986.「ひとりと半分の奪還部隊」
「お手柄です、お嬢さん」
『不夜城』の頂点に降り立つと、ヨハンは開口一番、労いの言葉を発した。相変わらず不健康そのものの風体で、目の下にはくっきりと隈が刻まれている。
日頃から寝不足と疲労を詰め込んだ顔をしているものだから、こうして帰ってくるまでの間に休憩を取ったのかどうかも定かではない。それを確かめる気もなかった。律儀に塔の縁でわたしの帰りを待っていたとしても、逆に惰眠を貪っていたとしても、どちらでもいい。関心がない事柄をあえて確認するのは無駄だ。
これもどうでもいいことだが、ヨハンは言葉に反して、さしたる喜びはなさそうだった。
「スピネル、お疲れ様。急に起こしてごめんなさいね。あとはゆっくり休んでいいわ」
ヨハンを無視してスピネルを労うのは、たぶん正しいはずだ。もちろんそれはわたしにとっての正しさではなく、ヨハンが納得するかどうかの問題である。ちゃんとコミュニケーションを取っているように見せれば、彼としては満足だろう。
「あざっす、姉さん。それじゃ、お言葉に甘えて寝るっす。なんかあったら遠慮なく起こしてください!」
そう返して頂上の家屋のひとつに向かったスピネルが、はたして空元気なのかどうか、今のわたしに判別することは出来ない。仮に無理をしているとしても、わたしに癒やせるものではない。
ナルシスはというと、本来非番だった交信魔術師となにやら会話している。塔の縁に立つわたしには聴こえないけれど、おおかた、彼が空中で送信した内容が遺漏なく、ほかの拠点まで伝達されたかを確認しているのだろう。
「今のお嬢さんの実力はシフォンさん以上なんですなぁ、心強い」
ヨハンの口調は今のわたしにも分かるくらい上の空だった。
別に返答する必要もなかったので無視しようと考えたのだけれど、思い直す。
「わたしはシフォンよりも強くない。自分ひとりだったら負けてた」
ヨハンは物事を正確に知っておくべきだ。少なくとも、わたしの強さ――つまり使いどころは彼が頭のなかで拵えているであろう作戦にも影響するだろう。別にヨハンの指示に従うつもりもないけれど、誤った評価のまま立案された戦術に組み込まれる可能性は消しておきたい。
ヨハンは塔の先でわだかまる靄からわたしへと顔を向けた。心持ち、目が見開かれている。
「誰かと共闘したのですか?」
「シンクレールが魔術で隙を作った。それがなければ、わたしは死んでた」
ありのままの事実だ。自分がシフォンに遠く及ばなかったことは体感している。死の瞬間さえ、肉体が予期していた。
ふ、と隣で吐息が漏れた。
「例の言葉、シンクレールさんにお伝えしましたか?」
頷きを返す。例の言葉とは『生きてて良かった』のことだろう。ちゃんと伝えた。
「彼が生きていたのは僥倖です。しかし――」そう言って、ヨハンは一枚の紙切れをわたしに向けた。『共益紙』だ。「この内容はどういうことです? 先ほど交信魔術師へ送った内容もそうです。前線基地に敵を差し向けるつもりですか? さすがのシンクレールさんも単体でどうにか出来るわけがないでしょうに」
なにも知らなければ、わたしの虚偽情報は生き残ったシンクレールを抹殺するような意味に捉えられかねない。それはそれで前線基地の在るべき姿だとは思うけど。
そもそもシンクレールの生存もそうだし、シフォンが死んでいないことくらいヨハンも把握しているはずではないか。わたしの片目は彼と共有されているのだから。そして、耳から入った情報も彼に筒抜けであることは、当人もいつだったか自白したはず。
ヨハンはわたしの疑問を察したのか、深く溜め息をついた。
「昨晩色々ありましてね、お嬢さんの情報を一時的に遮断せざるを得なかったんですよ。今も遮断したままですので、お嬢さんが前線基地でどう立ち回ったのかも知りません。ですから、詳細を聞かせていただけませんか?」
色々か。それなりにトラブルがあったのだろう。そしてそれは今も続いている、と。わたしの知ったことではないけど。ただ、彼の誤解を解く必要はある。
「前線基地にはシンクレールだけじゃなくて、簒奪卿とシフォンが生き残ってる。二人ともシンクレールに協力するらしいから、戦力としては問題ない」
一瞬ヨハンは身体を硬直させ、それからゆっくりと腰を下ろし、肩の力を抜いたようだった。見下ろすわたしに彼の表情は分からない。
「簒奪卿はともかくとして、シフォンさんは生きていたんですね」
「正確には殺せなかった。殺そうとしても駄目だった」
「それはなぜ?」
顔を上げたヨハンは、すっかり口元が緩んでいる。
「言葉通り。殺そうとしても身体が言うことを聞いてくれなかった。シンクレールにも邪魔された。とりあえずわたしに服従するって約束したから、代わりにシンクレールに服従するよう命令した」
我が事ながら、意味の分からない命令だった。意図していないのに口が勝手に言葉を発していたのだから、どうしようもない。
「上出来です」と笑うヨハンは、まったくもって意味不明である。わたしとしては不出来極まりないのに。まあ、彼がどんな想いでいるのかなんて関心事ではないけど。
