985.「交信魔術師ナルシスと二重の誤情報」
風の唸りが絶えず耳を揺さぶり、髪が嬲られる。わたしは白みつつある空を眺めていた。真下には雲海が広がっていることだろう。
「何度でも言うんすけど、マジでヤバいっすね、姉さん! ずっと空から見てたんすけど、正直、なにがなんだか分かんなかったっす。姉さんがバッチバチに火花散らすくらい強敵だったっぽいっすけど、それでも勝っちまうんすから!」
わたしを片手で掴んで飛行しつつ、スピネルはやけに饒舌に喋った。もう何度目かも分からない賛辞だ。そして彼自身は、わたしが地上でどのような戦闘を繰り広げたかなど、ほとんど把握出来なかっただろう。
「褒めてくれてありがとう、スピネル」
わたしの返事も、もう何度目か分からない。飛行中の暇な時間を、無駄なコミュニケーションに充てているだけだ。
そして喋るのはスピネルだけではない。
「嗚呼、私もスピネル氏と同感だ! あのシフォンを倒すとは大金星に違いない!」
スピネルの左手に掴まれたナルシスが、わざとらしく手を大きく広げて声を上げる。横顔には恍惚がありありと浮かんでいた。
ナルシスに対しては特段返事をしない。前線基地を離れてすぐに詠嘆の言葉を投げかけられたので『どうもありがとう』と言ってみたのだが、ものの見事に無視されたのだ。これはたぶん、わたしの感情喪失によるコミュニケーションの欠陥ではないだろう。ナルシスという男は、相手の返事などおかまいなしに自分の世界に浸ってばかりいるに違いない。だから彼とは必要な事柄以外の言葉を交わす意味はなかった。
ヨハンの命じた『円滑なコミュニケーション』も、相手次第で無意味となるわけだ。
ただ、ナルシスに関して意外だったこともある。これも前線基地を離れてすぐの言葉だが――。
『クロエ氏の戦闘は実に見事だった。戦闘能力の点で言えば、騎士団でも随一と保証しよう! このナルシスのお墨付きはなかなか得られないものだよ! クロエ氏の魔具は魔術をコピーする力を持っている。ゆえにシフォンの視えざる刃を吸収し、自分の武器としたわけだ。凡人ならばその成果に足を取られて、会得したばかりの飛ぶ斬撃に固執してしまう。しかし! しかしクロエ氏はそれではシフォンに及ばないことを悟り、早々に接近戦に持ち込んだわけだ』
ナルシスは交信魔術に長けているだけではなく、視力も随分良いようだ。そして魔力を正確に感知する力も持っている。でなければシフォンの刃について『視えざる』と表現すること自体不可能なのだから。
『それにしても、クロエ氏が血族化してもシフォンに並び立てなかったのは意外だ。異常な治癒能力をもってしても分が悪かったのも事実』
彼に対して、わたしが血族の血を引いていることや、戦闘で気が昂った際には皮膚が血族のそれになることは説明していない。治癒力に関しても同じだ。
『氷の魔術の援護がなければ負けていた、というのが私の率直な感想だが、結果がすべて! 嗚呼、クロエ氏は一瞬のチャンスを決して逃すことなく敵を討ち取ったのだ!』
わたしがシフォンに及ばなかったことさえ、ナルシスは見抜いていたわけだ。大した観察眼である。奇怪な性格でさえなければ、誰にとっても重宝される逸材だろう。そして彼の特殊な性格は、わたしにとってはメリットだ。余計なコミュニケーションが不要という利点よりも、ずっと大きい別の要素がある。
ナルシスが得意気に解説をしたわけだが、わたしが血族の肌になったことに関して、通常予期されるリアクション――怯えるだとか怪訝に思うだとか――はなかったのだ。王都に与している以上なんの問題もない、とはナルシス自身の言である。当然ながら『血族化したのは見間違えよ』と嘘をついてみたが、即座に見抜かれた。
『興奮すると肌の色が変わっちゃうのよ』
『実は一時的に血族の力を得ることが出来る特別な道具があるの』
『道具由来じゃなくて、わたしの特殊能力。血族の力を発揮出来るの』
これらの嘘は次々と看破された。彼曰く、もともと騎士団の交信魔術師ではなく真偽師だったが、性格を理由に見習い期間でクビになったらしい。ゆえに大抵の嘘は見抜けるとのことである。彼の過去に関する真偽のほどは定かではないが、わたしの嘘を見抜き続けた実績はある程度の証明にはなっている。
