Side Alice.「四つのケースと確実な死者」
※アリス視点の三人称です。
オブライエン討伐のあかつきには、彼の使用していた研究室でヘルメスが自分の研究を行う。それも、ヘルメス自身が望む研究――体内のアルテゴの浄化、すなわち魔物の人間化と、血族および他種族の人間化。
ヘルメスが何百年かかっても実現出来なかった研究が、悲劇の発端であるオブライエンの研究所を引き継ぐことによって別のかたちで可能性の道が拓ける。
アリスはヨハンの言葉を耳にして、ただただ唖然としてしまった。ヘルメスにとって研究がどれほどの価値を持つかは正確には分からない。ただ、ガーミールとともにグレキランス地方に出征し、研究資金を集める程度には意欲的。それも本心とは別の研究にもかかわらずだ。
問題があるとすればひとつ。ヘルメス自身の――否、ラガニア人全員にとっての憎悪の対象であるオブライエンの研究室を継ぐことを良しとするかだ。
さぞかし長考するだろうと思われたものの、結論は即座に出た。あまりに呆気なく。
「いい提案だ。乗ろう」
ガーミールも凝然とヘルメスを見上げる。彼もまた混乱の渦中にいるはずだ。オブライエンと初代ガーミールとの関係性を知り、憎き仇の生存を聞かされただけでも頭を抱えるような状態だったのは間違いない。そこにきて、ヘルメスがヨハンの提案を即決したのだから。
ただ、ガーミールの口から異論めいたことが発せられることはなかった。驚愕のあまり口が利けなくなっているのか、別の理由からなのかは定かではない。
「それでは、本格的に交渉と参りましょう。我々はオブライエンを討伐し、ヘルメスさんに研究所をお渡しする。その代わり、オブライエンの討伐に参加してほしいのです」
「悪いけど、それは断る」
これもまた即答だった。ヨハンも一瞬たじろいだ様子を見せる。
「……なぜです? 貴方のお力があれば、オブライエン討伐の成功率が格段に上がる」
「なぜって、ボクは研究者を殺す気になれないだけだ。憎悪と等しいだけの敬意がある。事実、オブライエンはボクの何百年も先を――あるいは何千年も先を歩いているんだから」
もちろん、あの日殺せなかった後悔はある。それでも今は殺そうとする気になれないし、そのための手伝いも出来ない。
そのようにヘルメスは続けた。
アリスには研究者という生き物が未知の存在に思えてならなかった。憎んでも憎みきれない。そんな相手さえ、研究者であるという一点を理由に殺そうとしない。他人の心の内側など分かったもんじゃないと常々考えてはいるものの、このときばかりは異様に感じられて仕方なかった。
「それではこうしましょう」とヨハンは次の一手を打つ。「ここにいる全員の解放を条件に、先ほど提示した報酬をお渡しする。それでよろしいでしょうか?」
「それならかまわない」
ただ、とヘルメスは続ける。
「今すぐ全員を解放するのは呑めない」
それからヘルメスは滔々と語った。誰もが彼の言葉に意識を吸い寄せられている。
「こちらにもこちらの事情がある。オブライエン討伐以外に、もうひとつ大事な変数があってね。人間が勝つか、血族が敗北――つまり撤退するかだ。両者を組み合わせると四つのケースに分けられる。詳しく説明すると、こうだ」
第一のケース。戦争で血族が勝利し、なおかつオブライエンを殺せなかった場合。そのときは、ガーミールとヘルメスは予定通り半馬人をオークションに出品する。
第二のケース。戦争で血族が勝利し、なおかつオブライエンを殺した場合。ガーミールともうひとりの血族を死亡させ、残った部下たちは敗残兵として領地に帰還させる。ヘルメスだけはグレキランスに残り、地下で研究を行う。
第三のケース。戦争で人間が勝利し、なおかつオブライエンを殺せなかった場合。ガーミールともうひとりの血族を死亡させ、残った部下たちは敗残兵として領地に帰還する点やヘルメスがグレキランスに残る点は第二のケースと同じ。しかし、研究は半馬人の隠れ家で行い、資金援助や人材は適宜人間側から提供すること。それとあわせて、生き残ったオブライエンの対策も行わねばならないが、そのあたりの見通しはつかない。