「とりあえず状況は理解しました。お嬢さんが偽りの情報を流した理由も妥当です。あのシフォンさんが健在なら、前線基地を突破される憂き目はないでしょうから。簒奪卿の動きまでは私にも読めませんが、まあ、シンクレールさんが上手く懐柔したのでしょうね」
ヨハンは手招きした。
「なに?」
「こちらに顔を寄せてください」
ヨハンに顔を近づけると、彼の右手がわたしの左目を覆い、左手が右耳を覆う。どうせろくでもないことをしているに違いない。以前のわたしなら彼の秘密主義にうんざりしたことだろうが、今となってはどうでもいいことだ。
「お嬢さんの昨晩の情報を確かめさせていただきます。なに、お嬢さんを疑っているわけではありませんのでご安心を。情報を取捨選択して渡すべき相手がいるのです」
「渡すべき相手?」
「高原に住むろくでなしのことですよ」
ああ、ルーカスのことか。彼とも左目を共有しているわけだけど、ヨハンが遮断したのであれば、ルーカスにも情報は伝わっていないに違いない。そもそも戦争における人間側の情報のほとんどはヨハンによって遮断されているはずだ。ルーカスはこちら側に利するような男ではないし、人間側として戦力になることを約束したわけでもない。
そんな相手に情報を渡すのは、おかしな話だ。まあ、ヨハンが頭のなかでなにを計算しているのか知らないし、興味もないけど。
ヨハンがわたしの顔を解放すると、ゴキゴキと自分の首を鳴らした。
「情報に関してはこれでいいとして」彼は再び『共益紙』に目を落とす。「半馬人の隠れ家について、お嬢さんはどうするおつもりで?」
「どうもしない」
今回の戦争において、半馬人は監視役を担っていた。それが失われたのは人間側としては痛手だろう。しかし、躍起になって助け出すほどの重要度でもない。それに『共益紙』にフェイクの情報を流せるというメリットも生まれた。
ヨハンは肩を竦め、「でしょうね」と呆れ声で言う。以前のわたしなら、きっと『不夜城』に帰還してすぐに半馬人の隠れ家のある高原へ向かっただろう。なんなら前線基地から直行したかもしれない。敵の軍勢も分からないまま。愚の骨頂だ。
ただ、以前のわたしと同じくらい愚かな奴がいたらしい。
「半馬人襲撃の報せが記されたのは昨晩です。その時点で、私は彼らの救出に向かいました」
「でもあなたはここにいる」
「ええ。本来、わたしはここにはいなかったわけなんでさぁ」
ヨハンが『煙宿』を離れること自体、悪手だ。参謀のようなものなのだから。
簒奪卿以外の血族が前線基地を無視して北東の山岳地帯を進んだのであれば、今夜あたりには『魔女の湿原』の先にある高原の奥地――ロンテルヌなる町に到達することだろう。その後の進行ルートは不明だが、湿原を直進して王都へ向かう勢力がいてもおかしくない。湿原に位置する『煙宿』は、その類の勢力とぶつかる役目を負っている。つまりは早晩、湿原内は戦場になることだろう。そこにヨハンがいないとなると、半馬人の隠れ家が落ちたこと以上の痛手になる。
その程度のことは当人も自覚しているはず。それでも救出に向かおうとして、思い直したということか。
しかし、実際は違った。
「『煙宿』を出る前にお嬢さんの物騒なご友人に見つかりましてね、彼女が仕事を買って出てくれたのですよ」
なるほど。その友人とやらに任せて、ヨハンはここにとどまったわけか。
わたしの友達なんて、数えるほどしかいない。そのなかで物騒な女性と言えば、思い浮かぶのはひとりだ。
「それで、アリスが向かったわけね。『煙宿』の兵を何人連れていったの?」
ハックの『共益紙』に記されていたのは隠れ家へ血族が侵入したという情報であり、敵の数や大将は明らかになっていない。とはいえ、どこかの貴族の軍勢が占拠したと見積もるのが妥当だろう。となると、こちらもそれなりの戦力を出さねばならない。
ところが――。
「向かったのはアリスさんだけですよ。厳密には、ひとりと半分、といったところです」
奪還作戦として適切かどうかはさておき、ヨハンの言葉の意味するところは理解出来た。わたしから提供される視覚および聴覚を遮断せざるを得ない理由もそこにある。脳の情報処理能力に限界があるのは自明だ。
ひとりと半分。
つまりはアリスと、ヨハンの半身――『二重歩行者』が動いているのだろう。半馬人とハックの救出のために。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『不夜城』→『煙宿』の中心にそびえる塔のこと。富裕層や要人が住まう。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』にて
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。戦争において簒奪卿の部隊に配属されたが裏切り、血族も人間も殺戮した。自分の感情も思考も持たず、ニコルに従っている。前線基地にてクロエに敗北し、彼女の命ずるまま、現在はシンクレールに従っている。風の魔術の籠もった貴品『シュトロム』を使用。実は騎士団長ゼールの養子。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』『幕間「或る少女の足跡」』『幕間「前線基地の明くる日に」』にて