試しに血族と人間のハーフであることを白状すると、ナルシスは短く口笛を吹いて『嗚呼、ようやく本音が聞けた。もちろん、このことは秘密にしよう。ふふ、私は決して約束を破らない男だ! 安心したまえ、クロエ氏!』だなんて返された。
人の本心なんて分からないが、バレてしまった以上仕方のないことだ。それに、わたしが実は血族だと吹聴したところで、おそらくナルシスの言葉をまともに受け取る人間は多くないだろう。
ふと気になって確認したのだが、ナルシス曰く、わたしから血族の気配は感じられないとのことだった。血が――つまりは体内のアルテゴが相当薄いのだろう。これまでだって、わたしから血族の気配を感じ取った相手はいないと記憶している。『白銀猟兵』の攻撃対象になってしまうのは、微量のアルテゴにも反応する機構になっているからだろう。そればかりは致し方ないことだ。
以前のわたしであれば図々しさを感じたことだろうが、ナルシスにこんな依頼もした。各拠点にシフォンを討ち取った、つまり命を奪ったと交信するように。加えて、前線基地が今現在丸腰であり、血族の接近もない以上、援軍不要であることも。つまり、シフォンの生死以外はわたしが『共益紙』に書いた内容とほとんど同じことを伝えるよう要求したわけだ。前線基地の様子や戦闘結果に関して、彼がまだ交信魔術での伝達を行っていなかったのは幸いだった。ただ、交信魔術で虚偽の情報を流すのをナルシスが渋ったのは、彼の立場からすれば当然だろう。
『シフォンが全面降伏し、人間側に利する存在になったのは理解しよう。前線基地で敵を待ち受けるという思惑も悪くない。しかし! しかしだよクロエ氏! この交信内容は敵に傍受される前提ではないか! 嗚呼! 嘆かわしい! 私の交信魔術が敵に筒抜けになってしまうような代物だと思っているのだね!? それはありえない! クロエ氏に説明しても理解いただけるか怪しいが、各拠点への交信相手に届く前に、なんらかの手段で傍受しようとするなら、それは当然魔術によるものだろう。私の交信には強力な防護が張られているのだ。したがって、万が一にも敵の耳に入ることはない!』
『でもほかの交信魔術師はそうじゃないでしょ? あなたほど優秀じゃないと思うし』
『イエス! 私がトップだ! 確かに凡百の交信魔術師ならば、傍受される可能性はゼロではない』
『だったら、わたしが要求する交信内容を煙宿の交信魔術師だけに送って頂戴。そこから各拠点に交信するように命令すればいいわ。あなたはどこにいたって交信が出来るでしょうけど、普通の交信魔術師はひとつところで交信するのが普通。そうでしょ? だから今だけは普通の交信魔術師を装って、とりあえず煙宿にだけ交信を送ればいいわ』
『……つまり空中を高速で移動している以上、能力の限界ゆえ、煙宿にしか交信出来なかったというシナリオかい? かまわないよ。クロエ氏が私の優秀さを甘くみているのかと思ってついつい嘆いてしまったが、そういう算段であれば私も異論はないさ。凡人どもにどう思われようと私は一向に気にしないが、クロエ氏、貴女のような優秀なひとに実力を見誤られるのは我慢ならないのだよ』
かくして、偽の情報が交信されたわけだ。ナルシスが防護云々を持ち出したのは、単に彼のプライドの問題だろう。交信の防護に関しては、わたしとしても問題視していない。ほかの交信魔術師もその程度は心得ている。人間側の情報共有手段においてもっとも警戒すべき点だから。ゆえに、拠点に配置された交信魔術師は防護について事前に訓練を受けている。これは『共益紙』経由で騎士団長のゼールから伝達された事柄だ。
なら、なぜ偽の情報を撒いておくのか。
傍受よりも容易に情報を掴む手立てがあるからだ。交信魔術師の身柄を押さえるか、交信魔術師の誰かが裏切れば、血族としては楽だろう。
『共益紙』の情報と交信内容の漏洩。それら両方に齟齬がなければ、敵は安心して前線基地に兵員を割く。安全が保証されているようなものだから。上手く罠にかかってシフォンに殲滅されればいいし、もし彼女たちが撃破されたとしても、それはそれで前線基地の意義に沿っている。
「そろそろ到着っすよ!」
スピネルの声とともに、高度が下がる。