「キミたちにとってもボクにとっても望ましいのが、第四のケース。戦争で人間が勝利し、なおかつオブライエンを殺した場合だ。ガーミールともうひとりの血族が死ななければならない点は第二、第三のケースと同じだが、残った部下たちは死んだことにしてボクの研究を手伝わせる。オブライエンの研究所を中心に、グレキランスに留まってもらうことになるな。なに、キミらの気にしてる肌の色だとか血族特有の気配だとかは、ボクの魔術で完全に消しされるから、人間に紛れ込むのは簡単だ。そもそも、もともとみんな人間だし」
ヘルメスの脳内では理屈があるのだろうが、アリスには皆目見当のつかない点がいくつかあった。それはヨハンも同じだったのだろう。
「第一のケースは理解出来ます。ですが、第二、第三のケースで敗残兵として帰還させる意図はなんです? それにガーミールさんと、もうひとりの血族が死なねばならない理由も分かりません」
「最初の疑問に答えると、ボクらは戦果をオークションに出品する約束をヴラドと交わしている。ゆえに手ぶらで故郷に帰るには、戦争終結前後で人間に敗れて逃げ帰った事実が必要だ。そうでなければヴラドの不信を買う。次の疑問だが――」
言って、ヘルメスは肩がけ鞄を漁り、一枚の紙を取り出すと地面に広げて見せた。そしてわざわざアリスとハックに手招きし、皆が座るよう促す。半馬人の拘束だけは維持されたままだった。
アリスが紙に視線を落とすと、「あ」と思わず声が漏れた。グレキランス一帯の地図だったのだ。しかも、今いる森林地帯には旗のマークが立っており、ガーミールと小さく記されている。
「アリスくんとメフィストは、森の末端で旗を見たろう? あれは制圧旗といって、この地帯を自軍が制圧したことを示すシンボルだ。戦果をオークションに出す以上、ほかの貴族の軍から横取りされないための暗黙の了解を、目に見えるかたちにした魔道具。旗を刺せば、その時点でこの地図上に旗のマークが表れる。旗のマークは部隊を率いる者――つまりは貴族の死によって髑髏のマークに変化する。敗残兵として帰還したにもかかわらず、旗のマークが健在であり、オークションへの出品がなかった場合は? 考えずとも分かるだろう? 明白な裏切り行為だ。ガーミールの領地を侵犯する良い口実になる。敗残兵として帰還しない第四のケースでも同じ。全滅したのに旗のマークが健在なのは異常事態だ。これもヴラドの不信を買うだろう。ゆえに第一のケースを除き、ガーミールは確実に死なねばならない」
だとしても、分からないことがある。ガーミールの配下の血族が、もうひとり死ななければならないという点だ。アリスが疑問を口にすると、「それはこちらの事情だ」と淡泊に返された。それ以上聞いてくれるな、とでも言うように。
ヨハンは地図を見下ろして何度か頷き、ガーミールに視線を送った。
「ガーミールさんはよろしいのですか?」
ガーミールの顔には、先ほどのような驚愕や当惑は微塵もなかった。はっきりと頷きを返す。
「問題ない。我が領地には、それなりに成熟した息子たちがいる。戦地に赴く前には、我が死んだときに家督を継ぐよう言い聞かせてあるからな」
自身の死への恐怖だとか不安、不満はないのか、と思ったものの、アリスは開きかけた口を閉ざした。
野暮なことを聞いてどうする。死ぬつもりで戦場に立つのが本物だ。ガーミールは本物だっただけのこと。
「それでは、契約を交わしましょう。すべてのパターンを織り込んだ契約です。もちろん、地上にいるガーミールさんのお仲間を説得したあとで結構です。ちなみに、私の持つ契約の力はご存知でしょう? 報酬の不払いや目的の遂行を断念した場合には、命を失う契約です。異論はないと思いますが、念のため確認しておきます」
ヘルメスはメフィストを見やり、不快そうに眉をひそめた。
「まず説得云々だが、メフィスト、だからキミはゴミカスの一員なのだ。ボクが説明している間、地上にいるガーミールの部隊の血族全員と交信魔術を繋いで合意を結んである。ひとりとして異論は上がっていない。ガーミールとともに散る同胞も承諾してくれた」
優秀なのは分かったが、この性格の悪さはどうにもならないのだろうか、とアリスは肘を突いて思った。ヘルメスにとっては、この世の魔術師の大部分が『ゴミカス』のくくりに入るに違いない。