・『スピネル』→二度目の『霊山』来訪で出会った、薄黄色の鱗の竜人。臆病で、長いものに巻かれる性格。クロエが無理やり『霊山』に押し入ったことにより、門番をしていた彼も裁きを受ける手はずになっていた。クロエが竜人の族長となったことで無罪放免となり、それから彼女を「至高の星」と呼んで心酔し、自ら下僕関係を望んだ。「至高の星」とは、竜人を含めた世界全部を良くする存在なんだとか。詳しくは『第四章 第二話「幻の森」』にて
・『ナルシス』→王都の騎士団に所属している交信魔術師。自信家で演技口調。しかし交信魔術の腕前は送受信ともに優秀。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー①前線基地ー」』にて
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『共益紙』→書かれた内容を共有する紙片。水に浸すと文字が消える。詳しくは『625.「灰銀の黎明」』にて
・『前線基地』→王都北東の山脈にほど近い場所の山岳地帯に作った、戦争における要衝。血族の侵入経路と王都を直線上に結ぶ位置にあるため、全滅は必至であり、足止めの役割がある。総隊長としてシンクレールが配備されている。簒奪卿シャンティおよびシフォンの襲撃によりほぼ壊滅した。詳しくは『第四章 第二話「幻の森」』『第四章 第三話「永遠の夜ー①前線基地ー」』にて
・『簒奪卿シャンティ』→黒の血族で、ラガニアの子爵。過剰な装飾と肉体改造を施した、傲慢で残虐な女性。同族の土地へと侵略を繰り返す様から、簒奪卿の異名がつけられた。固有の異能である液体操作を持つが、有機物に限っては相手の意識がなければ操れないという制約がある。加えて、スライムを使役する。リクの腹違いの姉。戦争において前線基地を襲撃したが、シフォンの裏切りにより全軍壊滅。現在はシンクレールと行動をともにしている。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー①前線基地ー」』にて
・『ルーカス』→『魔女の湿原』の北に広がる高原に住む『黒の血族』。銀色の梟面を身に着けた小太りの男。父である『巌窟王』と一緒に暮らしている。同じ血族であるマダムに攫った人間を提供していた。血族のみ参加出来るオークションで司会をしていたが、クビになった過去を持つ。クロエをオークションに出品する優先権を持っている。ハルピュイアを使役する権能を有し、特殊な個体である赤髪のハルピュイアとは独自な契約関係にある。マゾヒスト。詳しくは『472.「ほんの少し先に」』『609.「垂涎の商品」』にて
・『半馬人』→上半身が人、下半身が馬の種族。山々を転々として暮らしている。ほかの種族同様、人間を忌避しているが『命知らずのトム』だけは例外で、『半馬人の友』とまで呼ばれている。察知能力に長け、人間に出会う前に逃げることがほとんど。生まれ変わりを信仰しており、気高き死は清い肉体へ転生するとされている。逆に生への執着は魂を穢す行いとして忌避される。詳しくは『436.「邸の半馬人」』『620.「半馬人の友」』にて
・『煙宿』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。ゆえに人探しはご法度。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」「煙宿~②不夜城~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『魔女の湿原』→王都の北部に広がる湿原。湿原の中には、ならず者の生活する宿場町『煙宿』が存在する。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』にて
・『ロンテルヌ』→『魔女の湿原』の先に広がる高原地帯に存在する町。『黒の血族』である『マダム』が作り出した、地図にない町。人身売買の温床となっていたが、クロエたちの活躍により『マダム』が討たれ、現在は無人の土地となっている。詳しくは『第二章 第五話「ミニチュア・ガーデン」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。実は防御魔術のエキスパート。王都の歓楽街取締役のルカーニアと永続的な雇用関係を結んだ。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』『Side Alice.「ならず者と負け戦」』にて
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。現在は『灰銀の太陽』のリーダーの役目を終え、半馬人の集落で暮らしている。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『二重歩行者』→ヨハンの得意とする分身の魔術。影に入り込んで移動することが可能。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて