詳しくは『第二章 第六話「魔女の館~①流星の夜に~」』にて
・『ノックス』→クロエとともに『最果て』を旅した少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。『毒食の魔女』いわく、先天的に魔術を吸収してしまう体質であり、溜め込んだ魔術を抜かなければいずれ命を落とす。王都襲撃ののち、王位を継いだ
・『赤竜卿ユラン』→黒の血族で、ラガニアの公爵。自称、ウルトラ・ドラゴン卿。情熱的な青年だが、センスは壊滅的。代々、ドラゴンを使役するとされているが実際に目にしたものはおらず、虚言卿や嘘つき公爵と囁かれているが本人は意に介していない。詳しくは『幕間「ウルトラ・ドラゴン卿」』にて
・『ドラゴン』→巨大な有鱗の魔物。滅多に出現しない。詳しくは『幕間「或る少女の足跡」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より