そして、と彼は続ける。
「契約についてだが、結べない。というより、結ぶ意味がない」
ヨハンが頓狂な顔をしたのも当然だろう。
「その理由は?」
「ボクは死んでも死なないからだ。命を失う契約など意味を為さない」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。実は防御魔術のエキスパート。王都の歓楽街取締役のルカーニアと永続的な雇用関係を結んだ。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』『Side Alice.「ならず者と負け戦」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。外界で活動しているのは彼の分身『二重歩行者』であり、本体は一切の魔術的干渉を受けない檻に閉じ込められている。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ヘルメス』→かつてのラガニアでトップクラスに優秀だった魔術師。ねちっこい性格で、人付き合いの苦手な男。もともと魔術学校で講師をしていたがクビになり、一時期ガーミール公爵に雇用されていたが、彼が零落したことでドラクル公爵に鞍替えした。オブライエンの犯罪的魔術を看破し、彼の右腕と左足を木端微塵にした。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『アルテゴ』→オブライエンの発明した兵器。『固形アルテゴ』『液化アルテゴ』『気化アルテゴ』がある。詳しくは『間章「亡国懺悔録」 幕間37.「アルテゴ」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。また、グレキランス一帯の地方を指して用いられる。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より
・『半馬人』→上半身が人、下半身が馬の種族。山々を転々として暮らしている。ほかの種族同様、人間を忌避しているが『命知らずのトム』だけは例外で、『半馬人の友』とまで呼ばれている。察知能力に長け、人間に出会う前に逃げることがほとんど。生まれ変わりを信仰しており、気高き死は清い肉体へ転生するとされている。逆に生への執着は魂を穢す行いとして忌避される。詳しくは『436.「邸の半馬人」』『620.「半馬人の友」』にて
・『夜会卿ヴラド』→黒の血族の公爵。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『毒色原野』を越えた先に彼の拠点が存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。不死の力を持つ。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』『927.「死に嫌われている」』にて
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。現在は『灰銀の太陽』のリーダーの役目を終え、半馬人の集落で暮らしている。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『メフィスト』→ニコルと魔王に協力していた存在。ヨハンの本名。現在はクロエと契約し、魔王討伐に協力している。初出は『幕間.「魔王の城~尖塔~」』
・『制圧旗』→旗状の魔道具。血族に配されたグレキランスの地図と連動しており、旗が刺された地点が地図にマークされる。制圧旗は通常の手段では破壊出来ず、各軍の指揮官が死亡した場合に消滅する。その際、地図のマークは髑髏に変化する。諸侯同士による獲物の横取りを防ぐために開発された。血族の部隊長クラスがそれぞれ所有しており、旗を突き立てる仕草を行うことで出現し、効力を発揮する。詳しくは『幕間「落人の賭け」』にて
・『魔道具』→魔術を施した道具。魔術師であっても使用出来る。永久魔力灯などがそれにあたる。詳しくは『118.「恋は盲目」』『間章「亡国懺悔録」』にて