やがてわたしの目は、『不夜城』の頂点を捉えた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『スピネル』→二度目の『霊山』来訪で出会った、薄黄色の鱗の竜人。臆病で、長いものに巻かれる性格。クロエが無理やり『霊山』に押し入ったことにより、門番をしていた彼も裁きを受ける手はずになっていた。クロエが竜人の族長となったことで無罪放免となり、それから彼女を「至高の星」と呼んで心酔し、自ら下僕関係を望んだ。「至高の星」とは、竜人を含めた世界全部を良くする存在なんだとか。詳しくは『第四章 第二話「幻の森」』にて
・『ナルシス』→王都の騎士団に所属している交信魔術師。自信家で演技口調。しかし交信魔術の腕前は送受信ともに優秀。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー①前線基地ー」』にて
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。戦争において簒奪卿の部隊に配属されたが裏切り、血族も人間も殺戮した。自分の感情も思考も持たず、ニコルに従っている。前線基地にてクロエに敗北し、彼女の命ずるまま、現在はシンクレールに従っている。風の魔術の籠もった貴品『シュトロム』を使用。実は騎士団長ゼールの養子。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』『幕間「或る少女の足跡」』『幕間「前線基地の明くる日に」』にて
・『前線基地』→王都北東の山脈にほど近い場所の山岳地帯に作った、戦争における要衝。血族の侵入経路と王都を直線上に結ぶ位置にあるため、全滅は必至であり、足止めの役割がある。総隊長としてシンクレールが配備されている。簒奪卿シャンティおよびシフォンの襲撃によりほぼ壊滅した。詳しくは『第四章 第二話「幻の森」』『第四章 第三話「永遠の夜ー①前線基地ー」』にて
・『魔具』→魔術を施した武具のこと。体内の魔力が干渉するため魔術師は使用出来ないとされているが、ニコルは例外的に魔術と魔具の両方を使用出来る。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『真偽師』→魔術を用いて虚実を見抜く専門家。王都の自治を担う重要な役職。王への謁見前には必ず真偽師から真偽の判定をもらわねばならない。ある事件により、真偽師の重要度は地に落ちた。詳しくは『6.「魔術師(仮)」』『261.「真偽判定」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『アルテゴ』→オブライエンの発明した兵器。『固形アルテゴ』『液化アルテゴ』『気化アルテゴ』がある。詳しくは『間章「亡国懺悔録」 幕間37.「アルテゴ」』にて
・『白銀猟兵』→人を模した、ずんぐりとした物体。オブライエンの量産している兵器。指令を送ればその通りに行動をすることが出来る。動きは機敏で、硬度は高い。破壊時に自爆する。詳細は『幕間.「白銀空間~潜入~」』『幕間.「白銀空間~白銀猟兵と一問一答~」』『幕間.「白銀空間~魔具制御局~」』にて
・『共益紙』→書かれた内容を共有する紙片。水に浸すと文字が消える。詳しくは『625.「灰銀の黎明」』にて
・『煙宿』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。ゆえに人探しはご法度。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」「煙宿~②不夜城~」』にて
・『ゼール』→騎士団長。王都の騎士を統括する存在。双剣の魔具使い。実はシフォンの養父。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』『第九話「王都グレキランス」』『幕間.「王都グレキランス~騎士の役割~」』にて
・『不夜城』→『煙宿』の中心にそびえる塔のこと。富裕層や要人が住まう。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』にて




